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見える世界と見えない世界のつながり:participation

さて新年度である。最近あまり更新がないこのブログであるが、今年度からはもう少し発信をしていきたいと思っている(と、今までに何度も書いたような気がするが。正直なところ、このココログというシステムには癖があって書き込みがしにくい。しかし今更引っ越すのも大変だからそのままにしているが)。

私のこのところのテーマは、「近代の世俗的な世界観はなぜ生じたのか」ということだった。つまり、リアリティというものを超越的なものと関係なく、この現実のみが存在するという、近代人が当たり前としている形而上学的枠組みの起源、といったところである。

このテーマについては最近、だいぶ見当がついてきた。基本的に、ラジカル・オーソドキシー、チャールズ・テイラー、ルイ・デュプレなどの路線で考えればいいということだ。これを理解するためには、中世までのヨーロッパの世界観がわかっている必要がある。

キリスト教神学についても少し勉強した。そこでわかってきたのは、ヨーロッパを総体的に文明として理解するためには、哲学と神学の両方に目配りしなければならない、ということだ。実は、哲学と神学の分離というものがある時点で起こっている。そこで神学から切り離されたしまった哲学が明治期に日本にも輸入されたわけだが、私たちはもはやこの分離自体を疑いにかけなければならないのだ。つまり、モダンもポストモダンも、こうした分離の事後に成立している哲学だという点では同じなのである。ポストモダンはモダンを超えてはおらず、むしろモダンに特有な懐疑(疑いの哲学)の徹底化なのだと見るべきだろう。真のフロンティアは、神学と哲学の分離という問題にあるらしい、ということがわかってきた。

神学と哲学の分離というのは、実は、自然と超自然の分離でもある。つまり、超越と何ら関わることなくそれ自体で存在する自然というコンセプトは、こうした分離の事後に生まれたものである。そのパースペクティブが近代科学の根底でもある。

しかし少なくとも13世紀のトマス・アクィナスまではそうした分離はなかったらしい。

話が難しくなりそうだが、簡単に言えば、「見える世界」は「見えない世界」に支えられてのみある、という考え方ということである。

見えない世界などというものはなく(あるいは考えに入れる必要はなく)、見える世界はそれ自身で存在する、というのが近代特有の世界観だ、ということなのである。

そのことを、現代科学のパラダイム転換とからめて、量子論やらダークエネルギーなどと関連させて解説する人も多いが、それは論としてカテゴリーエラーの可能性もあるので今それはとらない。

見える世界を支え、存在せしめている見えない世界とは、ヨーロッパ文化的には「神」と呼んでもいいのだが、この存在するものと存在をさせる何かとは異なることを指摘したのは、ハイデッガーだった。ハイデッガーは実は中世の神学に詳しい人で、こうした区別(存在論的区別という)は既に中世にあったものだということを知っていたはずだ。

こういう存在のありかたを、participation という語で名づけている。存在するあらゆるものには、存在するのではない何かが参与している、ということである。わかりやすくいえば、異次元なるものである。

私はこれは、キリスト教文化の文脈以外でも使えるコンセプトではないかと思う。

仏教で言えば、「色即是空・空即是色」は、participation なのだ。

「色」(「しき」と読む)とは存在するもののことであり、空は仏教で言う絶対者であるが、「仏」と言っても同じことである。

仏教学者は「空」を「実体がない」などと解説することが多いが、それは意味の一つにしか過ぎない。「空」とは「大いなる神秘」などと訳しても差し支えないと思う。キリスト教神秘主義者のようにかっこよく「輝ける闇」などと言ってもいいものである。

鈴木大拙は「即非の論理」という言い方をしているが、これはほとんど participation の神学と近いなあ、と感じるのである。

また、ラジカル・オーソドキシーで面白いのは、liturgy の復権ということである。つまり、理論や教義だけが問題ではなく、何をやるということである。キリスト教の場合はミサがそれにあたる。そこで、聖体(パンとワイン)に participation があるのか、という議論になるが、それはつまり、そこに本当にキリストの臨在があるのかということである。そういう次元間交流が起こるのか、ということが議論されている。そこで、これまでヨーロッパ人はまったくばかにしていたイアンブリコスの新プラトン主義が評価されたりするのだから面白いことになっている。

あまりに日本と関係ない話のようだが、実はそうではない。神道はほとんど liturgy がすべてという宗教である。また仏教の密教もそれに近いものである。そこで本当に神仏の力が来る、と信じなければあまり参加する意義は感じられないだろう。物質次元は非物質次元とつながって動いているという世界感覚が神道や密教の基盤になっている。近代的世界観を乗り越えないとこれを完全に理解することはできないのだ。こういう方向性を sacramental theology というのだが、これは日本人が神道や密教その他仏教的実践を理解し、評価する上でも参考になる。

日本にたくさん学者はいるが、神仏は確かにある(感じられる)ということを言い切れる人ははなはだ少ない。それはこうした神学的思考をするトレーニングがほとんどアカデミーにおいてなされていないからではなかろうか。またヨーロッパ文化を全体として理解するという視野に欠け、専門分野のごく狭いところしか勉強してない人が多いのではないか。神仏が実在すると一度も実感したことがない人が教授になったりしているのはどこか文明のあり方として間違っている。私は仏教学者では鈴木大拙と玉城康四郎以外はあまり評価していない。

これはトインビーの文明論にもあったことだが、文明というのは何らか、どのようにして超越性と関わるかを大きなテーマとしているものである。それは自分たちの存在の意義をどのように理解するという問題だからであり、その根本問題を「だって答えがないんだから考えなくてもいいじゃん」という態度で回避しようとする現代文明のあり方はどうなのか、ということである。ヨーロッパはどのようにしてこのような超越の問題にかかわり、そして、最終的に「超越なしで現実を捉える」という文明のあり方に至ったのか、この根本を押さえないでいて、どうして現代日本において根源的思考が可能になるのであろうか。

今日はこのへんにするが、participation の世界観を理解するのは、このブログでも前に紹介したことがある、Heavenly Participation という本がわかりやすい。前半だけ読んでも十分だ。

