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今までの哲学の99%は目覚めていない人間によって書かれている

さて、哲学者とはもともと「真理」を追求するものという意味である。その意味で言えば私がしてきたことはずっと真理の追求ではあっただろう。しかしその追求をしている間に、それは学問という枠をはみ出してしまった。というより、そもそも、真理の追究ということが学問である(近代的な意味での)必要があるのか、ということにも疑問を覚えてきたわけである。そもそも古代ギリシャの哲学は学問ではなく、「生き方」、ウェイ・オブ・ライフの探求であったということはアドー(フランスの哲学史家)なども言っているとおりである。近代的な学問というのは、学界という集団を形成し、そこではピアレビュー形式の論文審査があり、大学等のポストを占め、といった形態で行われる知的生産ということである。哲学というのはその形式にはまらなければならないものであろうか。むしろ、はまらない方がいいということはないであろうか。

ぴあレビュー形式というのは結局のところその学界の「常識」に従ったものしか受容されない。その前提を根本から疑うようなものは却下されるのである。それにくわえて、既にミシェル・フーコーが指摘したような、「文体の統制」がある。あるスタイルで書かねばならない、という強制力があるわけだ(『言語表現の秩序』参照)。

こうした学問としての哲学というスタイルは、また、ヨーロッパ文明的な所産でもある。それはヨーロッパ文明の欠点、と言ってもいいと思うが、欠けているものを示してしまってもいる。

どういうことかというと、ヨーロッパの哲学には、結局、東洋のような「体験的な裏付け」が欠如していることが多い。東洋では、言葉で言っているだけでは駄目で、それを実際に「体現」しているのでなければ評価されない。ところが、ヨーロッパ文明では、深い体験に人を導いていく、インドのヨーガのようなシステムが欠如していた。ヨーガ的な伝統は、中国にも入り、仏教にも入り、また一部イスラムのスーフィズムにも入ったり(あるいはユダヤのカバラも)、どういうわけかヨーロッパには入らなかったのである。入ったとしても教会に抑圧され、地下水脈的なものとしか存在できなかった。

ヨーロッパでも、エックハルトのように、深い目覚めを体験した人はいた。しかし、そういう目覚めに人を導くような方法論や体験の蓄積を有する「伝統」がなかったために、後代に受けつがれることがなく、単発に終わるしかなかったのである。

ヨーロッパ文明全体として、そういう、東洋文化で探求されてきた「目覚め」という意識があるということを理解したのは、東洋文化との出会いによる。翻訳された本を読んだだけでは理解することができなかったので、本格的に、東洋が何をやろうとしてきたのかがわかってきたのは、ようやく20世紀も後半になってからである。

13世紀に、大学に哲学が生まれたが、ここでの哲学は神学のための予備的、論理的訓練として位置づけられていたので、哲学だけで知恵を語ろうという意図はなかった。そこで哲学は純粋に知的水準での議論になった。もちろんこの当時の哲学者はみな坊さんであって、それなりに修行もし、ある程度経験的にもわかる人たちもいたであろうが、哲学はあくまで全体の中の一部であったので、論理的(つまり左脳的)知性しか使わなかったのである。ところが神学が頽落してくると、この哲学が一人歩きし始めて、論理的追究だけで真理に接近できるという誤認が生じてきた。

私はこれを、「全体から切り離された左脳の暴走」であると考える。今の時点から反省すればそのようにしか言うことができない。言葉を換えれば、ヨーロッパ文明全体として、「マインドとハートの分裂」あるいは「左脳と右脳の分裂」が生じてきた。哲学には「左脳的な表現のみを使う」というルールが課せられてしまったのである。

こうした哲学のスタイルを破壊したのがニーチェであることは言うまでもない。もしニーチェが哲学であるならば、何を書いてもありになってしまう。ニーチェのように書いたら哲学科で通るわけがない。そういう哲学は狭すぎることになる。

既にニーチェで哲学は破壊された。ちなみにニーチェは目覚めのことをわかっていたのかと言えば、何かの直観は明らかに持っていたと思う。ただしヨーロッパ文明自体にそうした伝統がなく語彙もコンセプトもないので、多分に混乱しているところがあった。必ずしも今の日本人がニーチェを読む必要はないように思うが、ヨーロッパ哲学者の破壊者として、私たちに自由をもたらしたことは大いに評価すべきである。

デリダの脱構築なども、ニーチェのやったことを、アカデミズム内部からの侵食という形でやろうとしている、という見方もできるだろう。しかし結局これは知識人のための知的ゲームであるので、真理を知りたい人が読むようなものではない。

前置きが長いが、ここから本音のトークとなる。
私は、人間には目覚めという地平があるということを前提としてものを考えるわけだが、今までの哲学の99%は目覚めていない人間によって書かれているものにすぎない、ということを事実として認識すべきだと思う。言いかえると、3次元的時空という制限内で思考するという枠内でしか考えることができておらず、3次元人間という限界を超えられていない。しかし真理を理解したいのならば、そういう枠組みを超えるところを見ないといけないのである。

その意味で、現在の哲学の99%は不要である。大学の哲学専攻は「入学してがっかり」の最たるものである。「西洋哲学史研究者」は少数ならいてもいいであろうが、今の10分の1以下でよい。真理を知りたい人は早々にアカデミックな哲学に見切りをつけるのがよいだろう。

スローガン的に言うなら、今の文明的な課題が「マインドとハートの分裂」なのである。その統合へ向けたスタイルが求められる。

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