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内なる神性を表現する二つの楽曲

内なる神性がこれからのテーマであるが、それを見事に表現したものを紹介したい。以下に紹介する二つの楽曲である。この二つのビデオは少し前のものではあるが、人類の文化遺産とまで言っても差し支えないと思う。特に歌詞をよく理解するとよい。歌詞を説明しているWEBページはたくさんあるので、意味を理解すると、また受け取る波動が違うのではないだろうか。






内なる神性を言い表す

サブタイトルを「神性の目覚めへ向けて」に変えた。こちらの方が「霊性の文化への序章」よりわかりやすいですよね、たぶん。霊性ということばはあまり普及していない。というか、「霊」ということばが日本では曖昧なので・・ 霊とは幽霊というか、物質を持たない意識体のことだ、という意味がまず最初に来ることが多いだろう。英語で Spirit というと、それは神の別名であって、宇宙の根源にある何かという理解になり、キリスト教系の訳語での「霊」はそういう意味で用いる。聖書で霊というのはそういうことである。しかし日本語ではそこまでの連想がすぐに浮かぶことはないだろう。「スピリチュアリティ」と、そのままカタカナ語で表記することが一部の学者の間でなされているが、そのカタカナ語は何となく軽薄な語感があるので私は使用しない。

学者がスピリチュアリティーという時は何でもかんでもつめこみすぎだと思う。違う次元のことが見えるとか聞こえるみたいなことまで含んでしまっている。それではオカルトと区別がつかない。

そういうのはまったく本質と関係ないことである。たしかに宇宙が多次元であり、次元間の交流というものがあり得ることを言うのは重要ではある。しかし本質はあくまで「内なる神性の目覚め」でなければならないのである。そこで日本では、霊性というより神性と呼ぶ方がいいのである。霊という言葉からの変な誤解がない。これは仏教で「仏性」ということと同様であって、仏を神に置き換えているだけである。神道でも内なる神性を認めるのであるから差し支えはないであろう。同時に西洋的な意味もそこに込めている。

内なる神性の開顕ということが本質であり、そこがこれからの文化の基本的な進化方向である、ということである。それよりも広い意味で「スピリチュアリティー」などという語を用いる場合は、内なる神性、つまり人は本来神であるという理念があまりはっきり入っていない宗教伝統をもそこに取り込もうという意図があるのかもしれない。つまり、そこに自分の価値判断を持ち込みたくないというか、内なる神性と言っている伝統を重要視し、そうでないものを軽視するのにはためらいがある、ということかもしれない。

だがこうした「気遣い」は無用であろう。これからは、内なる神性ということをはっきりと言っていないものは「道の途上」にあるものと位置づけ、神性を言っているものがこれからの人類文化にとって重要になる、という価値判断をはっきりとしていかなければならないのである。そういうことをはっきり言おうとせずあちこちに気兼ねしているからいつまでも何が言いたいのかよくわからない言い方になる。そういう「宗教研究者」はあまり世の役に立っていない。既存の宗教すべてにいい顔をすることはできないのである。これから宗教がありうるとすれば、それは「宗教をなくすための宗教」以外にはない。全ての人が、自分の中に神性があると気づいたら宗教は不要になるのだ。宗教が統一されるということは宗教がなくなることなのである。ただ現時点として、内なる神性を目覚めさせるという目的で、先に進んでいる人の回りに人が集まるということは必要だし、否定されてはならないだろう。しかしそれはかなり緩いネットワークの形になっていくのではないか。

私の個人的な感覚であるが、「霊性の文化」というより「神性の目覚め」と表現した方が、波動が上がるような気がするのだが、いかがであろうか?(笑)

哲学と神学の分離、神と人の分離について

前項の続きです。

そこで、もし人類の根本的な探求の歴史を総括する、という目的を立てたとしますと・・
ここで探求というのは、宇宙の根源、自己の根源についての探求、叡智の探求ということですが・・
次のような叙述になってくるのではないかと思います。

哲学の前史としてのシャーマニズム
ギリシア哲学(前ソクラテス、古典期)
ヘレニズム時代の哲学(プラトン主義的キリスト教哲学を含む)
インド哲学
仏教哲学
中国・日本における哲学的伝統
ヨーロッパ中世の哲学・神学
イスラム哲学・神学(これについては詳しく知らないが・・)
ヨーロッパにおける近代哲学の成立(神学との分離、科学、啓蒙主義など)
ヨーロッパにおける非-近代、反-近代の思想の台頭
未来の「人類哲学」とは?