内なる神性を言い表す

サブタイトルを「神性の目覚めへ向けて」に変えた。こちらの方が「霊性の文化への序章」よりわかりやすいですよね、たぶん。霊性ということばはあまり普及していない。というか、「霊」ということばが日本では曖昧なので・・ 霊とは幽霊というか、物質を持たない意識体のことだ、という意味がまず最初に来ることが多いだろう。英語で Spirit というと、それは神の別名であって、宇宙の根源にある何かという理解になり、キリスト教系の訳語での「霊」はそういう意味で用いる。聖書で霊というのはそういうことである。しかし日本語ではそこまでの連想がすぐに浮かぶことはないだろう。「スピリチュアリティ」と、そのままカタカナ語で表記することが一部の学者の間でなされているが、そのカタカナ語は何となく軽薄な語感があるので私は使用しない。

学者がスピリチュアリティーという時は何でもかんでもつめこみすぎだと思う。違う次元のことが見えるとか聞こえるみたいなことまで含んでしまっている。それではオカルトと区別がつかない。

そういうのはまったく本質と関係ないことである。たしかに宇宙が多次元であり、次元間の交流というものがあり得ることを言うのは重要ではある。しかし本質はあくまで「内なる神性の目覚め」でなければならないのである。そこで日本では、霊性というより神性と呼ぶ方がいいのである。霊という言葉からの変な誤解がない。これは仏教で「仏性」ということと同様であって、仏を神に置き換えているだけである。神道でも内なる神性を認めるのであるから差し支えはないであろう。同時に西洋的な意味もそこに込めている。

内なる神性の開顕ということが本質であり、そこがこれからの文化の基本的な進化方向である、ということである。それよりも広い意味で「スピリチュアリティー」などという語を用いる場合は、内なる神性、つまり人は本来神であるという理念があまりはっきり入っていない宗教伝統をもそこに取り込もうという意図があるのかもしれない。つまり、そこに自分の価値判断を持ち込みたくないというか、内なる神性と言っている伝統を重要視し、そうでないものを軽視するのにはためらいがある、ということかもしれない。

だがこうした「気遣い」は無用であろう。これからは、内なる神性ということをはっきりと言っていないものは「道の途上」にあるものと位置づけ、神性を言っているものがこれからの人類文化にとって重要になる、という価値判断をはっきりとしていかなければならないのである。そういうことをはっきり言おうとせずあちこちに気兼ねしているからいつまでも何が言いたいのかよくわからない言い方になる。そういう「宗教研究者」はあまり世の役に立っていない。既存の宗教すべてにいい顔をすることはできないのである。これから宗教がありうるとすれば、それは「宗教をなくすための宗教」以外にはない。全ての人が、自分の中に神性があると気づいたら宗教は不要になるのだ。宗教が統一されるということは宗教がなくなることなのである。ただ現時点として、内なる神性を目覚めさせるという目的で、先に進んでいる人の回りに人が集まるということは必要だし、否定されてはならないだろう。しかしそれはかなり緩いネットワークの形になっていくのではないか。

私の個人的な感覚であるが、「霊性の文化」というより「神性の目覚め」と表現した方が、波動が上がるような気がするのだが、いかがであろうか?(笑)

哲学と神学の分離、神と人の分離について

前項の続きです。

そこで、もし人類の根本的な探求の歴史を総括する、という目的を立てたとしますと・・
ここで探求というのは、宇宙の根源、自己の根源についての探求、叡智の探求ということですが・・
次のような叙述になってくるのではないかと思います。

哲学の前史としてのシャーマニズム
ギリシア哲学(前ソクラテス、古典期)
ヘレニズム時代の哲学(プラトン主義的キリスト教哲学を含む)
インド哲学
仏教哲学
中国・日本における哲学的伝統
ヨーロッパ中世の哲学・神学
イスラム哲学・神学(これについては詳しく知らないが・・)
ヨーロッパにおける近代哲学の成立(神学との分離、科学、啓蒙主義など)
ヨーロッパにおける非-近代、反-近代の思想の台頭
未来の「人類哲学」とは?

ギリシア哲学、ヨーロッパ哲学とかじゃなく「人類哲学」とならなければいけないわけですね。

もう一つ重要なことを書いておくことにします。

もともと伝統的なヨーロッパ文明では、哲学と神学は一体のものと見なされていました。
神学というのは、理性で到達できないことを知ることに関する学問です。それを「信仰」と呼びますが、これはいまの日本人の信仰という言葉のイメージとは違います。「私は・・・を信じる」とある教義を本当と思う、というだけの意味ではありません。「理性で到達できないことが何らかの方法で明かされる、その真理の啓示を受け取る」ということを意味しています。

このことがわかってない知識人も多いですよ。だから、宗教なんて古いものを捨てて理性のみによって探求する近代になったのだ、近代はいいねえ、みたいな価値観がまだ生き残っているわけです。ここでの問題は、「私たちは、理性で到達できないはずのことを知ることができるのか」というきわめて根本的な問題なのです。「知ることが出来るはずがない」と切り捨ててしまったのが近代精神なのです。ところが「何らかの方法で知ることが可能だ」と考えるとまったく違った世界になります。もちろん「可能だ」とする答えが正しいかどうかは、当然ながら、理性的には証明できません。もしできるとしたらそれは矛盾そのものになるのはおわかりですね。

ですので、「神学と哲学が分離した」ということが決定的に「近代の知の地平」を作ったわけです。これが重要なポイントです。神学を切り捨てた上で成り立っているのが近代哲学なのです。それを自明とする価値観に立つ限り、そこで何が失われたのかという問いは生まれません。

この分離は、14世紀以降に、オッカムとかドゥンス・スコトゥスなどの神学者によって推し進められたと考えられています。この頃からキリスト教の世界では、「神を絶対視する」傾向が強まります。つまり、神とはまったく人間に推し量ることが出来ない絶対的なもので(それはその通りでしょうが)、そもそも神の領分に人間の知性がどうこうできるなんて考えそのものが冒涜である、という価値観が強くなりました。つまり、存在とは何かとか、そういうことは知性的に問うことは傲慢であって、それはただ信仰のみを頼りとすべきである、とするのです。

