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近代ヨーロッパ哲学はグローバルスタンダードではない

さて、そろそろ今年のブログ始動です(笑) はっきり言って時間があるのは2月末~3月と8月中旬~9月中旬だけです。その他の期間はいろいろあってなかなかブログを書こうという気分にはなりません。

さて私は、「哲学」の一科目だけは教えていますが、その他はとくだんスピリチュアルに関わった仕事をしているわけではありません。別に哲学の学会に所属しているわけではないですし、専門研究者というわけではありません。ただ自分自身の興味でいろいろ勉強していることと、あとは一般向きに、日本ではあまり知られていないかもしれない見方を紹介するということです。


勉強するというのは英語の本が大半です。そこから言うと、日本の思想、あるいは知識界と言われるものは、はっきり言うと世界的に見るとかなり田舎です。知識人というもののクオリティ、そして幅は、かなり世界との差はありますね。やはり日本で行われていることというのは幅が狭いのです。世界ではいろいろ論議されているのに日本ではほとんど知られていないテーマなども多いのですが、私がやろうとしているのもまさにそういった分野です(笑) 日本語で手に入る情報だけを頼りにしていると大いに勘違いする危険があるということです。何かちゃんとやろうと思ったら、英語の読解力は必須です。

日本には哲学の入門書的なものはあまたあり、その中には大学教授じゃない素人の人が「ぶっちゃけ」でわかりやすく解説したようなものもあります。しかしそういうものを読んでもさっぱり面白くありません。なぜかというと、こういった入門書のようなものは、基本は、すでに世の中で常識化されている知識を薄く説明するものが大半なのです。教えるべきものがある程度決まっており、それをいかにわかりやすく説明するか、ということでは学習参考書と大差はありません。そこに著者独自の見解がちょっとだけ付加されているかぐらいのことです。

しかし、そもそもそういう「哲学とはどういうものか」ということ自体を疑って、それを大胆に組み替えねばならないのです。本来、哲学というのは、その哲学とは何かということ自体を問い直し、刷新していかねばならないものです。しかし現実的には、いま大学の哲学科で行われている範囲でしかその問い直しは起こらないわけです。

大学の哲学科でやってることがイコール哲学ではありません。哲学科の哲学と、そうではない哲学があるのです。プラトンは哲学科の哲学ではないし、インド哲学や仏教哲学もまったく違うものです。ここで何が言いたいのかというと、哲学とは哲学科で行われるものだという常識は、ヨーロッパ文明特有の現象であって、決してグローバルスタンダードではない、ということです。近代欧米もの=グローバルスタンダードという明治以来の価値観にとらわれるな、ということです。そして、東洋文化によって育ち、また豊潤なネイティブ文化の土壌を失っていない日本の精神性から出発して、それを精細な知識としていくという行為は、ヨーロッパ文明的な器が本当に適当なのか、ということです。

これは既に岡倉天心などが問うた問いではないでしょうか。天心らがそういう問題意識を持てたのは、ものすごい東洋や日本の伝統文化的な教養を持っていたからです。今の知識人はその何分の一の教養もないでしょう。西田幾多郎らがいるじゃないか、と言うことかもしれませんが、あれでもまだ西洋文化にすり寄りすぎています。言語表現が完全に西洋哲学になっていますね。また見ている世界はどうかという点でも限界はあるものだと思います。(ちなみに、岡倉天心の見立ては、「東洋と西洋では、音楽は西洋の勝ち、美術はいい勝負、哲学については、東洋の勝ち」でした。私もこの見立てに基本的に賛成します。つまり、「哲学はヨーロッパ文明に優位性のある分野ではない」という認識です。このような文明全体を見わたすだけのスケールというものが現代の知識人に欠けているものです)

哲学科の哲学というのは、スコラから発しています。スコラとはスクールのことで、学校ですね。ヨーロッパで13世紀頃に大学ができて、そこに神学と共に哲学の講座が置かれるようになったのが現代的な意味での哲学の始まりです。そこではきわめて緻密な論理による論証が重視されたのですが、今でも哲学はそういう伝統の中にあります。

だんだん、説明するのも疲れてきましたので(笑)、ここでいきなり大上段の「ぶっちゃけ」に行ってしまいましょう。

結局、近代ヨーロッパ文明とは何だったのか? ってことです。

というものも、哲学っていうのも近代ヨーロッパ文明の一部であるわけでしょ?

