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易行は引き寄せの法則に合致する

ついでながら伝統思想についての問題でもう一つ考えたいのは「修行」ということだ。正確に言えば「修行と易行」というテーマが日本の思想史には流れている。

特に私が関心を持つのは法然・親鸞などの念仏思想だ。

念仏も広い意味では修行かもしれないが、その意味合いが違う。

「修行のエートス」とは日本を貫いてかなりある思想である。戦後の復興を支えたいわゆる「スポ根」的なものもその変様である。

必死にがんばって、その結果として何かを勝ち取ろうとする。その過程に生き甲斐を見いだすというのがスポ根的心性である。これが宗教的実践であれば、その勝ち取るものは悟り、覚醒、高次の意識状態、神的な愛、といったものになるだろう。

だが、もしかすると、その「がんばって勝ち取らなければならない」という思いそのものが、その獲得をむずかしくしているところはないだろうか? 「引き寄せの法則」からすればそういうことになるのだ。つまり、その目指すものがいま自分にはない、という部分にフォーカスしており、そのためには自分を徹底的に追い込むまでやらねばならない、と考える。しかしこれは宇宙の法則からすれば、ものすごくむずかしいやり方かもしれないのである。

この点、易行である念仏とは、ただひたすら任せるのみ、阿弥陀仏を念じるのみである。

阿弥陀仏を念じるとはどういうことか。それは、宇宙の源にある「絶対的な愛」と接続することを意味する。それによって自分の波動を上げ、それによって結果的に苦しみから脱することができるのだ。

これはもしかすると波動の法則、引き寄せの法則に近い考え方ではなかろうか、と最近気がついてきたのである。こちらの方がずっと簡単なやり方なのである。

だから、易行というのは、むずかしい修行ができない人のための「簡易版」ではないのだ(創始者たちは最初そのように理解していたとしても)。「自分にないものを得ようとして努力する」という発想そのものが、かえって達成を遅らせるということに気づいたのではないか。自力を放棄し、ゆだねることによって、宇宙の根源との「常時接続」を可能にする方法を発明したのである。もちろん時代的なものもあり、そのまま現代に持ってこれるわけではないか、こういう易行の原理の再評価をしていく必要があるだろう。日本の霊性哲学には、易行の原理をベースにしたものが少ないのである。

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神仏の世界を復権させる

日本における「伝統」とは何なのかと考えてみる。日本にはイスラムのような確固としたものがあるわけではない。だからこそ、伝統の抵抗力が弱く、西洋化が進んだということもある。

思想的には禅をベースにした哲学が志向された。西田幾多郎、西谷啓治などの京都学派というものがそれだ。だが、禅には形而上学が欠けていた。あることはあるが、禅の特質として「中間次元」が弱かった。禅ではそれをすべて魔境として退けるからである。そして、超越的次元に人格的存在を認知してそれとの関係を結ぶ、という思想も形成しにくかった。つまり、明治以来の思想では、伝統のある部分しかとりあげられていないという印象を受ける。

こうした思想は知識人には受けがよく、西洋のインテリにも興味を持たれる。だが、霊的思想としては欠落したものがかなりある。

私が日本の伝統として思い描くのは、「神仏の世界」だ。つまり、神道の神々と仏教の仏尊たち(如来、菩薩、明王、天部など)が入り乱れ、共存している宇宙だ。

こういう世界を思想的に統合できるのは禅ベースのものではなく、密教的なものだろう。その意味で空海の思想がいちばん注目されるものである。

私自身は、神仏の世界を完全に信じている。それらは心理的な現象ではない。ある意味ではリアルだ、ということである。これは、ナスルやコルバンが天使の存在を信じているのと同じことである。

日本人は、もともと神々の世界を信じていたところに、新たに仏教の存在たちを受け入れた。その共存に何の問題も感じなかった。いま多くの人が、ミカエルやラファエルなど、西洋系の天使の存在を受け入れはじめているが、日本の伝統からすればこのように新しい天使的存在を統合することはそれほどむずかしくはなく、違和感はないのである。

