歴史のまとめ
そもそも「目覚め」ということに人類は古い時代から気がついていて、原型的にはシャーマニズム、そして古典文明期のインド、ギリシャ(これはそもそもエジプトにさかのぼるらしいのだが)、中国を中心に気づいた人が出てその文化は保持された。ただ一般大衆レベルではそれは浸透していなかったが、伝統としては受けつがれた。一方西洋においては、キリスト教の外面的理解(神を自分の外に見ることと、世界と神とを厳しく分けるという考え方)が邪魔になって、単発的に深い目覚めに達した人はかなり出たものの、文化伝統としては目覚めの伝統は保持されなかった(地下水脈としてのみ存在していた)。そして近代になって「外なる神」に人間が支配されることを否定し、人間が宇宙の主人であるという人間主義となったが、自己の奥深くを探求するという文化伝統は依然として存在していなかったため、やがて人間への絶望からニヒリズムとなり、基本的には現在もその思想状況は維持されている。本格的な「目覚め」の文化との接触は、エマーソンや、ニューソートの思想を先駆とするのだが、大きな規模では1960年代のカウンターカルチャーで起こり、そこからの流れが加速化したのが1990年代、ということになるだろう。ごく少数のものであった「目覚め」の経験をごく普通の人々が多数経験し始めており、これが人類の集合意識全体を変える規模になりつつあるという現状である。
東洋系の霊性との出会いによりキリスト教もとらえなおされ、新しい文化が形成され始めたのが20世紀だと、地球的な観点からは言うことができよう。この間、ヨーロッパのアカデミックな哲学は大きな影響を持つことはなく、主導したのはむしろアメリカの大衆的な文化であったと思われる。(大陸系の哲学は結局ニヒリズムのバリエーションを超えていないと私は考えている)
以上は、現状認識のためのとりあえずのおおまかな歴史の理解である。
ヘーゲルがどうした、ハイデッガーがどうだという個別の断片的な知識をたくさん仕入れたところで何もわかっては来ない。
世間で哲学と言われているものは真理への自由な探求ではなく、伝統によって幾重にもがんじがらめになっている制約の上で行われている頭脳ゲームである。途中で、これでは何も真理はわかってこないと気づいても、生活がかかっている以上今更やめるわけにもいかないということである。
今の哲学は新文明期への過渡期にできたものに過ぎないし、それができたヨーロッパ文明というものがそもそも目覚めというものを文化的に十分自覚していないという欠損を抱えていたものなので、そういった過去に縛られた土俵の上でゲームをしなければならないのはばかげているという話である。