それ以前では、「照明説」というのがあって、つまり「人間の知性は神による照明を受けて高められうる」という考えがありました。これはアウグスティヌス以来の一つのヨーロッパ文明の伝統でもありました。その神の照明によって、人間の知性は、絶対的な真理にまで到達できないにせよ、あるところまで人間を連れて行ってくれ、啓示による真理の受け取りにつながっていく、みたいな、知性と信仰(霊的啓示)は協同するものだという考え方が中世では多かったのです。上のオッカムらの意見は、こういう伝統をまっこうから否定するという意味がありました。

実はこうした「神の絶対化」、神をまったく人間とは関わりないくらい絶対的な存在と見なすという流れが、プロテスタンティズムを生み出したものでもあります。たとえばカルヴァン派の見方では「そもそも神は、誰を救済するかをすでに決めている。人間がどうこうしようとそれはまったく神の意志には関係ない」というところまで行っています。普通の宗教だと人間がいい生き方をすれば神はそれを認めてくれるだろうと思うわけですが、そう考えることは人間のようなものが絶対的な神の意志に影響を与えることになってしまうからこれも神の冒涜である、という考え方をするのです。ここまでいくと普通の日本人にはついていけないと思います。つまりこの考え方はあまりに「神と人間は絶対的に違う」ことを強調するのです。しかし日本人の精神性はもともと神道的な「神と人間は一体」というか、家族のような感覚があるので、こうしたプロテスタンティズムの神学は最も日本の精神性から遠いものでしょう。

ここでおわかりのように、近代のヨーロッパ文明では「神と人間を切り離す」という方向に強く動きました。その結果、「神ぬきで人間は世界を認識し、コントロールするのだ」という思想にいたりました。これが近代文明を動かしている動機です。神を自分の世界から分離することによって、物質世界をコントロールすることに全力を傾けるような文明でした。

オッカムたちは、あくまで、神の絶対性を強調するためにそうしたので、彼ら自身は極めて敬虔な人物だったはずです。しかし結果として、そこまで人間と関係ない神だとしたらもはや神のことを考える必要もなくなるわけで、そこから物質主義的な文明になってしまったわけです。神の代わりに「人間の理性」を掲げるという啓蒙主義が生まれましたが、大戦とか、アウシュビッツみたいなものが起こって、人間が自分たちで理想的な文明を作る能力はないのではないか、との見方が拡がりました。

そして精神文明としては、「神と人間をあまりに分けすぎた」ことを認識するようになり、人間がいかにして、その根源にある聖なるものと関わり、知ることが出来るのかという探求がまたスタートしました。カレン・アームストロングの『神の歴史』という本はそういうこれまでの歴史の総括になっていたと思います。神を自分の外にではなく、内に見出さねばならないらしい、と近代欧米人も気がついてきた、ということがその本で示されています。

哲学に間違っていることの証明というものはありませんが、神を人間の外にあるものと見なす見方の限界が明らかになったのが近代ヨーロッパの歴史ではないかと思います。限界というのは、それはどのような文明をもたらすか、という視点でのことです。

現在において再び「神」について思考するとはどういうことなのか? ・・こうしたテーマの本などが英語圏にはたくさんあるのですが、こういう議論は日本の知識人はあまり関係ないようですね。そもそも彼らは、自分がそこに生きていることの根底についてぎりぎりまで考えたことがあるのでしょうか? 欧米人にはつねに神との対話、ないし対決というテーマがあるのですが、それはちょっとくらい勉強しただけではなかなか肌感覚としてわからないかもしれません。

そうしたテーマを扱うものとして「現代神学」があります。ここにいろいろ面白いものがあります。いま、佐藤優が勧めている神学ではありません。あれは日本人に最も遠い正統派のプロテスタンティズム神学であって、あれを勉強しても日本人に得るものは多くないと私は考えます。

日本の知識人には神学の知識がありません。すでに神学と哲学の分離が完了してしまった「事後」の地点でしか思考ができません。そこに限界があると思っています。そもそも大多数の日本の知識人は「自分の頭脳を超えている知性体」がこの存在世界の中、あるいは彼方にある、との実感的な感覚を持てないでしょう。それでは、欧米人の思考は本当にわからないというだけではなく、近代以前の日本人、アジア人の思考もわからないと思います。

近代ヨーロッパ哲学はグローバルスタンダードではない

さて、そろそろ今年のブログ始動です(笑) はっきり言って時間があるのは2月末~3月と8月中旬~9月中旬だけです。その他の期間はいろいろあってなかなかブログを書こうという気分にはなりません。

さて私は、「哲学」の一科目だけは教えていますが、その他はとくだんスピリチュアルに関わった仕事をしているわけではありません。別に哲学の学会に所属しているわけではないですし、専門研究者というわけではありません。ただ自分自身の興味でいろいろ勉強していることと、あとは一般向きに、日本ではあまり知られていないかもしれない見方を紹介するということです。


勉強するというのは英語の本が大半です。そこから言うと、日本の思想、あるいは知識界と言われるものは、はっきり言うと世界的に見るとかなり田舎です。知識人というもののクオリティ、そして幅は、かなり世界との差はありますね。やはり日本で行われていることというのは幅が狭いのです。世界ではいろいろ論議されているのに日本ではほとんど知られていないテーマなども多いのですが、私がやろうとしているのもまさにそういった分野です(笑) 日本語で手に入る情報だけを頼りにしていると大いに勘違いする危険があるということです。何かちゃんとやろうと思ったら、英語の読解力は必須です。

日本には哲学の入門書的なものはあまたあり、その中には大学教授じゃない素人の人が「ぶっちゃけ」でわかりやすく解説したようなものもあります。しかしそういうものを読んでもさっぱり面白くありません。なぜかというと、こういった入門書のようなものは、基本は、すでに世の中で常識化されている知識を薄く説明するものが大半なのです。教えるべきものがある程度決まっており、それをいかにわかりやすく説明するか、ということでは学習参考書と大差はありません。そこに著者独自の見解がちょっとだけ付加されているかぐらいのことです。

