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2017.09.09

身体意識も変化しつつある

私が身体意識、身体感覚に興味を持っているということを先に書いた。私は一方で、自分の本質が純粋な宇宙意識であるという感覚も少しだけあるが、その広大なものが肉体というきわめて狭いところに入って何を経験しようとしていたのか、ということも考える。やはり、その身体というものを十分に経験しなければせっかく地球に来た意味がないということになるであろう。物質界とはそこで遊び、探求するためにあるので、決して牢獄ではない。どこかの星で悪いことをしたから地球などという辺境の星に流されてきてしまった、などという感覚を持っている人もいるようだが(古くはグノーシス主義者など)、決してそうではないと思う。やはりみな「好きこのんで」ここに来ているのである。使命とかそういうことではなくて「観光」である。それもとびきりの「秘境ツアー」なのではなかろうか。今の地球でいえば、南極に行くとか、グリーンランドへ行くとか、あるいはアマゾンの熱帯雨林探検くらいのものだろう。

さて、そこで地球の時間にして数十年を生活してわかってきたことは、「制限というのは、そこから自由になることを体験するためにあるもの」である、ということだ。すべて対極、二元性というのはそのためにある。人間の基本的な物語は「制限を突き抜けて自由になる」ことである。その物語は少年ジャンプのマンガであれ甲子園であれベートーベンの第五交響曲であれ本質的に同じなのだ。

人間は物語に沿って生きるのだなあ、というのがわかったことだ。もし宇宙人がいるとして(いるのだが)、地球人を理解するのに何を見るのが手っ取り早いのかといったら、地球人の好んでいる物語を見ればいいことになる。
ところが、である。
この、人類の基本的な物語に、変化が現れてきたのではないか。

どういうことかというと、
これまでは基本的に「苦悩を突き抜けて歓喜へ」が、人類の物語だった。
ところが今、「苦悩を経験せずに歓喜を経験できる」ということを、人類が知り始めているのではないか、ということだ。

「今まであれこれ苦労していたのに、なんでこうもあっさりと・・?」
こういうことになってきているのである。

努力しなくてもいい、なぜなら、歓喜は(あるいは、自由は、と言ってもいいが)、既にそこにあるのだから。
あれ? でもこれは、既に禅とかで言っていたことですよね。

その通り。でも今まで、誰も本気にしなかったでしょ、ということだ。

努力すること自体に価値を認めることは、既に古い文明原理に属している。
これからは、何とも簡単に、完全なリラックスの状態のまま、ひょいとできてしまう、というのが価値あることと見なされるのだ。

日本人は特に、この「努力という美徳」を乗り越える必要がある。

実は、私がこういうことを考えるようになったのは、甲野善紀氏の武術について読むようになったからである。


このタイトルの通り。

ここから私見になるが、努力というのは力を入れることである。そうではなく、完璧なるリラックスをめざす。完全なるリラックスに達したとき、意識は、その本来の無限性の状態になるのである。その時が最も強い。植芝盛平などは、そういう状態になったのだろう(しかしそれ以降の合気道では、植芝盛平のレベルに達した人はないようだが)。これが私の仮説である。

今までの枠にとらわれず、難しかったことがあっさりできてしまうようになる、というところが面白い。

また甲野氏と対談本を出しているので知ったのだが、小関勲氏の「ヒモトレ」なども、今までの常識を打ち破る身体技法だった。



何せ、普通にスーパーとかで売ってるヒモを身体にまきつけるだけで、力が強くなったり、柔軟になったり、身体感覚が変わってしまうというのだ。これは画期的な技法だろう。もちろん私も実際に試してみた。

身体というのは自分の自由に使っているように思うが、実は、文化によってさまざまに条件付けられていて、不自由な動きをしているというか、身体のポテンシャルを十分に使えていないところが大きいのだ。特に日本では、明治以来の体育教育というものが、身体を軍隊式に統制する方向にあったので、身体の自由な使い方というものを知らずにいる状態であるらしい。あの甲野氏も体育の成績はほとんど「2」であったという。

今までの常識の枠組みを超えると、いとも簡単にできてしまう、というところが、とても「いま風」というか、新しい時代の意識を感じさせるところである。

どんどん簡単になっていくのである。教師をやっている世代の人は、多くはまだ努力することを重視しているが、むしろこれから大事なことは「喜びをもって自分を解放していく」ことである。