ギリシア哲学、ヨーロッパ哲学とかじゃなく「人類哲学」とならなければいけないわけですね。

もう一つ重要なことを書いておくことにします。

もともと伝統的なヨーロッパ文明では、哲学と神学は一体のものと見なされていました。
神学というのは、理性で到達できないことを知ることに関する学問です。それを「信仰」と呼びますが、これはいまの日本人の信仰という言葉のイメージとは違います。「私は・・・を信じる」とある教義を本当と思う、というだけの意味ではありません。「理性で到達できないことが何らかの方法で明かされる、その真理の啓示を受け取る」ということを意味しています。

このことがわかってない知識人も多いですよ。だから、宗教なんて古いものを捨てて理性のみによって探求する近代になったのだ、近代はいいねえ、みたいな価値観がまだ生き残っているわけです。ここでの問題は、「私たちは、理性で到達できないはずのことを知ることができるのか」というきわめて根本的な問題なのです。「知ることが出来るはずがない」と切り捨ててしまったのが近代精神なのです。ところが「何らかの方法で知ることが可能だ」と考えるとまったく違った世界になります。もちろん「可能だ」とする答えが正しいかどうかは、当然ながら、理性的には証明できません。もしできるとしたらそれは矛盾そのものになるのはおわかりですね。

ですので、「神学と哲学が分離した」ということが決定的に「近代の知の地平」を作ったわけです。これが重要なポイントです。神学を切り捨てた上で成り立っているのが近代哲学なのです。それを自明とする価値観に立つ限り、そこで何が失われたのかという問いは生まれません。

この分離は、14世紀以降に、オッカムとかドゥンス・スコトゥスなどの神学者によって推し進められたと考えられています。この頃からキリスト教の世界では、「神を絶対視する」傾向が強まります。つまり、神とはまったく人間に推し量ることが出来ない絶対的なもので(それはその通りでしょうが)、そもそも神の領分に人間の知性がどうこうできるなんて考えそのものが冒涜である、という価値観が強くなりました。つまり、存在とは何かとか、そういうことは知性的に問うことは傲慢であって、それはただ信仰のみを頼りとすべきである、とするのです。

それ以前では、「照明説」というのがあって、つまり「人間の知性は神による照明を受けて高められうる」という考えがありました。これはアウグスティヌス以来の一つのヨーロッパ文明の伝統でもありました。その神の照明によって、人間の知性は、絶対的な真理にまで到達できないにせよ、あるところまで人間を連れて行ってくれ、啓示による真理の受け取りにつながっていく、みたいな、知性と信仰(霊的啓示)は協同するものだという考え方が中世では多かったのです。上のオッカムらの意見は、こういう伝統をまっこうから否定するという意味がありました。

実はこうした「神の絶対化」、神をまったく人間とは関わりないくらい絶対的な存在と見なすという流れが、プロテスタンティズムを生み出したものでもあります。たとえばカルヴァン派の見方では「そもそも神は、誰を救済するかをすでに決めている。人間がどうこうしようとそれはまったく神の意志には関係ない」というところまで行っています。普通の宗教だと人間がいい生き方をすれば神はそれを認めてくれるだろうと思うわけですが、そう考えることは人間のようなものが絶対的な神の意志に影響を与えることになってしまうからこれも神の冒涜である、という考え方をするのです。ここまでいくと普通の日本人にはついていけないと思います。つまりこの考え方はあまりに「神と人間は絶対的に違う」ことを強調するのです。しかし日本人の精神性はもともと神道的な「神と人間は一体」というか、家族のような感覚があるので、こうしたプロテスタンティズムの神学は最も日本の精神性から遠いものでしょう。