しかし、そもそもそういう「哲学とはどういうものか」ということ自体を疑って、それを大胆に組み替えねばならないのです。本来、哲学というのは、その哲学とは何かということ自体を問い直し、刷新していかねばならないものです。しかし現実的には、いま大学の哲学科で行われている範囲でしかその問い直しは起こらないわけです。

大学の哲学科でやってることがイコール哲学ではありません。哲学科の哲学と、そうではない哲学があるのです。プラトンは哲学科の哲学ではないし、インド哲学や仏教哲学もまったく違うものです。ここで何が言いたいのかというと、哲学とは哲学科で行われるものだという常識は、ヨーロッパ文明特有の現象であって、決してグローバルスタンダードではない、ということです。近代欧米もの=グローバルスタンダードという明治以来の価値観にとらわれるな、ということです。そして、東洋文化によって育ち、また豊潤なネイティブ文化の土壌を失っていない日本の精神性から出発して、それを精細な知識としていくという行為は、ヨーロッパ文明的な器が本当に適当なのか、ということです。

これは既に岡倉天心などが問うた問いではないでしょうか。天心らがそういう問題意識を持てたのは、ものすごい東洋や日本の伝統文化的な教養を持っていたからです。今の知識人はその何分の一の教養もないでしょう。西田幾多郎らがいるじゃないか、と言うことかもしれませんが、あれでもまだ西洋文化にすり寄りすぎています。言語表現が完全に西洋哲学になっていますね。また見ている世界はどうかという点でも限界はあるものだと思います。(ちなみに、岡倉天心の見立ては、「東洋と西洋では、音楽は西洋の勝ち、美術はいい勝負、哲学については、東洋の勝ち」でした。私もこの見立てに基本的に賛成します。つまり、「哲学はヨーロッパ文明に優位性のある分野ではない」という認識です。このような文明全体を見わたすだけのスケールというものが現代の知識人に欠けているものです)

哲学科の哲学というのは、スコラから発しています。スコラとはスクールのことで、学校ですね。ヨーロッパで13世紀頃に大学ができて、そこに神学と共に哲学の講座が置かれるようになったのが現代的な意味での哲学の始まりです。そこではきわめて緻密な論理による論証が重視されたのですが、今でも哲学はそういう伝統の中にあります。

だんだん、説明するのも疲れてきましたので(笑)、ここでいきなり大上段の「ぶっちゃけ」に行ってしまいましょう。

結局、近代ヨーロッパ文明とは何だったのか? ってことです。

というものも、哲学っていうのも近代ヨーロッパ文明の一部であるわけでしょ?

であるならば、欧米人じゃない私たちとしては、まずは、近代ヨーロッパ文明というものをどう受け止めるか、という問いがまずあって、その後に、それではその中にあるヨーロッパ哲学てものにはどうつきあえばいいか、という問いが来るわけです。

これは明治時代の人には当然の問題意識だったと思います。夏目漱石とかもそうであるわけですよね。でも、今の大学人はこのような問いを持っていません。

あらかじめ狭い枠組みができてしまっているところで、その中で評価される業績を上げた人だけが生き残るシステムであるわけですから(その評価というのが妥当なのか、ということはおいといても)、そういう、自らの基盤そのものを掘り返すような問いは決して起こらないわけです。

で、つまりは、

近代ヨーロッパ文明は終わった(終わろうとしている)
次はどういう文化となるのか、

ということになります。

そしてこれも簡単に言えば、

物質文明から精神文化、霊性文化へ

という流れになります。

こう言うだけはいかにも陳腐だ、と思う人もいるかもしれませんが、基本の流れがそうであるということは動きません。

というのは、そもそもヨーロッパ文明が世界中を席巻したのは、科学革命と産業革命によるテクノロジーの圧倒的進歩です。それを軍事力として世界中を植民地化していったが、二度の大戦や冷戦をへて、なんらか人類全体が協調していかないと駄目らしいとわかってきて、地球の生態系もあぶなくなってきた、ということでしょう。過去200年で起こった重要なことは要するにそれです。近代は人権とか民主主義という重要な価値観を生み出してもいるのに、同時にとんでもない虐殺とか侵略もまた起こっている。これをどう見るのか。

歴史上初めて人類が一つという意識に進んでいくのがこれからの流れです。ですから自国さえよければいいというトランプ政権は必ず失敗して、やっぱりそういう考えでは駄目なんだということが否応なくわかってくることでしょう。

そのような状況では、もはやヨーロッパ哲学だけでは駄目なのも明白なわけですね。過去の非ヨーロッパ哲学、つまりギリシア、インド、中国、イスラム、そしてヨーロッパでも近代以前の哲学もひっくるめて、人類は何を求め、何を達成してきたのか、が明らかにならないといけないわけです。つまりこれまでの人類の遺産の総括です。人類はどこまで、自分自身のこと、存在ということがわかったのか。どう探求して何を得たのか。そういうことがある程度わかってくるというものが「哲学の入門書」でなければならないのです。もちろん、東洋哲学のことも書いている入門書もありますよ。しかしはっきり言って、その叙述は薄っぺらいですね。なぜかというと、本で読んだ知識だけで書いてるからです。

必要なことは「人類の哲学史の大胆な書き換え」なのです。

多くの人が考えていることは「近代はどこが足りなかったのか、どこで間違えたのか」ということです。

実を言うと、私は、人類が知りうるような最も重要なことは、すでに探求されており、その遺産はすでにある、と考えています。

たとえばギリシア哲学、キリスト教哲学、インド哲学・・の中に、探求されるべきものは既にあるのです。

ヨーロッパ文明も、中世からルネサンスくらいまでは、ある程度はそれが見えていた人も多かったはずですが、17世紀頃より急速に「理性信奉」が進行し、その結果、理性的に把握できるもののみを信ずるという知識のあり方に変化したため、重要なことが見えなくなっていきました。それを必死に思い出そうとする人々もありましたが、いまだに理性信奉の勢力は残っており、せめぎあいといった思想状況になっております。

