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身体技法の世界

さて、このところ、また身体技法の世界に興味を持っている。最近有名になっている甲野善紀や、その周辺の本などを研究中。彼のような存在は、中国武術にはたくさんいるのであろうが、日本では貴重な存在である(中国でも最近は表に出にくくなっているが)。

そもそもかの斎藤孝のデビュー作であった本にもあったように、明治以来、日本人の身体感覚は西洋流体育で作り替えられてしまっている。身体感覚とは世界感覚のことでもある。それとは違った身体を思い出すことは、近代を相対化することにもつながる。近代では否定されてきた気の世界なども、身体が変われば当たり前のものとなるのだ。

まだまだ身体の世界はわからないことが多い。私たちが当たり前と思っていた身体の使い方は実は「作られたもの」であり、本当はもっと違うように身体を動かすこともできる。それは、無限の意識が制限されてこの三次元の意識になるということとある程度相関しているのではなかろうか。

これからまた、身体論のことも書いていきたい。

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今から始まるインド哲学との出会い

「哲学は信用するな」ということを先に書いたが、では何を学ぶべきか?
一つは、古典としてインド哲学を知っておきたい。
というのは、前に書いたように、人類史は、前文明期、古典文明期、新文明期に分けられ、古典文明期では少数の人しかわかっていなかったことが、大規模に知られるようになるのがいま移行しつつある新文明期だ。その古典文明期で達成されたことがまとまっているのがインド哲学だと考える。仏教もインド哲学のバリエーションにすぎない。

実は日本人はきちんとインド文明の遺産に向き合ってこなかったと言えるだろう。日本のインド学者の大部分は仏教出身で、お寺がスポンサーであるので、古代インドのバラモン教を否定してお釈迦様が真理を見出した、というストーリーにしたいのだろうが、インド哲学と仏教は表現方法が異なるだけで基本的に同じである。べつに新しくなければいけないわけではないのだ。むしろ一致しているのはよいことではなかろうか。日本でのインド関係の学者はたいていお寺スポンサーか、もしくは西洋流の「インド人は不思議なことを考えているんだね~」みたいな外部観察者目線のものでしかないので、あまりおすすめできるものはない。

そんな中で、お勧めはこれである。
これはまさに、インドの伝統の中でインド哲学を学んだ人によって書かれている。インド哲学と日本人との出会いは今始まったばかりなのだ(英語圏では、インド的スタイルでインド思想を語っている David Frawley という人が有名である)。

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たとえばこんな感じ。
「真実の知恵とは何ですか?」
「本来の自分、それが唯一の存在であり、それ以外はすべて1つの存在の上に繰り広げられる儚い夢であると見極めることです」

 

すばりと「真実の知恵とは?」とか「本来の自分とは?」という問いに対する答えが与えられていく爽快さがある。このような問いは今の哲学では決して問うことができないものである(哲学とはそのような問いに答えるものだとは考えられていない)。

 

ウパニシャッドの他、ヨーガスートラとバガバッドギーターもあるのでそちらもお勧め。

実際、この三つがわかれば十分だ。これが日本人の基礎教養となればだいぶ世の中は変わるのではなかろうか。日本でヨーガを学ぶ人が、こういう本格的なインド思想を学び始めているというのも時代の変化を感じさせる。アカデミズムとは無縁なところで、インド思想との出会いが始まっている。

今までの哲学の99%は目覚めていない人間によって書かれている

さて、哲学者とはもともと「真理」を追求するものという意味である。その意味で言えば私がしてきたことはずっと真理の追求ではあっただろう。しかしその追求をしている間に、それは学問という枠をはみ出してしまった。というより、そもそも、真理の追究ということが学問である(近代的な意味での)必要があるのか、ということにも疑問を覚えてきたわけである。そもそも古代ギリシャの哲学は学問ではなく、「生き方」、ウェイ・オブ・ライフの探求であったということはアドー(フランスの哲学史家)なども言っているとおりである。近代的な学問というのは、学界という集団を形成し、そこではピアレビュー形式の論文審査があり、大学等のポストを占め、といった形態で行われる知的生産ということである。哲学というのはその形式にはまらなければならないものであろうか。むしろ、はまらない方がいいということはないであろうか。

ぴあレビュー形式というのは結局のところその学界の「常識」に従ったものしか受容されない。その前提を根本から疑うようなものは却下されるのである。それにくわえて、既にミシェル・フーコーが指摘したような、「文体の統制」がある。あるスタイルで書かねばならない、という強制力があるわけだ(『言語表現の秩序』参照)。

こうした学問としての哲学というスタイルは、また、ヨーロッパ文明的な所産でもある。それはヨーロッパ文明の欠点、と言ってもいいと思うが、欠けているものを示してしまってもいる。

どういうことかというと、ヨーロッパの哲学には、結局、東洋のような「体験的な裏付け」が欠如していることが多い。東洋では、言葉で言っているだけでは駄目で、それを実際に「体現」しているのでなければ評価されない。ところが、ヨーロッパ文明では、深い体験に人を導いていく、インドのヨーガのようなシステムが欠如していた。ヨーガ的な伝統は、中国にも入り、仏教にも入り、また一部イスラムのスーフィズムにも入ったり(あるいはユダヤのカバラも)、どういうわけかヨーロッパには入らなかったのである。入ったとしても教会に抑圧され、地下水脈的なものとしか存在できなかった。