ここでおわかりのように、近代のヨーロッパ文明では「神と人間を切り離す」という方向に強く動きました。その結果、「神ぬきで人間は世界を認識し、コントロールするのだ」という思想にいたりました。これが近代文明を動かしている動機です。神を自分の世界から分離することによって、物質世界をコントロールすることに全力を傾けるような文明でした。

オッカムたちは、あくまで、神の絶対性を強調するためにそうしたので、彼ら自身は極めて敬虔な人物だったはずです。しかし結果として、そこまで人間と関係ない神だとしたらもはや神のことを考える必要もなくなるわけで、そこから物質主義的な文明になってしまったわけです。神の代わりに「人間の理性」を掲げるという啓蒙主義が生まれましたが、大戦とか、アウシュビッツみたいなものが起こって、人間が自分たちで理想的な文明を作る能力はないのではないか、との見方が拡がりました。

そして精神文明としては、「神と人間をあまりに分けすぎた」ことを認識するようになり、人間がいかにして、その根源にある聖なるものと関わり、知ることが出来るのかという探求がまたスタートしました。カレン・アームストロングの『神の歴史』という本はそういうこれまでの歴史の総括になっていたと思います。神を自分の外にではなく、内に見出さねばならないらしい、と近代欧米人も気がついてきた、ということがその本で示されています。

哲学に間違っていることの証明というものはありませんが、神を人間の外にあるものと見なす見方の限界が明らかになったのが近代ヨーロッパの歴史ではないかと思います。限界というのは、それはどのような文明をもたらすか、という視点でのことです。

現在において再び「神」について思考するとはどういうことなのか? ・・こうしたテーマの本などが英語圏にはたくさんあるのですが、こういう議論は日本の知識人はあまり関係ないようですね。そもそも彼らは、自分がそこに生きていることの根底についてぎりぎりまで考えたことがあるのでしょうか? 欧米人にはつねに神との対話、ないし対決というテーマがあるのですが、それはちょっとくらい勉強しただけではなかなか肌感覚としてわからないかもしれません。

そうしたテーマを扱うものとして「現代神学」があります。ここにいろいろ面白いものがあります。いま、佐藤優が勧めている神学ではありません。あれは日本人に最も遠い正統派のプロテスタンティズム神学であって、あれを勉強しても日本人に得るものは多くないと私は考えます。

日本の知識人には神学の知識がありません。すでに神学と哲学の分離が完了してしまった「事後」の地点でしか思考ができません。そこに限界があると思っています。そもそも大多数の日本の知識人は「自分の頭脳を超えている知性体」がこの存在世界の中、あるいは彼方にある、との実感的な感覚を持てないでしょう。それでは、欧米人の思考は本当にわからないというだけではなく、近代以前の日本人、アジア人の思考もわからないと思います。

近代ヨーロッパ哲学はグローバルスタンダードではない

さて、そろそろ今年のブログ始動です(笑) はっきり言って時間があるのは2月末~3月と8月中旬~9月中旬だけです。その他の期間はいろいろあってなかなかブログを書こうという気分にはなりません。

さて私は、「哲学」の一科目だけは教えていますが、その他はとくだんスピリチュアルに関わった仕事をしているわけではありません。別に哲学の学会に所属しているわけではないですし、専門研究者というわけではありません。ただ自分自身の興味でいろいろ勉強していることと、あとは一般向きに、日本ではあまり知られていないかもしれない見方を紹介するということです。


勉強するというのは英語の本が大半です。そこから言うと、日本の思想、あるいは知識界と言われるものは、はっきり言うと世界的に見るとかなり田舎です。知識人というもののクオリティ、そして幅は、かなり世界との差はありますね。やはり日本で行われていることというのは幅が狭いのです。世界ではいろいろ論議されているのに日本ではほとんど知られていないテーマなども多いのですが、私がやろうとしているのもまさにそういった分野です(笑) 日本語で手に入る情報だけを頼りにしていると大いに勘違いする危険があるということです。何かちゃんとやろうと思ったら、英語の読解力は必須です。