というのが、もっとも大きな、「ぶっちゃけ」の見立てです。

ハイデガーは、西洋哲学は「存在忘却の歴史」だと言っています。これは、そもそも根本的な「存在とは何か」という問いを問えていない哲学にすぎないぞという意味です。彼はそれをプラトンに始まると見なしています。しかしこれは西洋哲学をよく見て行くと必ずしも正しい見方とは言えません。ギリシア哲学や、ヨーロッパ中世の哲学では存在の問いが忘却されているとは言えないことがわかってきました。今ではむしろ、オッカムの唯名論とか、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の論にその起源を求める人も多いですね。

広く、近代ヨーロッパ哲学以外のものを調べていくと、ここではいわゆる「霊的直観」というものが広く認められていたことがわかってきました。

つまり、近代で通常の知識と考えられているような

五感に感じる感覚 → 理性的推論 → 知識に至る

という道筋ではなく、一足飛びに、重要なことが「わかってしまう」ということがある、ということです。
このように「わかる」ことが重要なので、そのようにしてわかることと、理性的な知識とのバランスを考えて哲学をしていく、というスタイルが広くあったのです。

だからその「わかってしまう」ということがどういうことかわからないまま東洋の哲学を論じても意味はあまりないのです。しかも、それは東洋だけではなく、どうやらギリシア哲学も本当はそういうものだったらしい、ということなのですね(これは井筒俊彦が言ってたことです)。

と、ようやく話はかんじんなことへ入るのですが、ここまででかなり時間がかかりました。以降はまた次回にいたします。とりあえず今日は、「いま日本で哲学と思われているものは実はグローバルスタンダードとは認められない」というお話でした。

ブッダはそこに坐っているだけで・・

休眠同然だったブログに、何を突然、書き出したのかという感じだが、それだけ、『ゆかいな仏教』に刺激されたということであろう。基本的に、この本には90点をつけているという前提の上で、ちょっと気になった箇所にツッコミを入れるということである。そこに、今の状況の問題点があぶり出されているので。

この『ゆかいな仏教』では、仏教修行の「自利・他利」についていろいろ食い下がって語っている箇所がある。
つまり、出家して修行して覚ろうというのは、自分のためのみにやっていることだろう、それでいいのか、という問題意識があるようなのだ。そこで、利他行ということが言われてきたとか、そういう話。

私が覚るということは、私の精神状態が変わるということで、私はいいかもしれないが、それで他人とか世界はべつに変わらないんでしょ、というのが、この著者たちの持っている常識であることがうかがわれる。

そうなのかな?

なんでこんなふうに、今の時代に、ニュートン的な世界の見方をするの? と思った。ニュートン的というのは、古典物理学的ということだが、つまり、時間空間があって、そこに「粒子」として何かが存在する、という世界像のこと。
でも、すべては、粒子であると同時に波動なのだよ?

人間はたしかに粒子的に存在もしているが、同時に波動的にも存在している。
この認識方法が、著者たちに欠落しているのを感じた。
波動的というのは、自分の身体の境界に収まるものではない、ということと、他の波動と容易に共振、共鳴もするということも含まれる。
そもそも身体があってその中に意識があるのではなくて、意識があってそれが身体という感覚を作っている。意識とは波動的な存在である。

なぜ、自利・利他という話になるととたんに唯物論的な発想になってしまうのか。

ブッダみたいに深い覚りにある人は、ただそこに存在しているというだけで、何も外面的な行動をしなくても、それだけで人類全体の波動を清め、高めるのだ。

これがわかっていない人は、まだ本当の意味で門の中に入っていない人だ、と判断できる。
べつに隠しているわけではない。こんなことは早く、世間の常識になってほしい。
世界を波動と見て(エネルギーとして、と言っても同じようなことだが)、覚りというようなことも波動的な現象と見るのだ。
こんなの、常識ですよ。

心理学でも、ユングあたりになると、心とは波動的なものであることを明確に知っている。だからそこに共時性ということも言われてくる。心が作り出す現実もまた波動であるから、共鳴するのだ。

橋爪・大澤両氏のような、おそらく世界人類の中でも知性において上位から0.01%以内に入るであろうような優秀な人でも、いつのまにか「唯物論モデル」でものを見るという習慣を疑うことができていない。現実を古典物理学的に見てしまうという思考の癖を相対化することができていない。

90点といいながらまったく駄目みたいな言い方になってきてしまうのは恐縮至極だが、宗教論を言う人は、そもそも「霊的に力がある、とはどういうことか」を理解していてほしい。
このコンセプトは、近代世界にはないものだ。だから、近代世界のパラダイムを根底から疑う必要を感じていない人には何のことかわからない。当然、佐藤優だってわからないだろう。

外面的行動として表れないとそれは何もやっていないことと同じ、というのは近代西洋のパラダイムだ。そう思っているのは、精神と物質は別の秩序だと思っており、精神で物質は動かせないから、何らかの物理的行動がなければ他者に影響を及ぼせない、という古典物理学的世界観なのである。

しかし、心も物質もすべて波動。本当は、心とものの区別などはない。その区別そのものが心的現象である(これは哲学をやればわかるはず)。
そこまでは量子論のアナロジーでわかるかもしれないが、さらに、波動の作り出す現実は層をなしている、というところまでパラダイムが拡張しないと、宗教のエッセンスはわかってこないだろう。

霊的に力がある人は深いレベルで他者を救う能力がある。

医学部で勉強している人に、「そんな自分のための勉強ばっかりしてないで、世の中に出て人のためになることをやれ」と言う人はいない。それやったら毛沢東の下放運動になってしまう。
医学を学んでいない人がどれだけ病気の人を救えるのか。みな、医学部を出ればそういう力を身につけられることを知っている。だから、世の中に出ないで何年か集中的に勉強することを意義あるものと認めている。

ところが、宗教的な修行をしている人に向かって「そんな自分のための修行ばっかりしてどうするのだ」というけちをつけるというのは、どういうことか。つまり、「その勉強によって人を助ける力が飛躍的に高まるのだ」という事実をまったく知らないから、そんな蒙昧なセリフを吐けるのである。
こういうことが世間の常識から失われてしまっているのは、いかに、唯物論バイアスに私たちの社会が冒されてしまっているか、ということなのである。