ヨーロッパでも、エックハルトのように、深い目覚めを体験した人はいた。しかし、そういう目覚めに人を導くような方法論や体験の蓄積を有する「伝統」がなかったために、後代に受けつがれることがなく、単発に終わるしかなかったのである。

ヨーロッパ文明全体として、そういう、東洋文化で探求されてきた「目覚め」という意識があるということを理解したのは、東洋文化との出会いによる。翻訳された本を読んだだけでは理解することができなかったので、本格的に、東洋が何をやろうとしてきたのかがわかってきたのは、ようやく20世紀も後半になってからである。

13世紀に、大学に哲学が生まれたが、ここでの哲学は神学のための予備的、論理的訓練として位置づけられていたので、哲学だけで知恵を語ろうという意図はなかった。そこで哲学は純粋に知的水準での議論になった。もちろんこの当時の哲学者はみな坊さんであって、それなりに修行もし、ある程度経験的にもわかる人たちもいたであろうが、哲学はあくまで全体の中の一部であったので、論理的(つまり左脳的)知性しか使わなかったのである。ところが神学が頽落してくると、この哲学が一人歩きし始めて、論理的追究だけで真理に接近できるという誤認が生じてきた。

私はこれを、「全体から切り離された左脳の暴走」であると考える。今の時点から反省すればそのようにしか言うことができない。言葉を換えれば、ヨーロッパ文明全体として、「マインドとハートの分裂」あるいは「左脳と右脳の分裂」が生じてきた。哲学には「左脳的な表現のみを使う」というルールが課せられてしまったのである。

こうした哲学のスタイルを破壊したのがニーチェであることは言うまでもない。もしニーチェが哲学であるならば、何を書いてもありになってしまう。ニーチェのように書いたら哲学科で通るわけがない。そういう哲学は狭すぎることになる。

既にニーチェで哲学は破壊された。ちなみにニーチェは目覚めのことをわかっていたのかと言えば、何かの直観は明らかに持っていたと思う。ただしヨーロッパ文明自体にそうした伝統がなく語彙もコンセプトもないので、多分に混乱しているところがあった。必ずしも今の日本人がニーチェを読む必要はないように思うが、ヨーロッパ哲学者の破壊者として、私たちに自由をもたらしたことは大いに評価すべきである。

デリダの脱構築なども、ニーチェのやったことを、アカデミズム内部からの侵食という形でやろうとしている、という見方もできるだろう。しかし結局これは知識人のための知的ゲームであるので、真理を知りたい人が読むようなものではない。

前置きが長いが、ここから本音のトークとなる。
私は、人間には目覚めという地平があるということを前提としてものを考えるわけだが、今までの哲学の99%は目覚めていない人間によって書かれているものにすぎない、ということを事実として認識すべきだと思う。言いかえると、3次元的時空という制限内で思考するという枠内でしか考えることができておらず、3次元人間という限界を超えられていない。しかし真理を理解したいのならば、そういう枠組みを超えるところを見ないといけないのである。

その意味で、現在の哲学の99%は不要である。大学の哲学専攻は「入学してがっかり」の最たるものである。「西洋哲学史研究者」は少数ならいてもいいであろうが、今の10分の1以下でよい。真理を知りたい人は早々にアカデミックな哲学に見切りをつけるのがよいだろう。

スローガン的に言うなら、今の文明的な課題が「マインドとハートの分裂」なのである。その統合へ向けたスタイルが求められる。

いろいろとおすすめ

普通の人が目覚めてきたということで、それが「ノンデュアル」とか、新ヴェーダーンタなどともいわれるのだが、そういった系統で印象に残った本を一つあげるとこれだろうか。『「私」という夢から覚めて、わたしを生きる』で、面白いので二回も読んでしまった。

もう一人、注目する人はまさよさんである。本がすごく売れているらしいが、たしかに、いろいろスピ本というのはあるが、ここまで波動が高くてまた使いやすいものはなかなかないと思う。たとえばこの『エネルギーの魔法』である。