人類意識の変容を促す三本の映画作品

今回のテーマは「人類の意識を変えた映画三本」である。

前の記事であげた、コンタクト関係の映画、特に「コンタクト」と「未知との遭遇」はべつにしておく。

1.2001年宇宙の旅
これは私の人生の中で最も衝撃を受けた作品である。人類の文明というものはどこへ向かっているのか、というテーマを考えるようになったきっかけかもしれない。こういうものとして、小松左京の「神への長い道」などの作品もあったことを思い出す。人類がやがて「開国」をして、次のステージへ向かわねばならないこと、それは意識の変容であるということを、はっきりと印象づける作品であった。
なお、そういう「人類の未来の意識」を表現した、最も古くかつ最も深い作品は、映画ではなく、「ベートーベンの交響曲第五番」ではないか、というのが私の考えである。

2.マトリックス
こちらは人間の持っている「現実」についての観念を変容させる作品である。現実とは夢であり、そこから目覚めるということがある、というコンセプトを人類社会に知らせることになった。東洋哲学の本やノンデュアルの本を読む人の数とは桁が違う。間違いなくこの作品以降、現実というものに関する考え方は変化している。ただしこの作品自体は、若干、グノーシス主義的な現実敵視の思想が見られる。しかし、現実そのものはニュートラルであり、誰かに「見させられて」いるものではない。自分で選んでいるのである。その点は、伝統的な目覚めの哲学からすればバイアスはある。なお、夢と現実というテーマでは「バニラ・スカイ」という作品も印象的であった。(なお、マトリックスの続編はどうでもよい)

3.アバター
ネイティブ文明対近代文明という図式は、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の系統にあるものなのだが、この作品は、そのネイティブ文化に存在した「聖なる意識」の映像化が素晴らしい。全てが一であり生命であるという直観が圧倒的な映像表現で示されている。人類文明の向かう方向がヴィジュアルで示されたということになる。

もし以上三つの中で見てないものがあれば必見である。

目覚めへの意識の量的変化

自己の神性への目覚め、ということ自体は何ら新しいわけではない。それは既に伝統哲学――インド哲学、ギリシャ哲学、禅など――で、探求されたことである。ただ、過去の文明においては、それに気づいた人はきわめて少数であった。これに対し、現在は、ものすごい数の人、それも、別に何かの伝統に沿って「修行」をしたわけでもない普通の人が、目覚めの意識を経験している。この数ということが、大きな変化なのである。つまり、量の変化が全体の質の転化をもたらそうとしている、という状況だ。

神性への目覚めということがらを、学問内部で探求しようとしたのは、人間性心理学やサイコシンセシスを先駆者として、トランスパーソナル心理学という立場もある。だが、哲学としてはもっぱら、アカデミズムの外部で受け入れられてきた。西洋社会でのその始まりはロマン派における直観からスタートして、エマーソンなどが本格的に東洋思想を深く理解し、ニューソートという思想の流れで追求された。これは今の「引き寄せの法則」の思想的なルーツになる。

そして今では、ノンデュアルなどという名前がつけられることもあるが、目覚めの意識を体験した人たちが、これは昔から東洋思想が言っていることと同じだなあ、ということに気づいてきた。トールなど、最近、その手の本もいっぱい出るようになっている。ここまで、西洋社会の人たちがこういう考え方を理解した時代はかつてないので、20世紀後半から21世紀にかけて、爆発的な「東洋哲学の浸透」が見られたということなのである。

西洋においては、それまでの、キリスト教思想の理解が、あまりにレベルが低すぎたことに気づき始めた。最も高次な視点で理解すれば、イエスの言っていることと東洋哲学は矛盾しないらしい、という視点を持つ人も出始めたということである。

こんな本が出ているのも紹介しておきたい。

Easternization of the West: A Thematic Account of Cultural Change in the Modern Era (Yale Cultural Sociology Series)

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宗教や霊性についての西洋人の理解が「東洋化」してきていることを指摘している。こういった文化変容が進行していることは、人類全体に「神性への目覚め」という価値観が共有される時代へと向かっている、ということになるのである。
しかし、こういう変容について、知識人と言われる人の反応はかなり鈍いのである。こうした文化変容は、ある程度の教養はあるが、わりと普通の人が主導している面がある。

