いわゆる「哲学」の退潮について
昔から何度も書いたことかと思うのですが、再開に当たってあらためて書こうと思います。
それは「哲学」のことなのですが、
ものすごくぶっちゃけで言うと、現在行われているような意味での「哲学」は、「いらない」と私は考えています。
なぜか?
そもそも西洋近代哲学というプロジェクトはハイデッガーによって終幕を告げられ、そしてポストモダンによってその戦後処理(敗戦処理?)が行われて、終息したとの見方をしています。
というのは、そもそも「左脳的な論理のみによって真理に到達する」ことが不可能であることが明らかになりました。
スピリチュアル的に言うと、左脳は自我(エゴ)の領域であり、
そもそも深い世界を探求するためのツールとしては向いていません。
それとは別の、深い何かを知覚、理解する能力が人間には潜在しています。
それを忘れてしまい、全部左脳的論理で何とかなるという近代文明の原理が崩壊しているのです。
この潜在する能力、左脳とは異なるより深い知的能力が、ギリシアの「ヌース」ということの意味です。
そもそも現在の哲学のルーツはヨーロッパ中世の哲学にあります(ギリシア哲学ではありません)。
そこでは「神学」が学問の主であり、真理は啓示によってしか明らかにならない、という大前提がありました。
この大前提の上で、議論のための「補助ツール」として哲学がありました。ですから哲学「だけ」で真理が解明されることはもともと想定されていなかったのです。哲学は「思考訓練」であり、そのために論理が重視されました。実質「論理学」であったと言ってもいいですね。
ところがこの「補助ツール」であった哲学が、近代になって神学の権威が揺るぐと、それに代わって「真理を探究しうるもの」と見なされるようになった、ということです。
今の普通の日本人に、「論理的な思考のみによって宇宙の真理に到達できると思いますか?」と質問したら「そう思います」と答える人は少ないのではないでしょうか。
でも近代西洋人は「そう思います」だったわけです。そのくらいメンタリティが違います。
なぜそう思うのか?
「神は理性的な秩序で宇宙を作りました。その神の知性が人間にも与えられています。それが理性です。ですから理性を用いて我々は真理を知りうるのです」
これが西洋人の発想です。
これを本気で信じることができる人のみが西洋哲学ができる、と言ったらさすがに言い過ぎでしょうが、
「宇宙の理法」について彼らの信念はそれほど強いです。
西洋人の科学者の多くもたぶんこういう考え方の人は多いはずです。
が、
じつは、そうした「神」はいません(笑)
そうした「神」がいないことを宣言したのが、ニーチェです。
神がいなければ、宇宙の理性的秩序もありませんし、人間の理性が宇宙を知りうる基盤がありません。
しかし、
もともと東洋の伝統では、はじめからそんな「神」がいるとは、思っていませんでした。
その伝統による真理の探究は、西洋とはまったく異なるものであるはずです。
しかし、これは普通の「勉強」によって何とかなるものではないため、アカデミズムのシステムに乗ることはできません。
今のアカデミズムでは、左脳的な知識さえ積めば、なんの体験的なものがなくても、通用してしまいます。
ピアレビューのシステムでは、「ほとんどの人に理解できるもの」しか受け入れられません。
こういった西洋から移入された「哲学」という「制度」は、だんだんなくなっていっていいものだと思います。
「哲学史研究家」が少数だけいればいいでしょう。
真理の探究は、学問ではありません。
これが私の基本的な立場です。
玉城康四郎の言葉を借りれば「全人格的思惟」なのです。
そもそも、世界は常識というマトリックスでできています。(映画の「マトリックス」の意味で)
物質法則とはマトリックスの構造のことです。
そこから「出る」と、多くの人に理解できなくなります。
ですから、「はみ出る」ことを恐れていては、何もつかめません。
ピアレビューなんてまったくお呼びではないのです。
私はこれまで「はみ出る」ことを恐れませんでしたし、これからもその予定です。
しかしながら、世界はだいぶ変わってきました。
10年前では奇異の目で見られたことをいっても、それほどおかしくはなくなってきています。
そしていま世界で起こっていることは、旧秩序が大々的にリセットされて、新しい世界に移行するプロセスの一環に見えます。
1980~90年代に中沢新一がはやったり、2000年代にトランスパーソナルが流行したり、スピリチュアルに「学問的よそおい」をもたせたものが支持を集めたことがありました。
しかし今、スピリチュアルリーダーの中に、学者・知識人はまったくいなくなりました。そういう人たちの思想的な影響力がきわめて小さくなっている現状があります。
それは、人々が、「学問」にもはや期待しなくなっているからではないでしょうか。少なくともこういう分野では。
「本当にわかった人」が誰かをわかるようになってきたということです。
これはとても健全なことです。(ただ、私は中沢新一の『レンマ学』は素晴らしい名著だと思いますよ)
こういう状況の中で何ができるかを考えていきたいと思います。