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哲学と神学の分離、神と人の分離について

前項の続きです。

そこで、もし人類の根本的な探求の歴史を総括する、という目的を立てたとしますと・・
ここで探求というのは、宇宙の根源、自己の根源についての探求、叡智の探求ということですが・・
次のような叙述になってくるのではないかと思います。

哲学の前史としてのシャーマニズム
ギリシア哲学(前ソクラテス、古典期)
ヘレニズム時代の哲学(プラトン主義的キリスト教哲学を含む)
インド哲学
仏教哲学
中国・日本における哲学的伝統
ヨーロッパ中世の哲学・神学
イスラム哲学・神学(これについては詳しく知らないが・・)
ヨーロッパにおける近代哲学の成立(神学との分離、科学、啓蒙主義など)
ヨーロッパにおける非-近代、反-近代の思想の台頭
未来の「人類哲学」とは?

ギリシア哲学、ヨーロッパ哲学とかじゃなく「人類哲学」とならなければいけないわけですね。

もう一つ重要なことを書いておくことにします。

もともと伝統的なヨーロッパ文明では、哲学と神学は一体のものと見なされていました。
神学というのは、理性で到達できないことを知ることに関する学問です。それを「信仰」と呼びますが、これはいまの日本人の信仰という言葉のイメージとは違います。「私は・・・を信じる」とある教義を本当と思う、というだけの意味ではありません。「理性で到達できないことが何らかの方法で明かされる、その真理の啓示を受け取る」ということを意味しています。

このことがわかってない知識人も多いですよ。だから、宗教なんて古いものを捨てて理性のみによって探求する近代になったのだ、近代はいいねえ、みたいな価値観がまだ生き残っているわけです。ここでの問題は、「私たちは、理性で到達できないはずのことを知ることができるのか」というきわめて根本的な問題なのです。「知ることが出来るはずがない」と切り捨ててしまったのが近代精神なのです。ところが「何らかの方法で知ることが可能だ」と考えるとまったく違った世界になります。もちろん「可能だ」とする答えが正しいかどうかは、当然ながら、理性的には証明できません。もしできるとしたらそれは矛盾そのものになるのはおわかりですね。

ですので、「神学と哲学が分離した」ということが決定的に「近代の知の地平」を作ったわけです。これが重要なポイントです。神学を切り捨てた上で成り立っているのが近代哲学なのです。それを自明とする価値観に立つ限り、そこで何が失われたのかという問いは生まれません。

この分離は、14世紀以降に、オッカムとかドゥンス・スコトゥスなどの神学者によって推し進められたと考えられています。この頃からキリスト教の世界では、「神を絶対視する」傾向が強まります。つまり、神とはまったく人間に推し量ることが出来ない絶対的なもので(それはその通りでしょうが)、そもそも神の領分に人間の知性がどうこうできるなんて考えそのものが冒涜である、という価値観が強くなりました。つまり、存在とは何かとか、そういうことは知性的に問うことは傲慢であって、それはただ信仰のみを頼りとすべきである、とするのです。

それ以前では、「照明説」というのがあって、つまり「人間の知性は神による照明を受けて高められうる」という考えがありました。これはアウグスティヌス以来の一つのヨーロッパ文明の伝統でもありました。その神の照明によって、人間の知性は、絶対的な真理にまで到達できないにせよ、あるところまで人間を連れて行ってくれ、啓示による真理の受け取りにつながっていく、みたいな、知性と信仰(霊的啓示)は協同するものだという考え方が中世では多かったのです。上のオッカムらの意見は、こういう伝統をまっこうから否定するという意味がありました。

実はこうした「神の絶対化」、神をまったく人間とは関わりないくらい絶対的な存在と見なすという流れが、プロテスタンティズムを生み出したものでもあります。たとえばカルヴァン派の見方では「そもそも神は、誰を救済するかをすでに決めている。人間がどうこうしようとそれはまったく神の意志には関係ない」というところまで行っています。普通の宗教だと人間がいい生き方をすれば神はそれを認めてくれるだろうと思うわけですが、そう考えることは人間のようなものが絶対的な神の意志に影響を与えることになってしまうからこれも神の冒涜である、という考え方をするのです。ここまでいくと普通の日本人にはついていけないと思います。つまりこの考え方はあまりに「神と人間は絶対的に違う」ことを強調するのです。しかし日本人の精神性はもともと神道的な「神と人間は一体」というか、家族のような感覚があるので、こうしたプロテスタンティズムの神学は最も日本の精神性から遠いものでしょう。

ここでおわかりのように、近代のヨーロッパ文明では「神と人間を切り離す」という方向に強く動きました。その結果、「神ぬきで人間は世界を認識し、コントロールするのだ」という思想にいたりました。これが近代文明を動かしている動機です。神を自分の世界から分離することによって、物質世界をコントロールすることに全力を傾けるような文明でした。

オッカムたちは、あくまで、神の絶対性を強調するためにそうしたので、彼ら自身は極めて敬虔な人物だったはずです。しかし結果として、そこまで人間と関係ない神だとしたらもはや神のことを考える必要もなくなるわけで、そこから物質主義的な文明になってしまったわけです。神の代わりに「人間の理性」を掲げるという啓蒙主義が生まれましたが、大戦とか、アウシュビッツみたいなものが起こって、人間が自分たちで理想的な文明を作る能力はないのではないか、との見方が拡がりました。

そして精神文明としては、「神と人間をあまりに分けすぎた」ことを認識するようになり、人間がいかにして、その根源にある聖なるものと関わり、知ることが出来るのかという探求がまたスタートしました。カレン・アームストロングの『神の歴史』という本はそういうこれまでの歴史の総括になっていたと思います。神を自分の外にではなく、内に見出さねばならないらしい、と近代欧米人も気がついてきた、ということがその本で示されています。

哲学に間違っていることの証明というものはありませんが、神を人間の外にあるものと見なす見方の限界が明らかになったのが近代ヨーロッパの歴史ではないかと思います。限界というのは、それはどのような文明をもたらすか、という視点でのことです。

現在において再び「神」について思考するとはどういうことなのか? ・・こうしたテーマの本などが英語圏にはたくさんあるのですが、こういう議論は日本の知識人はあまり関係ないようですね。そもそも彼らは、自分がそこに生きていることの根底についてぎりぎりまで考えたことがあるのでしょうか? 欧米人にはつねに神との対話、ないし対決というテーマがあるのですが、それはちょっとくらい勉強しただけではなかなか肌感覚としてわからないかもしれません。

そうしたテーマを扱うものとして「現代神学」があります。ここにいろいろ面白いものがあります。いま、佐藤優が勧めている神学ではありません。あれは日本人に最も遠い正統派のプロテスタンティズム神学であって、あれを勉強しても日本人に得るものは多くないと私は考えます。

日本の知識人には神学の知識がありません。すでに神学と哲学の分離が完了してしまった「事後」の地点でしか思考ができません。そこに限界があると思っています。そもそも大多数の日本の知識人は「自分の頭脳を超えている知性体」がこの存在世界の中、あるいは彼方にある、との実感的な感覚を持てないでしょう。それでは、欧米人の思考は本当にわからないというだけではなく、近代以前の日本人、アジア人の思考もわからないと思います。

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