新しいネタもあまりないので、ここで、むかしの「Intelligent Spirituality」に書いたものを復刊してみる。まえにHPにも出していたものだ。
■2003/09/04 (木) 身体感覚の文化
斎藤孝といえば最近の超売れっ子であるが、その中でも『自然体のつくり方』というのが役に立った。そろそろ講義のことを考えていて、今年は単に講義をするだけではなくて、もう少し何か「体感」しうるもの、実際に役に立つものを考えていたのだった。そこで、現在では身体感覚が衰えているという説は納得がいく。斎藤の言う「中心感覚」があって、そこからくる自己肯定感や、また大きな宇宙とつながっているという感じが何となくわかるということが、全ての基礎ではないかと思える。つまりは「存在しているという感覚」だ。「マクロコスモスとミクロコスモスの対応が・・」とか言っても、それが直観的にわかるような身体感覚というものがあるので、まずその感覚が分からない人にいくら話して聞かせてもわかるものではないはずだ。そこで斎藤孝は丹田や中心軸の感覚という「中心感覚」と、それをベースに他者との間隔を直観する「距離感覚」を身体感覚の基礎に据えて、それを具体的に訓練する(斎藤は「技化する」という)方法論を教えている。ある意味では『身体感覚を取り戻す』で概論として述べたことの発展であるが、こっちの『自然体のつくり方』のほうがずっとわかりやすく具体的なメソードも書いてあるのでなかなかよい。私もそういえば最近身体トレーニングがおろそかになっていると感じ、この本にも書いてあるスワイショウなどをやってみたりした。
考えてみれば、科学の方法に載らないものをすべて「主観的」として切り捨ててしまった近代文化に対して、身体文化というものは「自分と宇宙とをむすぶ微妙な感覚」を「型」を通して鍛え、それを共有するという文化なのである。これこそ本当の現代の思想である。つまり、これからの思想は身体感覚に支えられねばならない。これがもともと東洋文化であった。身体を捨象して、自分というものを「意識」の立場に置いてのみ見るという西洋思想の限界がはっきりしたということだ。
身体感覚が衰弱し、「存在することの幸福」が理解できなくなった人がいくら「スピリチュアル」とか言っても始まらない――というのが私の基本的な考え方である。そういった、健康な身体性に基づく自己肯定感が欠けているような人が、その欠損を補うために霊的な世界に興味を示すというのは、危険なところがある。さらにバランスを崩しやすいのだ。そういう人々こそがオウム的なるものの格好の標的になるのだ。
斎藤は一貫して「あまり神秘的なことに興味を持ちすぎないようにすること」と言っているが、これも一理ある。先に書いたように、健康な現実感覚を持てず、バランスが悪くてフラフラしているような若者が霊的世界に興味を持ったりするケースがかなり多いことは私も実際に見聞しているからである。
特に若い男性に多いのだが、何かとてつもないすごい体験がどーんと来て、その瞬間に全てを悟ってしまうような体験を期待している人がある。そして、そういう体験が自分にはないことに悩んだり焦ったりするケースがよくある。これもまた、オウム的なるものにひっかかりやすいパターンなので十分な注意を要する(女性の場合は、身体によってこの世界に存在しているという感覚に完全に鈍感になることが比較的少ないのかもしれない)。たしかにそういうすごい体験というものが世の中にないわけではない。しかしそれは恩寵ともいうべきものであろう。それはスピリチュアルなるものが存在する唯一の形ではない。むしろ、こう言いたい。あなたは、この一日の中で、どのくらい「美」を発見しましたか? と。今日の空に、面白い形の雲はありましたか? 家から駅までの道に、何種類の花が咲いていたか覚えていますか? ――たとえばもし、道ばたに赤い花の野草があって、その茎にかたい棘がいっぱい生えていることに気づいて、そして図鑑を見てその名前が「ママコノシリヌグイ」であるということを発見する、ということは「スピリチュアル」とは何の関係もないことなのであろうか? 世界をきちんと感じることが、あらゆるスピリチュアルの出発点であるべきではなかろうか。だから、シュタイナーのシステムにもオイリュトミーがあり、幼児教育の基礎となっているのだろう。