ここでもう一度確認しておくと、霊的な次元というのは

超越的な絶対=無、空、全一と言われるレベル
創造神のレベル=キリスト教の神
高次元存在のレベル=天使、仏尊、神道の神々
そのほか霊的存在のレベル(いわゆる魔的存在も含む)

というふうに分かれていると考えている。つまり日本の神々や仏尊は西洋で言えば天使に当たるレベルである。ただしこの次元もさまざまに分かれているようである。これはシータヒーリングで言う分け方とは同じではない。

つまり、京都学派的なものは「もういい」という感じで、密教的な原理に基づき、こうした存在への信仰や関係性という要素を含んだ霊的思想を考えたいということだ。

ということで、やはり次のテーマは「天使学」であろうか?

ただ、天使的存在への信仰も、その根底としてすべては一であり、天使もそうした絶対的原理の展開であるということをおさえるわけである。これもすでに密教には含まれている。すべては大日如来の展開なのだ。

もう一つナスルが提起しているのは「自然は霊の顕現」というテーマだ。これも伝統日本にはなじみのある思想である。

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自然の霊性から天使学

この前紹介したナスルのロングインタビュー本だが、途中でちょっと浮気して、ナスルの『人間と自然』を読んだ。4回の連続講義で、短いのですぐに読めてしまう。これなんか最初に訳されるのにはよさそうだ。

ナスルの文章は雄弁だが同時に繊細さもある。やはりこれはペルシア的感性だろうか? 私はゲノンやシュオンの文章はあまり好きなわけではない。ゲノンの形而上学って、ほとんど数学みたいな感じで書いてある。こういう思想の形態もあるのはわかるが、私はちょっと疲れる。

『人間と自然』のメインテーマは、自然の霊性ということを思想の問題として復権させるということである。

これはコルバンや井筒にもある程度言えるが、イスラーム系の思想家の強みは、「中間次元」のことをわかっていることだ。つまり「天使学」があるのだ。日本の場合は、この中間次元があまり思想化されていない(西欧もそうだが)。例外は空海の思想くらいである。

『人間と自然』でもちらっとではあるが、自然の中にもそういう中間次元的なものがあることを述べている。つまりこれは人間の持つ「微細身体」に対応するものが自然にもあるということだ。

spiritus, anima, corpus――霊、魂、体という三つは人間にも自然にもある(それは共通したものだから当然だが)。言い換えると魂とは微細身体であり、微細エネルギー場ととらえられる。鉱物・植物・動物にもそういうものがある。これは伝統思想から見れば当然のことになる。

中間次元を認め、宇宙をグラデーション的階層のモデルで理解してしまえば、天使だろうが仏尊だろうが、位置づけることは容易である。

自然の霊性とは身体の霊性につながる。「浸透していくもの」について語ることが重要だ。

私が自分の思想を語る本を書くとしたら、次は天使学の本になると思う。それはたぶん神話論とリンクするものとなる。いわばスピリチュアル神話学入門、天使学入門といった感じである。

というわけで、天使学入門、エネルギーワーク入門、伝統主義思想入門という三つのプロジェクトを同時進行させている。しかし、生活に追われているので、なかなかゆっくり執筆する時間がない。

もしパトロンがあって私に何億円か援助してくれればありがたい(笑) それがなければ、とりあえずはトトである。

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現代における霊性思想と実践

こちらのブログは一ヶ月ぶりである。最後の記事の後、私は三週間にわたるセミナーに突入して、それが終わって一息ついていると震災があり、自分の被害はなかったが精神的に落ち着かない日々があった。それについては別のブログで書いているのでここでは触れない。とりあえず、そろそろ日常に戻るということである。

きのうから、セイイッド・ホセイン・ナスルへのロングインタビューをまとめた本、『聖なるものを求めて――セイイッド・ホセインナスルとの対話・人生および思想について』 In Search of the Sacred: A Conversation with Seyyed Hossein Nasr on his Life and Thought という本を読み始めた。まだ前半までだが、彼の生涯が詳しく語られている。それによると、彼はイランではかなりの名門の出で、最初はMITで物理学を学んだが、今の物理学は本当の自然の本質はつかめないと感じて哲学に転じたという。イランに帰国してからは、若くして大学の学長などもつとめ、国王や首相とも懇意にしているというたいへんな名士であったようだが、イラン革命の動乱の中で亡命したということである。