自利、利他、そんな難しい話か? おぼれている人を救おうと思ったら、まず、自分が泳ぎを習わなくてはいけない。そういう単純なことにすぎない。

ブッダの光明がいかに世界救済の力を持っているのか、それがわかるということがなければ、本当に仏教がわかったとは言えない、と思う。

キリスト教の「奇跡」をどう扱うか

『ゆかいな仏教』につづいて、当然、『ふしぎなキリスト教』にも興味を持ち、読み始めたが、こちらは、仏教篇ほどの高い評価ではない。読む価値はあると思うが。

全体からすれば小さいことかもしれないが、キリスト教の場合は「奇跡」が、多くの人のつまづきになるのである。現代人には、理解が難しい。

1 キリストは神の世界から降下して人間となった。
2 キリストは一度死んだが復活した。
3 そのほか、死人をよみがえらせ、病気治しなども行った。

1は、インドにもよくあるアヴァターラの思想、2と3は、精神界の方が物質界より優位にあるという問題である。

奇跡についての見解を見ると、その人の立ち位置がほぼわかってしまうのだが、『ふしぎなキリスト教』の橋爪大三郎、大澤真幸を見ると、明らかに、これらをありえないものと見なしている。

つまり、このお二人は「物質界の法則は精神の作用のみによって改変されることは決してあり得ない」という世界観を自明のものとしている、ということになる。

知識人によくあることだが、たとえば「時間とは何か」とか哲学的に論じているときには、時間が認識形式にすぎないことを理解しているのだが、いざこういう個別の問題になると、とたんにそれはどこかへいってしまい、世界が時空形式で存在していることを自明としてしまうのだ。

世界が共同幻想であることを骨の髄までわかっているのか、という問題なのである。
つまり、この世界の構造を、この世界にしか通用しない「ローカルルール」と見るのか、それとも全宇宙に適用されるべき「グローバルルール」と見るのか、ということでもある。

そして、これを「グローバルルール」だとするのが現代世界の常識で、多くの人が自明と思っている。知識人もそれは例外ではなく、この自明性を本当に疑えている人は数少ない。また、この自明性に乗って論じていかないと、多くの読者はついていけない。どうしてもそれを超えると「ぶっ飛び」と見なされる可能性が高くなる。従って、ある程度社会的な地位を築いている知識人の中には、この自明性を疑えている人はほとんどいないのである。

宇宙には「他の次元」(地球人類的時空構造を超えた領域)が存在しており、その「他の次元」とこの共同幻想的な世界には密接な連携が存在している・・このような世界観に立たない限り、キリスト教を「信じる」ことはできない。

しかし、これまでのキリスト教神学は、キリスト教と現代の「閉じたシステムとしての物質界」というパラダイムを妥協させようとしてきた。あるいはバルト的な聖書至上主義への「逃避」しかない。この世俗化した宇宙認識が一つの幻想であることを神学は見抜けていない。
神学は伝統的には「存在の連鎖」として、「神の計画した存在世界をどう認識するか」というパラダイムでやってきたのが、その存在の連鎖という思考方式が崩されてしまい、その代わりとなる世界認識の方法を持ち得ていないのである。哲学のほうでは共同主観性のパラダイムが出てきているのに、それを神学と結びつけることはできていないのではないか。

私のこれまでの著作は、唯識の認識方法を拡張していくと、キリスト教も理解できるようになることを示しているのである。
多層的宇宙観に立たない限りキリスト教が復活することはないのではないか。

「奇跡などないことにしよう」と、奇跡を遠ざけることでキリスト教を「純化」しようとしてもそれはキリスト教の力をそぐだけである。「奇跡もありうる、という世界観は可能なのか」という問いを、ほとんどの知識人が問うことができていない、ということが問題なのである。

しかし、こっちの世界の他にあっちもあり、たくさんあり、そこに神があって、私たちとそっちの次元はつながっている、という世界理解を素朴に持っている人はきわめてたくさんいるのである。つまり「物質世界の法則は他の次元からの影響を受けない」「そもそも他の次元などはない」というパラダイムを自分のものとしていない人々は多い。しかし知識人になって行く過程でこういう多次元共存型の世界理解は振り落とされていく。そうした、エリート層の世界観的バイアスというものがある。「知識人バイアス」である。残念ながらさすがの橋爪大三郎もそれから自由ではないのだ。

大乗の肯定

そういえば、『ゆかいな仏教』で、大澤氏が、「どうも仏教では、生きることをネガティブにとらえるという価値観があるんじゃないか、そこが気になる」という意見を述べていた。私もこの意見にかなり賛成だ。特に初期仏教、小乗仏教にそれが強い(もちろん、「上座部仏教」と呼ぶのがポリティカル・コレクトであることは百も承知である。「小乗」とあえて呼ぶのは挑発である)。

やはり、インドの思想全体として、生きることを苦ととらえ、そこから離脱するのがよいことなのだ、という価値観はどうしても見え隠れする。「なんでこんなところに生まれてきてしまったんだろう」という感覚である。

実は、先日あちらに帰られた本山博師も、平行生がヨーガの先生だったせいか、インド的な考え方をされる方で、「なんでこんなカルマまみれの汚い世界にいるのか、もう二度と生まれてこない、と思った方がいいよ」とか、「早くこちらでの仕事を終えて、神さまのところへ帰って昼寝をしたい」というようなことをよく言っていたものである。インド的な宗教観からすれば当然そのような感覚になるのだろう。ギリシア哲学のプロティノスなどにも、こうした感覚は多少ある。

しかし、先にも書いたように、仏教とは「目覚めというものがあり、それをゴータマが実現した」という以外に、信じなくてはいけないものはないのだから、こういった悲観的な世界観も、単にインド人の思い癖にすぎないと、切り捨てることもできるのである。東アジアの、天台や、禅の世界に入れば、そのようなペシミズムなど影も見つけることはできない。あるいは日本の美学のように、そういった無常でさえも、美しく味わうべきものとして肯定されることになる。

いや、切り捨てる、のではない。「それもわかるよ。でも、それもまた一面の考え方だよね」という感じであろうか。
また別の言い方をすれば、宇宙全体としての仏陀、つまり盧舎那仏は、あらゆる経験を創造し、それを包含することを望んでいる。その無数の平行世界の中に、そういう現実を経験する小我もまた、出現することを望んだ、とも言えるのである。

