身体意識も変化しつつある
私が身体意識、身体感覚に興味を持っているということを先に書いた。私は一方で、自分の本質が純粋な宇宙意識であるという感覚も少しだけあるが、その広大なものが肉体というきわめて狭いところに入って何を経験しようとしていたのか、ということも考える。やはり、その身体というものを十分に経験しなければせっかく地球に来た意味がないということになるであろう。物質界とはそこで遊び、探求するためにあるので、決して牢獄ではない。どこかの星で悪いことをしたから地球などという辺境の星に流されてきてしまった、などという感覚を持っている人もいるようだが(古くはグノーシス主義者など)、決してそうではないと思う。やはりみな「好きこのんで」ここに来ているのである。使命とかそういうことではなくて「観光」である。それもとびきりの「秘境ツアー」なのではなかろうか。今の地球でいえば、南極に行くとか、グリーンランドへ行くとか、あるいはアマゾンの熱帯雨林探検くらいのものだろう。
さて、そこで地球の時間にして数十年を生活してわかってきたことは、「制限というのは、そこから自由になることを体験するためにあるもの」である、ということだ。すべて対極、二元性というのはそのためにある。人間の基本的な物語は「制限を突き抜けて自由になる」ことである。その物語は少年ジャンプのマンガであれ甲子園であれベートーベンの第五交響曲であれ本質的に同じなのだ。
この、人類の基本的な物語に、変化が現れてきたのではないか。
どういうことかというと、
これまでは基本的に「苦悩を突き抜けて歓喜へ」が、人類の物語だった。
ところが今、「苦悩を経験せずに歓喜を経験できる」ということを、人類が知り始めているのではないか、ということだ。
「今まであれこれ苦労していたのに、なんでこうもあっさりと・・?」
こういうことになってきているのである。
努力しなくてもいい、なぜなら、歓喜は(あるいは、自由は、と言ってもいいが)、既にそこにあるのだから。
あれ? でもこれは、既に禅とかで言っていたことですよね。
その通り。でも今まで、誰も本気にしなかったでしょ、ということだ。
努力すること自体に価値を認めることは、既に古い文明原理に属している。
これからは、何とも簡単に、完全なリラックスの状態のまま、ひょいとできてしまう、というのが価値あることと見なされるのだ。
日本人は特に、この「努力という美徳」を乗り越える必要がある。
実は、私がこういうことを考えるようになったのは、甲野善紀氏の武術について読むようになったからである。
このタイトルの通り。
ここから私見になるが、努力というのは力を入れることである。そうではなく、完璧なるリラックスをめざす。完全なるリラックスに達したとき、意識は、その本来の無限性の状態になるのである。その時が最も強い。植芝盛平などは、そういう状態になったのだろう(しかしそれ以降の合気道では、植芝盛平のレベルに達した人はないようだが)。これが私の仮説である。
今までの枠にとらわれず、難しかったことがあっさりできてしまうようになる、というところが面白い。
また甲野氏と対談本を出しているので知ったのだが、小関勲氏の「ヒモトレ」なども、今までの常識を打ち破る身体技法だった。
何せ、普通にスーパーとかで売ってるヒモを身体にまきつけるだけで、力が強くなったり、柔軟になったり、身体感覚が変わってしまうというのだ。これは画期的な技法だろう。もちろん私も実際に試してみた。
身体というのは自分の自由に使っているように思うが、実は、文化によってさまざまに条件付けられていて、不自由な動きをしているというか、身体のポテンシャルを十分に使えていないところが大きいのだ。特に日本では、明治以来の体育教育というものが、身体を軍隊式に統制する方向にあったので、身体の自由な使い方というものを知らずにいる状態であるらしい。あの甲野氏も体育の成績はほとんど「2」であったという。
今までの常識の枠組みを超えると、いとも簡単にできてしまう、というところが、とても「いま風」というか、新しい時代の意識を感じさせるところである。
どんどん簡単になっていくのである。教師をやっている世代の人は、多くはまだ努力することを重視しているが、むしろこれから大事なことは「喜びをもって自分を解放していく」ことである。