ヒューストン・スミスにしてもそうだが、なぜこれほどの人が日本ではまったく知られていないのか。彼の場合は、イスラム学者などが紹介をする責任があると思うのだが。いちおう、Three Muslim Sages という若い頃の本が一冊、訳されているとは思うが。

しかしいちおう私は、伝統主義思想をわかりやすく解説した本を書くということを決めた。それはナスルの思想が中心になると思う。

ゲノンやシュオンなどはアカデミズムとは無縁に、在野の思想家として活動したのだが、ナスルの場合はイスラム圏でも欧米でもアカデミズムに広く認められているというところが違う。伝統主義をアカデミズムに認知させ、大成させたという評価をすることができると思う。

私自身ははっきり言って日本のアカデミズムに認めてもらおうということはあまり関心がなく、どちらかというとゲノンみたいに自由に生きる思想家というスタンスにひかれている(ただゲノンの本自体はナスルほどおもしろさを感じない)。

私はアカデミズムに属しているのかいないのか、はっきりしないところがあるが、「属しているふりをしている」みたいな感覚だ(いちおう入っている学会はあるし、たまに論文も出している)。

前にも書いたが、伝統主義の訓練を日本でしようと思ったら、禅か真言密教、あるいは修験道みたいな世界しかあまり選択肢はない。私の好みは真言密教であって、過去生ではそういう世界にいたこともあるかもしれないが、今のところ、その修行をおこなうという選択肢はない。基本的にイスラム世界と比べて日本では伝統宗教の力は強くない。そういう師資相承の世界だけしか認めないという態度では多くの人は救われる道がないのである。そこで日本で霊性の道を考える場合は、すでに中世にあったような「易行」という問題が出てくると思う。ふつうの人でもできるようなもっとやさしいワークはないのか? という問題意識である。それが法然上人がつきあたった問題である。

その意味で伝統は更新されねばならないし、現代には現代人のための易行があるし、なければ作られていかねばならない。

だから、私は、霊性思想とヒーリングの二つを実践し、それを融合するというテーマを自分に設定したのだと思う。それは最初から自覚していたわけではないが、自分自身の歩みをふりかえればそういうことであった。ヒーリングとは現代人のための易行道として出てきたのだと私は考えるのである。

伝統思想の本とあわせてヒーリングやワークについてまとめた本を書こうとしているが、それは、現代における霊的な道はどういうものでありうるのか、という思索という意味を持っているのだ。

実際のところ、いまヒーリングとして行われているのは、密教的な行の世界にあったものを「易行化」したものだと思っている。それが本の中心テーマである。もちろん実際に実践できるようなガイドとしても役立つものにする予定だ。

そういうものを作ることは、やはり、自分らしく生きることそのものではないか、と感じている。

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霊性の道における不易と流行

私はナスル先生の霊性思想にほぼ賛同しているのだが、一点だけ、違いがある。

ナスル先生の立場は、ルネ・ゲノンやフリッチョフ・シュオンの流れを受け継ぐものなのだが、「伝統主義」と言われる。あるいは「永遠の哲学」 perennial philosophy という言い方もあり、それをとって「ペレニアリズム」とも言われる。

英語圏ではこれは思想界の一角を占めているのであって、前に紹介したナスル先生の入門的アンソロジーは、その伝統主義思想の本を専門に出している出版社である。そういう会社が成り立つほどの読者があるということだ。日本では伝統主義に立つ有力な思想家がいないということが欠落だというのはすでに書いた(もう一つ、思想的な欠落をあげれば、「いい神話学者がいない」ということも日本の知識界の欠落だ。ジョゼフ・キャンベルの欧米における影響は非常に強いものがあり、霊性の復興に寄与している。日本の神話学者はとても小粒である)。