ショーペンハウアーはインド思想から、生とは無目的な流動であり、そこからの解脱をインド思想は説いている、と受け取ったが、それはまったく間違いというわけではなかった。ただインドにも、生の肯定を説く思想家もいるにはいた。ラーマーヌジャなどはそうだが、後世のタントリズムも、生の肯定を動機として生まれたものだろう。

いま、日本では、小乗仏教の伝統に立つ仏教僧が来ていて、瞑想を教えたり、たくさん本を書いたりしているし、日本人でも、小乗の修行を始め、仏教とはこれなんだ、と主張する人が出ている。はっきり言って、私はそれは必ずしも評価しない。豊穣なる大乗の伝統を保持する日本が、何を今更小乗に戻らなくてはいけないのか。大乗の中にほとんどすべてのものはある。生の否定を説く小乗は今の大多数の日本人には必要ない。ただ何らかの理由でその修行を意味あるものとしている人生もあるので、そういう人のためにあるということである。

『ゆかいな仏教』 意外といいかも

久々の記事になった。これからまた少しずつ、読書ノート、研究ノートみたいな感じで書いていけたら、と思う。

さて・・ 今度、橋爪大三郎、大澤真幸による『ゆかいな仏教』という本を読んだ。
実は、橋爪については、昔、言語ゲーム論者だというイメージがあって、そういうのはちょっと軽いな、というイメージで気にしていなかったのだが、佐藤優との対談本『あぶない一神教』を読み、けっこうおもしろかったので、これはどうかな? と、あまり大きな期待をしないで『ゆかいな仏教』を手に取ってみた。Amazonのレビューではむちゃくちゃ叩かれているので、大丈夫かなと思っていたのだが、

かなりいけてる。

と思った。僭越であるが、満足度で採点すると、90点はつけられる。
非常に成功した本だと思う。仏教の本質とは何か、という問いにフォーカスしていて、橋爪なりの仏教観を展開するわけだが、要は、仏教とは「覚りというものがあって、ゴータマはそれを実現した」ということが本質で、それ以外はどうにも変わりうるものだと言う。まったくその通り。そして、その覚りとはどういうものなのか、というイメージを語る。もちろん橋爪が覚っているわけではないからイマジネーションによる推測なのだが、私が見ると、それがけっこういい線を行っているのだ。たぶん、これまでのあらゆる仏教入門書よりも、本質に近づいていると考える(もちろん「あらゆる」はレトリックである。私は全部を読んでいるわけではないのだから)。

余談だが、もちろん、本当に覚った人からの仏教論を読みたければ別のものがある。近代の日本で、本当にこの人は覚っているのではないかと私が思っているのは、鈴木大拙、谷口雅春、五井昌久、本山博といったところだ(西田幾多郎は、覚りの直観的イメージであって実際に覚ってはいないとみる)。大拙よりも谷口師、五井師の方が深いと思うのだが、宗教色があるのが気になる人もいるだろうし、仏教論としてはもちろん学問的に正確というものではない。本山師は先日亡くなったが、インド的禁欲主義の強い説き方なので万人向きではなく、仏教論もあまり語ってはいない(本山氏は平行生でインドのヨーガの師匠だったことがあるらしい)。私は、学問的に正確ではないところもあるけれども、谷口師の仏教論など非常にいいと思っている。仏教の素養が豊富で、ニューソート的な光明思想と日本の伝統をうまく融合させて語っているんじゃないかと思う。

それはともあれ、『ゆかいな仏教』は出色の仏教入門書、あるいは仏教論であると思う。特に「蓮華蔵」の世界観をよく理解していると思った。

ただ留保をつけたいと思ったのは次のところだ。

★輪廻を直線的に理解している。つまり、時間・空間が認識形式だということを織り込んでいないで議論をしている傾向がある。時空形式が空であるという地点に立たないで空を論じることができるのか。

★またこれは、個が存続するというイメージを伴っている。個が続くのが輪廻であるのか。時間がなければすべての輪廻は平行現実である。そして、そのすべては同時に一つの自分である。その自分は輪廻しない。

つまりこの本の議論は自分という個の実体性をやや自明の前提としすぎているという印象を受けた。同時にそれは時間軸の実体視ともリンクしているように見える。その辺が常識に立った立場で仏教を理解しようとするので、そこに限界がある。つまり時空構造のある世界に立ったまま仏教論を展開してもしかたがない。

カルマという因果関係を、覚りに向かうポイントをためるという比喩で理解しているが、著者はそもそも多くの「前世」は時間軸によって継起的に起こるとイメージしている。これは私たちの時空認識構造を自明の前提としている議論である。すべての平行生は同時継起である。そして、阿頼耶識はすべての平行性を統括しつつ、かつ、決して転生した生の時空の中に入っては行かない。これは、プロティノスが「魂の一部は転生せず、つねにかの世界に留まっている」ということと同じである。つまり輪廻しないものがある。阿頼耶識から見ればすべての輪廻は幻想である。輪廻がある、というのはある視点からあれば現実であり、輪廻はないと言ってもそれも間違いではない。どの地点から問うか、なのだ。

もちろん、生が継起的に起こってだんだんよきカルマが積み上がっていく、ということが現実であるかのような世界認識が存在することは事実である。しかし、そういう認識は仏教の本質ではない。そういう仏教もあるが、仏教ならそうでなければならない、というわけではない。そもそも覚りとは「修行の果」としてあるものではないのだ。(いや、もしかすると著者たちは、輪廻というものはヒンドゥー教との妥協であって、本当はそんなものはない、と思っているようにも読める。「何が現実なのか」という問いは、どの地平に立って問うのか、ということを勘定に入れないとあまり意味のない問いであろう。その辺の、問いの発せられている地平という問題意識が、もう少しほしいところだった)。