と、ここで思いついたが、斎藤孝が言っている身体感覚というのは、決して物質的な次元の感覚を言うのではなく、むしろ「エーテル体」的なものであろう。中心感覚というのはエーテル体の感覚である。似たような概念はシュタイナーの十二感覚論にも述べられている。
つまり、健全な発達とは、エーテル体感覚→アストラル体感覚→概念感覚→霊的自我の感覚、などという感じで進むものなのだろうが、現代社会ではこの最初のエーテル体感覚が十分に発達しにくいという状況にあるわけだ。そのことに自覚的でないと、霊的探求のスタイルもまたひじょうにアンバランスなものになってしまう。ここにカルトの危険が生ずるわけだ。
しかし、こういう発達の考え方の方が、ケン・ウィルバーのプレパーソナルなんたらというものよりよっぽど面白いぞ。西洋心理学ではあくまで「自我の発達」などという枠組で言うのだろうが、実はそれは、幼児期のエーテル体感覚の発達不全が影響していることがはなはだ多いのではないか? 正統派の西洋心理学では、こういう身体文化的な視点を持ちえないのだろう。しかし、身体感覚を捨象した心理学なぞ、もう時代遅れだなあという感じ。
だからもし霊的な探求に関心があったとしても、まずは、エーテル体感覚の健全な確立、つまり中心感覚をしっかりと把握した上で、それを中心軸の自覚としていき、その軸によって天地とつながっているという感覚を自分のものにするところから始めるのが、最も確実な道ではないかと思える。ヨーガには、こういう体系が既にできている。気功にもある。エーテル体のバランスが取れれば、世界にある美などにもっと気づくようになる。ドーンと向こうから神秘体験、なんて期待したりするのはどこかバランスが狂っている証拠だ。実際に望む通りの体験が来たらさらにおかしくなって社会からドロップアウトになってしまうぞ。
と、むりやり斎藤孝を神秘学の文脈に結びつけているような気がしないでもないが(笑) でも「エーテル体の叡智」というのがあるのは確かで、職人的な技などもみなエーテル体的な知恵である。
それとこれも重要なことだが、斎藤孝が言う通り、健全なエーテル体感覚、つまり「自然体」は、内へと同時に外へも開かれている。中心感覚が決まるということは「ハラが据わる」ということで、他者(社会)との健全な「距離感覚」もそこで生まれ、状況に対し柔軟に対応できるようになる。
とは言っても私は、ある特別な運命を持った人々が、この肉体世界を徹底的に否定して厳しい修行に打ち込むという生き方を否定するわけではない。そういう定めの人は私が何をいおうがそういう道にいやでも行ってしまうのである。魂の道は長いのである。一生や二生くらい山にこもって修行したからといって、そういう生き方はいかんなどつべこべ抜かすような了見の狭いことはしたくないものである(本山先生は、一生や二生くらいはそういう修行もしないと悟れないと言っている)。
そういう「修行の文化」というのも東洋には確かにあるわけで、これはエリートのための道、男性的な道と言える。仏教ではこれを「聖道門(しょうどうもん)」と言う。これに対し、前回まで書いたような行き方は女性的な(フェミニン)な道と言える。ただ、現在のところ、スピリチュアルと言えばすぐ「修行の文化」だけが思い出され、そこに飛び込んで人生を賭けようとするか、さもなければ「これはとても自分にはできない」とガックリ落ちこむかという二者択一がともすると見られるのだ。そこで、それ以外の「フェミニンな道」もありますよ、ということをもっとアピールすべきではなかろうか、と思うのである。本当に「修行の道」を歩める人はひじょうに少ない。大多数は落後するか妥協に終わる。人生を賭けたりしないほうがいいとは思うが。
マッチョなスピリチュアリティーを認めないわけではない。ただそれでずっと行っている人は、またどこかの転生でそのバランスを取り、フェミニンな霊性を知る機会を与えられるはずである。全体としてみれば、21世紀の社会が必要としているのはむしろフェミニンな霊性の確立ではないかと考えるのである。