日本には哲学の入門書的なものはあまたあり、その中には大学教授じゃない素人の人が「ぶっちゃけ」でわかりやすく解説したようなものもあります。しかしそういうものを読んでもさっぱり面白くありません。なぜかというと、こういった入門書のようなものは、基本は、すでに世の中で常識化されている知識を薄く説明するものが大半なのです。教えるべきものがある程度決まっており、それをいかにわかりやすく説明するか、ということでは学習参考書と大差はありません。そこに著者独自の見解がちょっとだけ付加されているかぐらいのことです。

しかし、そもそもそういう「哲学とはどういうものか」ということ自体を疑って、それを大胆に組み替えねばならないのです。本来、哲学というのは、その哲学とは何かということ自体を問い直し、刷新していかねばならないものです。しかし現実的には、いま大学の哲学科で行われている範囲でしかその問い直しは起こらないわけです。

大学の哲学科でやってることがイコール哲学ではありません。哲学科の哲学と、そうではない哲学があるのです。プラトンは哲学科の哲学ではないし、インド哲学や仏教哲学もまったく違うものです。ここで何が言いたいのかというと、哲学とは哲学科で行われるものだという常識は、ヨーロッパ文明特有の現象であって、決してグローバルスタンダードではない、ということです。近代欧米もの=グローバルスタンダードという明治以来の価値観にとらわれるな、ということです。そして、東洋文化によって育ち、また豊潤なネイティブ文化の土壌を失っていない日本の精神性から出発して、それを精細な知識としていくという行為は、ヨーロッパ文明的な器が本当に適当なのか、ということです。

これは既に岡倉天心などが問うた問いではないでしょうか。天心らがそういう問題意識を持てたのは、ものすごい東洋や日本の伝統文化的な教養を持っていたからです。今の知識人はその何分の一の教養もないでしょう。西田幾多郎らがいるじゃないか、と言うことかもしれませんが、あれでもまだ西洋文化にすり寄りすぎています。言語表現が完全に西洋哲学になっていますね。また見ている世界はどうかという点でも限界はあるものだと思います。(ちなみに、岡倉天心の見立ては、「東洋と西洋では、音楽は西洋の勝ち、美術はいい勝負、哲学については、東洋の勝ち」でした。私もこの見立てに基本的に賛成します。つまり、「哲学はヨーロッパ文明に優位性のある分野ではない」という認識です。このような文明全体を見わたすだけのスケールというものが現代の知識人に欠けているものです)

哲学科の哲学というのは、スコラから発しています。スコラとはスクールのことで、学校ですね。ヨーロッパで13世紀頃に大学ができて、そこに神学と共に哲学の講座が置かれるようになったのが現代的な意味での哲学の始まりです。そこではきわめて緻密な論理による論証が重視されたのですが、今でも哲学はそういう伝統の中にあります。

だんだん、説明するのも疲れてきましたので(笑)、ここでいきなり大上段の「ぶっちゃけ」に行ってしまいましょう。

結局、近代ヨーロッパ文明とは何だったのか? ってことです。

というものも、哲学っていうのも近代ヨーロッパ文明の一部であるわけでしょ?

であるならば、欧米人じゃない私たちとしては、まずは、近代ヨーロッパ文明というものをどう受け止めるか、という問いがまずあって、その後に、それではその中にあるヨーロッパ哲学てものにはどうつきあえばいいか、という問いが来るわけです。

これは明治時代の人には当然の問題意識だったと思います。夏目漱石とかもそうであるわけですよね。でも、今の大学人はこのような問いを持っていません。

あらかじめ狭い枠組みができてしまっているところで、その中で評価される業績を上げた人だけが生き残るシステムであるわけですから(その評価というのが妥当なのか、ということはおいといても)、そういう、自らの基盤そのものを掘り返すような問いは決して起こらないわけです。