何もしなくても突然に目覚めが起こってしまうこともあるのだ。別に善人だから目覚めが起こるというものでもない。覚りはそもそもあらゆる人間に備わった可能性であって、それが突然起こる可能性はどこにもあるのだ。だから「覚りとは偉い」という観念も手放す必要があるのだ。ドストエフスキーの小説ではないが、現実生活ではとんでもなくむちゃくちゃでも、なぜか真実が見えてしまった、という人もありうるのである。まじめな話、いま日本で犯罪を犯して刑務所に入っている人は6~7万人いるのだが、その中に数人は、なぜか目覚めてしまっている人が必ずいる、と私は思う。ただ、その認識を現実生活に統合できずにいるのだ。それはもしかして相当に苦しいことかもしれない、と想像する(ここで言うのは、部分的な目覚め体験である。究極的な覚りではない)。

つまり、言いたいのは、著者たちは、覚りというのものに向けてだんだんと努力していって良きカルマを積み上げると覚れる、みたいにイメージしているみたいであるが、これはやはり自分で経験がない人の想像の仕方であって、目覚めはなんだかわからないうちに突然起こってしまうこともある。一回で終わりではなくて、いろいろやっているうちにだんだんその目覚めの視点と自分とが統合されてくる。そこまでいくのがたいへんなのだ。大きな目覚めがどーんとやってきて終わり、というふうにはほとんどならないので、そう思っている人は現実を知らない。この統合ということが一生だけでは終わらないこともたぶん多いはずである。

こうして目覚めの過程に入るときにそれでは私の「平行生」たちとはどういう関係があるのか、ということなのだが、今の私は、たぶんその時、「自分」(これはカッコつきだが)の平行生のすべて、その集合全体が動くのではないかと思っている。

こういうツッコミもあるが、仏教を「目覚め以外に大事なものは一つもない」と断言するのは、ある意味で、禅的な立場である。本質以外はすべてどうでもいいことであり、そういって悪ければ、オプションなのである。なので、レビューなどで「仏教の根本は四法印であって、それをわかっていない著者は駄目である」みたいなことが書いているのは、もう箸にも棒にもかからないどうしようもないものである。いっぺんでも何かを体験した人はこんなことは絶対言わない。すべては方便なのである。仏教はたくさんの教えを含むが、それはすべて方便であり、ある特定の教えには仏教の本質はない。これがまっとうな仏教理解である。そこをおさえているというところが、この本の最大のポイントと言っていいだろう。覚りというものがいかにとんでもないものであるか、という想像力をある程度持ち得ているのも評価できる点である。ただ、今の時代、目覚めとは何億年も修行しなければ達成できないほど困難なものとイメージする必要があるのか、その部分はちょっと疑問である。時代は急速に変わっているのだ。

ということなので、ぜひ続編として、『ゆかいな仏教・東アジア編』を書いて頂き、天台、華厳、そして禅を語ってもらいたい、と希望するのである。

4905425573ゆかいな仏教 (サンガ新書)
橋爪大三郎 大澤真幸
サンガ 2013-10-28

by G-Tools
4531050142無門關解釋
谷口 雅春
日本教文社 2001-01

by G-Tools

霊・魂・体の人間学

最近の、大学の夏休みは遅く始まる。8月第1週に試験期間がある場合が多い。それからすぐにお盆休みがあって、ようやく夏の研究を始動、というともうこの時期になってしまうのである。

さて、この夏の私の興味は、引き続き、ジェームズ・スミスの一連の著作だったり、また、チャールズ・テイラーの近代化論(世俗化論)だったりだが、最近それに加えて面白くなってきたのが、「金子晴勇氏の人間学」である。

金子氏は80歳を超えているが、私から見ると、稲垣良典氏、谷隆一郎氏と並ぶ「霊性哲学」の長老のようなものである。金子氏は、「霊・魂・体」の3分節で人間を見ることが根幹にあるという視角で、ヨーロッパ思想史全体を描ききっているのだ。これはなかなかすごい。

つまり、人間には霊的な次元を経験することができるものがもともと備わっているという見方に立つ人間観である。
「霊・魂・体」の図式こそ基本である。

これについてはまたいずれ書いてみたい。

「神」が自明の前提ではないことについて

さて、また久々である。この前、5月2日に、「日本で普遍神学というものが成立する条件はあまりないのでは」ということを書いたが、実際、どうなのか。佐藤優の神学本はある程度売れているけれど、あれよりも、私がやっているような仏教をベースとしてキリスト教をも取り込むような脱キリスト教神学の方が意味があるはず、との思いは変わっていない。しかしなかなか普及はしていない。私もまだあきらめたわけではないので、なんとかもっと発行部数の多い新書あたりを出して再び勝負してみたい気はないでもない。

ところで、最近読み返そうとしている本は、またジェームズ・スミスで、

0802867618How (Not) to Be Secular: Reading Charles Taylor
James K. A. Smith
Eerdmans Pub Co 2014-04-23

これは、チャールズ・テイラーの Secular Age の詳細な解説本で、大学の講義を元にしているらしい。
Secular Age は名著と言われるが、600ページもあって、翻訳もない。どこかで翻訳進行中なのかもしれないが、私もまた通読していない。この手強い本の入門書という位置づけで、こういうのはラディカル・オーソドキシー入門本と同様ジェームス・スミスの得意分野だろう。

この本のターゲットとしてはラディカル・オーソドキシーと似ていて、近代ではなぜ「神がある、と考えることが自明の前提ではなくなったのか」という問題を扱っている。近代以前では、神があること(あるいは、高次元があること、と言ってもいいかもしれないが)は、いわば「デフォルト」であったのだが、近代になってなぜかそれは「オプション」になってしまった。神については考慮しないのが当たり前で、神があるという理解に達すること自体が何か普通ではないものになっている、ということだ。これは社会全体の想像力の構造である。

哲学というのは自明の前提を疑うことを方法の一つとするわけだが、実際は、哲学者たちも、無意識のうちに現代社会の共同的想像の枠内でしかものを考えられなくなっているケースも多いのだ。

ルネサンス以前の哲学者は神があることは自明であった。しかし今は自明ではなくなった。特にヨーロッパ文明全体と格闘せず、ごく狭い範囲しか勉強していない日本の哲学者は、「神の問題」そのものがよくわからなかったりする。

そのあたりがどういうわけでそうなったのか、という見通しを与えてくれるものとして、この本はかなり有益だと思う。

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