ということだが、この伝統主義というのは文字通りで、伝統によって受け継がれているものを尊重する、という態度だ。ナスル先生の場合はもちろんイスラムだが、当然ながら他の伝統の霊的な価値も認める。ただ自分はこれだ、と選ぶということである。ここで伝統の中核とは、「伝える」ということだ。トランスミッション、師資相承である。つまり、しかるべき伝統で伝えられたトレーニング・システムをマスターし、師匠となった人から教えを受けて、初めてちゃんとした霊性は伝えられる、という考え方だ。日本で言えば、禅の相伝とか、真言密教の修行体系などをイメージすることができる。そういうものが本物だ、という価値観が伝統主義である。

逆に言えば、そうではないものはちょっとあぶなっかしい、という価値観でもあるということである。

1960年代のフラワー・レボリューションから始まる精神性の運動は、こういう伝統主義的なものというよりは、もっと個人の自由な探究を重視したものである。伝統的に伝えられたワーク方法なども、そういう目的にアレンジしなおされたりする。

これは個人主義、individualism である。個人がベースとなって、霊性の世界を探究するという姿勢だ。ナスル先生は、こういうものをあからさまに批判しているわけではないが、あくまで伝統的なものが好きであることは明らかである。実はナスル先生は、実際に師匠についてスーフィズム(イスラムの神秘主義修行システム)の勉強をしているらしい。

イスラムのコーランももともと神から来たメッセージを書いたものだから、チャネリングなのである。宗祖ができたことを、現代の人間ができないと考える理由もない。コース・イン・ミラクルズも『神との対話』もチャネリングであり、成立原理はコーランと同じなのである。そしてドリーン・バーチューは、いろいろな本で、「あなたも高次元のメッセージを受け取れる」ということを繰り返し書き、それをすすめている。キリスト教の聖職者からすれば異端思想の最たるものであろう。

ここで私の立場を言えば、「不易流行」である。つまり、変わらざるものを尊重はするが、一方で、いまここで出てきているものは何らか出てくる理由があるので、それにも大いなる関心を払っていくべきだということである。実のところ、「流行」のほうも、基本は伝統的なものとあまり変わらない。ただ、その料理の仕方、切り口が新しくなっているということである。ただ、探究は基本的に個人を中心とし、伝統的な意味での「師匠」を持たないという形式になっているところが新しい。

いや、正確に言うとそれも新しくはないのである。このように、自由な個人として霊性を探究するという態度は、ルネサンスの思想家たちに見られたものだ。マウリツィオ・フィチーノなどはその代表である(フィチーノについては『魂のロゴス』にも登場している)。ある意味で、現代の思想状況はルネサンス時代に近いものになっていると思う。ルネサンス時代は、中世には知られていなかったありとあらゆる神秘主義思想や技法、違う宗教思想などがどっと流入し、その中から自分にフィットするものを選びつつ探究を進めるというスタイルが出てきたのだが、それは現代人の霊的探究にかなり似たもののように思われる。

つまり、ある意味では、現代はひじょうに特別な時代であるという認識も必要だ。その意味で、「不易」だけしか目を向けないのでは、かえってうまくいかなくなるのではなかろうか。禅や密教などのシステムで本格的にやろうというのは、すでに専門の僧侶になろうという人にしか合わなくなっている。現実問題としてふつうの社会人が仕事をしながらできるようなシステムにはなっていない。伝統の修行体系は基本的には「プロ仕様」なのである。そのままでは現代人に合わないということは考える必要がある。伝統主義だけでは足りないのである。

だから、そういうプロ仕様の世界から見れば「ライト過ぎて話にならない」ように思われたとしても、それは現代人のための一つの方便としては大いに意義を持っている、ということもかなりあるわけだ。

そういう、伝統だけでは提供しきれない、現代人のニーズに合わせた霊性への道を、「ヒーラー」のような存在が補っている、とも見ることができるだろう。その世界にもいろいろ問題があることは承知の上だが、基本的には存在意義のあるもので、出てくるべくして出ているものだと思う。時代はどんどん変化しているし、人類の置かれた状況は過去に例を見ないものである。新しい伝統を創造するという姿勢が必要である。過去のものはそのエッセンスだけ見て、外的形式はどんどん変えていかねばならない。シュタイナーの人智学にしたって、すでに100年たっているのであり、そのままでは使えない部分もいろいろ出てきている。