であるならば、欧米人じゃない私たちとしては、まずは、近代ヨーロッパ文明というものをどう受け止めるか、という問いがまずあって、その後に、それではその中にあるヨーロッパ哲学てものにはどうつきあえばいいか、という問いが来るわけです。

これは明治時代の人には当然の問題意識だったと思います。夏目漱石とかもそうであるわけですよね。でも、今の大学人はこのような問いを持っていません。

あらかじめ狭い枠組みができてしまっているところで、その中で評価される業績を上げた人だけが生き残るシステムであるわけですから(その評価というのが妥当なのか、ということはおいといても)、そういう、自らの基盤そのものを掘り返すような問いは決して起こらないわけです。

で、つまりは、

近代ヨーロッパ文明は終わった(終わろうとしている)
次はどういう文化となるのか、

ということになります。

そしてこれも簡単に言えば、

物質文明から精神文化、霊性文化へ

という流れになります。

こう言うだけはいかにも陳腐だ、と思う人もいるかもしれませんが、基本の流れがそうであるということは動きません。

というのは、そもそもヨーロッパ文明が世界中を席巻したのは、科学革命と産業革命によるテクノロジーの圧倒的進歩です。それを軍事力として世界中を植民地化していったが、二度の大戦や冷戦をへて、なんらか人類全体が協調していかないと駄目らしいとわかってきて、地球の生態系もあぶなくなってきた、ということでしょう。過去200年で起こった重要なことは要するにそれです。近代は人権とか民主主義という重要な価値観を生み出してもいるのに、同時にとんでもない虐殺とか侵略もまた起こっている。これをどう見るのか。

歴史上初めて人類が一つという意識に進んでいくのがこれからの流れです。ですから自国さえよければいいというトランプ政権は必ず失敗して、やっぱりそういう考えでは駄目なんだということが否応なくわかってくることでしょう。

そのような状況では、もはやヨーロッパ哲学だけでは駄目なのも明白なわけですね。過去の非ヨーロッパ哲学、つまりギリシア、インド、中国、イスラム、そしてヨーロッパでも近代以前の哲学もひっくるめて、人類は何を求め、何を達成してきたのか、が明らかにならないといけないわけです。つまりこれまでの人類の遺産の総括です。人類はどこまで、自分自身のこと、存在ということがわかったのか。どう探求して何を得たのか。そういうことがある程度わかってくるというものが「哲学の入門書」でなければならないのです。もちろん、東洋哲学のことも書いている入門書もありますよ。しかしはっきり言って、その叙述は薄っぺらいですね。なぜかというと、本で読んだ知識だけで書いてるからです。

必要なことは「人類の哲学史の大胆な書き換え」なのです。

多くの人が考えていることは「近代はどこが足りなかったのか、どこで間違えたのか」ということです。

実を言うと、私は、人類が知りうるような最も重要なことは、すでに探求されており、その遺産はすでにある、と考えています。

たとえばギリシア哲学、キリスト教哲学、インド哲学・・の中に、探求されるべきものは既にあるのです。

ヨーロッパ文明も、中世からルネサンスくらいまでは、ある程度はそれが見えていた人も多かったはずですが、17世紀頃より急速に「理性信奉」が進行し、その結果、理性的に把握できるもののみを信ずるという知識のあり方に変化したため、重要なことが見えなくなっていきました。それを必死に思い出そうとする人々もありましたが、いまだに理性信奉の勢力は残っており、せめぎあいといった思想状況になっております。

というのが、もっとも大きな、「ぶっちゃけ」の見立てです。

ハイデガーは、西洋哲学は「存在忘却の歴史」だと言っています。これは、そもそも根本的な「存在とは何か」という問いを問えていない哲学にすぎないぞという意味です。彼はそれをプラトンに始まると見なしています。しかしこれは西洋哲学をよく見て行くと必ずしも正しい見方とは言えません。ギリシア哲学や、ヨーロッパ中世の哲学では存在の問いが忘却されているとは言えないことがわかってきました。今ではむしろ、オッカムの唯名論とか、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の論にその起源を求める人も多いですね。

広く、近代ヨーロッパ哲学以外のものを調べていくと、ここではいわゆる「霊的直観」というものが広く認められていたことがわかってきました。

つまり、近代で通常の知識と考えられているような

五感に感じる感覚 → 理性的推論 → 知識に至る

という道筋ではなく、一足飛びに、重要なことが「わかってしまう」ということがある、ということです。
このように「わかる」ことが重要なので、そのようにしてわかることと、理性的な知識とのバランスを考えて哲学をしていく、というスタイルが広くあったのです。

だからその「わかってしまう」ということがどういうことかわからないまま東洋の哲学を論じても意味はあまりないのです。しかも、それは東洋だけではなく、どうやらギリシア哲学も本当はそういうものだったらしい、ということなのですね(これは井筒俊彦が言ってたことです)。

と、ようやく話はかんじんなことへ入るのですが、ここまででかなり時間がかかりました。以降はまた次回にいたします。とりあえず今日は、「いま日本で哲学と思われているものは実はグローバルスタンダードとは認められない」というお話でした。

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