本質をシンプルに、すぐに使える、というのが現在では大事なことになっている。細かい知識は、全体の枠組みが見えないとあまり役に立たないし、むしろ邪魔にもなる。

人間とはどういうもので、自分とは何であるのか、なんていう最も基本的なことにしっかりした「枠組み」を持つことが重要ではなかろうか。

歴史のまとめ

そもそも「目覚め」ということに人類は古い時代から気がついていて、原型的にはシャーマニズム、そして古典文明期のインド、ギリシャ(これはそもそもエジプトにさかのぼるらしいのだが)、中国を中心に気づいた人が出てその文化は保持された。ただ一般大衆レベルではそれは浸透していなかったが、伝統としては受けつがれた。一方西洋においては、キリスト教の外面的理解(神を自分の外に見ることと、世界と神とを厳しく分けるという考え方)が邪魔になって、単発的に深い目覚めに達した人はかなり出たものの、文化伝統としては目覚めの伝統は保持されなかった(地下水脈としてのみ存在していた)。そして近代になって「外なる神」に人間が支配されることを否定し、人間が宇宙の主人であるという人間主義となったが、自己の奥深くを探求するという文化伝統は依然として存在していなかったため、やがて人間への絶望からニヒリズムとなり、基本的には現在もその思想状況は維持されている。本格的な「目覚め」の文化との接触は、エマーソンや、ニューソートの思想を先駆とするのだが、大きな規模では1960年代のカウンターカルチャーで起こり、そこからの流れが加速化したのが1990年代、ということになるだろう。ごく少数のものであった「目覚め」の経験をごく普通の人々が多数経験し始めており、これが人類の集合意識全体を変える規模になりつつあるという現状である。

東洋系の霊性との出会いによりキリスト教もとらえなおされ、新しい文化が形成され始めたのが20世紀だと、地球的な観点からは言うことができよう。この間、ヨーロッパのアカデミックな哲学は大きな影響を持つことはなく、主導したのはむしろアメリカの大衆的な文化であったと思われる。(大陸系の哲学は結局ニヒリズムのバリエーションを超えていないと私は考えている)

もともと欧米の霊性的伝統は、ギリシャ哲学とキリスト教との融合した形にあるので、現在の一部の神学者がそこへ帰ろうとしているのは伝統の見直しという点でうなずけるものがある(この伝統の中で最も偉大な作品は言うまでもなく「ヨハネによる福音書」である)。

以上は、現状認識のためのとりあえずのおおまかな歴史の理解である。

ヘーゲルがどうした、ハイデッガーがどうだという個別の断片的な知識をたくさん仕入れたところで何もわかっては来ない。

世間で哲学と言われているものは真理への自由な探求ではなく、伝統によって幾重にもがんじがらめになっている制約の上で行われている頭脳ゲームである。途中で、これでは何も真理はわかってこないと気づいても、生活がかかっている以上今更やめるわけにもいかないということである。

今の哲学は新文明期への過渡期にできたものに過ぎないし、それができたヨーロッパ文明というものがそもそも目覚めというものを文化的に十分自覚していないという欠損を抱えていたものなので、そういった過去に縛られた土俵の上でゲームをしなければならないのはばかげているという話である。

新文明期の始まり

どうもまた、最近急に変わってきたところがあって、今までのように、過去の知識からあれこれ言うことに、基本的に興味を失ってきた。

哲学はもともと真理に向かう運動であるわけだが、頭で考えること、知識を積み重ねることによってそれに達することができるとは、私は今信じているわけではない。

真実とは実はシンプルであって、それにダイレクトに目覚めて来ている人がものすごい勢いで増えている、という今の地球の現実を見ていて、もはや、今までのようなスタイルを捨てる時ではないかと思えてきた。

人類の歴史始まって以来のことが起きつつあることがはっきりしてきた。

そのまったく新しいステージが始まったのは1990年代くらいだった、と今から思えばわかる。その当時は見ていなかったが。

およそ、近代というものが始まった17世紀くらいから1980年代までは「人類史の過渡期」であったのだ、ということがわかる。

人類史というのは、1.原始文明期、2.古典文明期、3.新文明期、に分けられるのであって、近代というのは2と3の過渡期だった。

ところが今の学問とか知的体系で常識とされていたのはこの過渡期にできたものの延長で、それで、まったく新しい新文明期を理解しようということに無理がある。

新文明期とは何か。それは人類が自己の神性に本格的に目覚め始める時代である。その結果、現実が意識によって創造されていることを理解し、現実をコントロールすることができるようになり、そうなって始めて、地球以外の進化した存在たちとの交流も可能になってくる、という新たなステージに入るということである。

この、自己の本質を知るということは、原始文明期にも、一部のシャーマンたちには知られてきたことであった。古典文明期ではインドやギリシャなどにおいてそうした哲学が勃興したが、この時期は本当にわずかな人々しかその本質を理解し、体現することができなかった。社会全体のレベルが低かったため、そういう意識を追求しようとしたら社会の外に出るしかなかった、という状況が見られた(出家ということである)。

この圧倒的に少なかった「目覚めの意識」を理解できるようになる人々が爆発的に増えて、やがて、人口の過半になってくる、というのが新文明期の方向性である。

新文明期を理解するために、これまでの学問はほとんど使い物にならない。
それは単に過去の権威によって尊敬を集めているだけで、自分たちが真理に近づいてはいないことは彼ら自身が一番よく知っている。

はっきり書いてしまうが、地球外知性とのコンタクトがオープンになる日もかなり近づいているのである。もはや猶予はない。そして、もはや、そのようなことを言ったらなんと言われるか、などという恐れを持つ必要はなくなったのだ。そのくらい、目覚めの意識があることに気づいている人が増えてきたのだ。

そこでこのブログでも、これ以降、思い切り本音での話をすることになるだろう。

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