見える世界と見えない世界のつながり:participation
さて新年度である。最近あまり更新がないこのブログであるが、今年度からはもう少し発信をしていきたいと思っている(と、今までに何度も書いたような気がするが。正直なところ、このココログというシステムには癖があって書き込みがしにくい。しかし今更引っ越すのも大変だからそのままにしているが)。
私のこのところのテーマは、「近代の世俗的な世界観はなぜ生じたのか」ということだった。つまり、リアリティというものを超越的なものと関係なく、この現実のみが存在するという、近代人が当たり前としている形而上学的枠組みの起源、といったところである。
このテーマについては最近、だいぶ見当がついてきた。基本的に、ラジカル・オーソドキシー、チャールズ・テイラー、ルイ・デュプレなどの路線で考えればいいということだ。これを理解するためには、中世までのヨーロッパの世界観がわかっている必要がある。
キリスト教神学についても少し勉強した。そこでわかってきたのは、ヨーロッパを総体的に文明として理解するためには、哲学と神学の両方に目配りしなければならない、ということだ。実は、哲学と神学の分離というものがある時点で起こっている。そこで神学から切り離されたしまった哲学が明治期に日本にも輸入されたわけだが、私たちはもはやこの分離自体を疑いにかけなければならないのだ。つまり、モダンもポストモダンも、こうした分離の事後に成立している哲学だという点では同じなのである。ポストモダンはモダンを超えてはおらず、むしろモダンに特有な懐疑(疑いの哲学)の徹底化なのだと見るべきだろう。真のフロンティアは、神学と哲学の分離という問題にあるらしい、ということがわかってきた。
神学と哲学の分離というのは、実は、自然と超自然の分離でもある。つまり、超越と何ら関わることなくそれ自体で存在する自然というコンセプトは、こうした分離の事後に生まれたものである。そのパースペクティブが近代科学の根底でもある。
しかし少なくとも13世紀のトマス・アクィナスまではそうした分離はなかったらしい。
話が難しくなりそうだが、簡単に言えば、「見える世界」は「見えない世界」に支えられてのみある、という考え方ということである。
見えない世界などというものはなく(あるいは考えに入れる必要はなく)、見える世界はそれ自身で存在する、というのが近代特有の世界観だ、ということなのである。
そのことを、現代科学のパラダイム転換とからめて、量子論やらダークエネルギーなどと関連させて解説する人も多いが、それは論としてカテゴリーエラーの可能性もあるので今それはとらない。
見える世界を支え、存在せしめている見えない世界とは、ヨーロッパ文化的には「神」と呼んでもいいのだが、この存在するものと存在をさせる何かとは異なることを指摘したのは、ハイデッガーだった。ハイデッガーは実は中世の神学に詳しい人で、こうした区別(存在論的区別という)は既に中世にあったものだということを知っていたはずだ。
こういう存在のありかたを、participation という語で名づけている。存在するあらゆるものには、存在するのではない何かが参与している、ということである。わかりやすくいえば、異次元なるものである。
私はこれは、キリスト教文化の文脈以外でも使えるコンセプトではないかと思う。
仏教で言えば、「色即是空・空即是色」は、participation なのだ。
「色」(「しき」と読む)とは存在するもののことであり、空は仏教で言う絶対者であるが、「仏」と言っても同じことである。
仏教学者は「空」を「実体がない」などと解説することが多いが、それは意味の一つにしか過ぎない。「空」とは「大いなる神秘」などと訳しても差し支えないと思う。キリスト教神秘主義者のようにかっこよく「輝ける闇」などと言ってもいいものである。
鈴木大拙は「即非の論理」という言い方をしているが、これはほとんど participation の神学と近いなあ、と感じるのである。
また、ラジカル・オーソドキシーで面白いのは、liturgy の復権ということである。つまり、理論や教義だけが問題ではなく、何をやるということである。キリスト教の場合はミサがそれにあたる。そこで、聖体(パンとワイン)に participation があるのか、という議論になるが、それはつまり、そこに本当にキリストの臨在があるのかということである。そういう次元間交流が起こるのか、ということが議論されている。そこで、これまでヨーロッパ人はまったくばかにしていたイアンブリコスの新プラトン主義が評価されたりするのだから面白いことになっている。
あまりに日本と関係ない話のようだが、実はそうではない。神道はほとんど liturgy がすべてという宗教である。また仏教の密教もそれに近いものである。そこで本当に神仏の力が来る、と信じなければあまり参加する意義は感じられないだろう。物質次元は非物質次元とつながって動いているという世界感覚が神道や密教の基盤になっている。近代的世界観を乗り越えないとこれを完全に理解することはできないのだ。こういう方向性を sacramental theology というのだが、これは日本人が神道や密教その他仏教的実践を理解し、評価する上でも参考になる。
日本にたくさん学者はいるが、神仏は確かにある(感じられる)ということを言い切れる人ははなはだ少ない。それはこうした神学的思考をするトレーニングがほとんどアカデミーにおいてなされていないからではなかろうか。またヨーロッパ文化を全体として理解するという視野に欠け、専門分野のごく狭いところしか勉強してない人が多いのではないか。神仏が実在すると一度も実感したことがない人が教授になったりしているのはどこか文明のあり方として間違っている。私は仏教学者では鈴木大拙と玉城康四郎以外はあまり評価していない。
これはトインビーの文明論にもあったことだが、文明というのは何らか、どのようにして超越性と関わるかを大きなテーマとしているものである。それは自分たちの存在の意義をどのように理解するという問題だからであり、その根本問題を「だって答えがないんだから考えなくてもいいじゃん」という態度で回避しようとする現代文明のあり方はどうなのか、ということである。ヨーロッパはどのようにしてこのような超越の問題にかかわり、そして、最終的に「超越なしで現実を捉える」という文明のあり方に至ったのか、この根本を押さえないでいて、どうして現代日本において根源的思考が可能になるのであろうか。
今日はこのへんにするが、participation の世界観を理解するのは、このブログでも前に紹介したことがある、Heavenly Participation という本がわかりやすい。前半だけ読んでも十分だ。