で、つまりは、

近代ヨーロッパ文明は終わった(終わろうとしている)
次はどういう文化となるのか、

ということになります。

そしてこれも簡単に言えば、

物質文明から精神文化、霊性文化へ

という流れになります。

こう言うだけはいかにも陳腐だ、と思う人もいるかもしれませんが、基本の流れがそうであるということは動きません。

というのは、そもそもヨーロッパ文明が世界中を席巻したのは、科学革命と産業革命によるテクノロジーの圧倒的進歩です。それを軍事力として世界中を植民地化していったが、二度の大戦や冷戦をへて、なんらか人類全体が協調していかないと駄目らしいとわかってきて、地球の生態系もあぶなくなってきた、ということでしょう。過去200年で起こった重要なことは要するにそれです。近代は人権とか民主主義という重要な価値観を生み出してもいるのに、同時にとんでもない虐殺とか侵略もまた起こっている。これをどう見るのか。

歴史上初めて人類が一つという意識に進んでいくのがこれからの流れです。ですから自国さえよければいいというトランプ政権は必ず失敗して、やっぱりそういう考えでは駄目なんだということが否応なくわかってくることでしょう。

そのような状況では、もはやヨーロッパ哲学だけでは駄目なのも明白なわけですね。過去の非ヨーロッパ哲学、つまりギリシア、インド、中国、イスラム、そしてヨーロッパでも近代以前の哲学もひっくるめて、人類は何を求め、何を達成してきたのか、が明らかにならないといけないわけです。つまりこれまでの人類の遺産の総括です。人類はどこまで、自分自身のこと、存在ということがわかったのか。どう探求して何を得たのか。そういうことがある程度わかってくるというものが「哲学の入門書」でなければならないのです。もちろん、東洋哲学のことも書いている入門書もありますよ。しかしはっきり言って、その叙述は薄っぺらいですね。なぜかというと、本で読んだ知識だけで書いてるからです。

必要なことは「人類の哲学史の大胆な書き換え」なのです。

多くの人が考えていることは「近代はどこが足りなかったのか、どこで間違えたのか」ということです。

実を言うと、私は、人類が知りうるような最も重要なことは、すでに探求されており、その遺産はすでにある、と考えています。

たとえばギリシア哲学、キリスト教哲学、インド哲学・・の中に、探求されるべきものは既にあるのです。

ヨーロッパ文明も、中世からルネサンスくらいまでは、ある程度はそれが見えていた人も多かったはずですが、17世紀頃より急速に「理性信奉」が進行し、その結果、理性的に把握できるもののみを信ずるという知識のあり方に変化したため、重要なことが見えなくなっていきました。それを必死に思い出そうとする人々もありましたが、いまだに理性信奉の勢力は残っており、せめぎあいといった思想状況になっております。

というのが、もっとも大きな、「ぶっちゃけ」の見立てです。

ハイデガーは、西洋哲学は「存在忘却の歴史」だと言っています。これは、そもそも根本的な「存在とは何か」という問いを問えていない哲学にすぎないぞという意味です。彼はそれをプラトンに始まると見なしています。しかしこれは西洋哲学をよく見て行くと必ずしも正しい見方とは言えません。ギリシア哲学や、ヨーロッパ中世の哲学では存在の問いが忘却されているとは言えないことがわかってきました。今ではむしろ、オッカムの唯名論とか、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の論にその起源を求める人も多いですね。

広く、近代ヨーロッパ哲学以外のものを調べていくと、ここではいわゆる「霊的直観」というものが広く認められていたことがわかってきました。

つまり、近代で通常の知識と考えられているような

五感に感じる感覚 → 理性的推論 → 知識に至る

という道筋ではなく、一足飛びに、重要なことが「わかってしまう」ということがある、ということです。
このように「わかる」ことが重要なので、そのようにしてわかることと、理性的な知識とのバランスを考えて哲学をしていく、というスタイルが広くあったのです。

だからその「わかってしまう」ということがどういうことかわからないまま東洋の哲学を論じても意味はあまりないのです。しかも、それは東洋だけではなく、どうやらギリシア哲学も本当はそういうものだったらしい、ということなのですね(これは井筒俊彦が言ってたことです)。

と、ようやく話はかんじんなことへ入るのですが、ここまででかなり時間がかかりました。以降はまた次回にいたします。とりあえず今日は、「いま日本で哲学と思われているものは実はグローバルスタンダードとは認められない」というお話でした。

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