それは結局、知識人というのは社会のエスタブリッシュメントであって、既存の価値観の中で競争を勝ち抜いて優等な地位を獲得した人々であるので、自分のよって立つ基盤を崩すような思想に賛同はしないものである、ということだ。哲学とはすべてを疑うことだと言われるが、世の中で哲学とされているものが本当に必要か、哲学者とは必要かということ自体は疑わないものらしい。私はそこのところを疑っているが。本当の哲学者は大学の哲学科にはいないものだと考えている。

しかしながら、地位や名声などはどうでもいいのである。それは三次元世界の夢のゲームでの勝った負けたという世界である。要は、目覚めるが勝ち、自由になることが唯一、本当の価値があることなのである。

宇宙文明への開国ということ

一部の人の間で言われてきた、オープン・コンタクトという概念がある。これは、地球外知性体の文明社会から地球人類にコンタクトが始まっていることが、公にされるということを意味している。

実はもう既にアメリカやロシアなどの最上層部はそのことを知っているが、準備が整うまで一般国民などには秘密にされている、などという噂も、聞いたことがあると思う。

オープン・コンタクトが起こるとどうなるだろうか。もう地球の人類の常識が根底からひっくり返ることになるだろうと思う。それはいわば人類の「幼年期の終わり」であって、新たな文明のステージの始まりとなる画期的なことだろう。しかしその対応を誤ればとんでもない大混乱になる可能性もまたある。

実は、トランプ大統領はあのような人だから、既にコンタクトが存在していることをぽろっとツイッターで書いてしまうのではないか、という可能性もあると思う(笑)

まあ私は既にこのブログの過去記事で、地球はやがて宇宙文明へ向かって「開国」をする時期に入るのである、ということははっきり書いてしまっている。ペリーの「黒船」が日本に来たときだって、その事実はごく一部の日本人しか知らず、大多数の人はそんなことは知らなかったのだ。だから、「黒船は既に来ている」とも言えるわけだろう。

知識人といったって大部分は結局「保身の論理」から自由ではない。こんなことを言ったらなんと思われるか、というのが恐いのである。しかし私は恐れるものはない。オープン・コンタクトが実際に起こったとき、あいつだけはあのときからはっきり言っていたなあ、と思われることになるかもしれないのだ。

既に「コンタクト」というそのものずばりの映画があったし、スピルバーグの「未知との遭遇」や「ET」などの名作もあり、そういうフィクションを通して、徐々に、人類はこういうコンセプトに慣れてきているのである。

ただ、いわゆる「宇宙人」ということを考える際に、一つ重要なポイントがある。それは、宇宙文明への開国ということは、この物質次元だけが現実であるという枠組みから脱することが不可欠だということである。宇宙は多次元なのであり、人類も実は多次元的存在である。そして宇宙文明とは多次元的に展開されているのであり、決して、単に物質次元のある惑星だけにあるというものではないのだ。比喩的に、仮に今の人類のいる世界を三次元と名づけるならば、四次元、五次元、六次元等の世界にある文明があり、そこに高度知性体が存在する、と考えられる。

しかし、実はこういう世界観は、近代以前には当たり前にあったものだ。つまり、昔は「天使」などと呼ばれていた存在と、いま「宇宙の高度文明にいる存在たち」とは、同じものを、違う解釈枠組みで捉えたものだということになるのである。

こうした宇宙の高度文明では、三次元の地球文明ほど分離感が強くなく、つねに、すべてが一体であるという認識が忘れられていないのである。

一部の世界で「アセンション」と呼ばれているのは、地球文明が全体として意識の高いレベルに入っていくということを意味しているのだが、それは、宇宙文明への開国ということと、実は密接にリンクするのである。

以上に書いたことは、すでにもう当たり前だと思っている人も多いと思うが、こちらのブログでも、以降は、これをはばかることなく書いていくことにする。

そんなことを書いたらくびにならないんですか、と心配する人もいるかもしれないが、なりません(笑) それだったら保江邦夫さんはどうするんですか?(まああの人はバチカンに守られているのかもしれないが) 宇宙人好きの横尾忠則さんも美大教授だったんですからね。

既にいろいろな人が、今までは小出しに、来るべき大変革に備えて、少しずつ宇宙への開国のための準備を進めているのである。このブログも、これからはそういう役割をするようにしていくのである。

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