つねに、「不易」と「流行」を同時に見ている視点が大事なのである。この意味で、私はナスル先生の伝統主義には一定の留保をするのである。未曾有の時代には未曾有の発想がいる、ということも言えるのだ。なんといっても、人類はこれから、宇宙的存在とのコンタクトに向けて進まねばならないのだから・・(最後にちょっとだけぶっ飛びでした)。

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科学と霊性の棲み分けについて

ここでまた、霊性と科学との関係について書いておく。

以前、「ノーベル賞程度で騒ぐな」などと書いたら、一部で猛反発する人がいた。

騒ぐなというのは一種のレトリックであるが、これは今の日本における科学への過大評価を揶揄したものである。

まあ単純に、いちいち受賞で騒いでいるのは、それだけ少ないということなので、言ってみれば後進国である証拠なのである。アメリカやイギリスはほとんど毎年何人も受けているのだから、騒ぐこともない。これには、英語が事実上世界標準となっている言語的不平等の問題もあるが(英米人は英語の習得に時間を費やす必要がなく、その分を専門の勉強に充てられるのだから、有利なのは当たり前だ。この不平等に抗議する動きがなぜ出ないのだろうか)。それはこのブログの範囲外なのでこれ以上触れないでおこう。

問題は、科学史や科学哲学を学んだ人なら誰でも知っているように、科学は「世界観的にニュートラルではない」ということなのだ。

たぶん、「科学と霊性の統合」を期待している人は、現代物理学と霊性とか、マクタガートの『フィールド』とか、アーヴィン・ラズロとか、そういう本を読んでいるのだろう。だが、そういう考え方に賛同しているのは科学者のほんの一部で、大多数はもっと保守的なものである。

つまり、実在するのはこの物質世界がすべてだ。意識は物質が進化してできた副産物に過ぎない。知識とはすべて感覚の経験から発するものでそれ以外に知識というものはない。・・・こういう考え方の枠組は大部分の科学を縛っている。それ以外のことを言おうとすると科学的とは見なされず、科学者共同体から放逐されることになる。

科学と霊性が統合するには、こういう科学者の中に根強くある形而上学的思い込みが是正されないと、話にならないのである。

科学は本来、形而上学ではなく、方法論であるはずである。だから、こういう世界観とは全く別の、霊的な世界観とも共存しうる。しかしそれは原理的にそうだという話で、現実は違う。そういうものは少なくともアカデミーの世界ではできない。

つまり、現代社会固有の「物質主義的な世界観」というものが現代人の常識としてあり、科学者もまたその常識を共有し、それを前提として知識を構築している。その常識自体に反するものは受け入れない。超心理学というものが受け入れられないのはそういうことである。これはいわゆる超能力の科学的な検証を目的とするものだが、方法論では科学ではあるが、そもそも論証しようとすること自体が科学者の基本的な常識に反しているので、反発されるのである。そういう常識そのものを疑いうるというオープンな態度をとれる人は残念ながら多くない。科学者の世界はピア・レビューといって、仲間内で業績を評価するシステムである。だから、少数の人のみがわかるというものは駄目で、多くの人が認めなければいけない。つまりその知識システムの根本的前提を問うような論文などは決して学術誌には掲載されない。あくまで定められた土俵のなかでの「独創性」が評価されるのであって、その土俵そのものを無視するものはつぶされる。これは科学界だけでなく、一般にピア・レビューというアカデミーのシステムの限界である。とんでもなく独創的なものは世に出られないのである。

こういうことであるから、科学界から、科学と霊性の統合をはかるような斬新なものが出てくる、という期待はあまり持たない方がいい。そういう新しいパラダイムに立って書かれている本もあるが、それはあくまできわめて少数であり、マイノリティーであることは理解する必要がある。

霊性の問題を知的に扱うには、いくつかの前提がいる。それの全部ではないが、一部をあげると、

・世界とは、物質領域だけでなく、非物質領域(意識の性質をもつもの)があり、むしろ後者の方が根源的である。物質領域は非物質領域とたえず交流をしている。

・世界は根本的には意識より産出される。

・身体の経験に基づく知識だけではなく、人間は、より直接的に非物質領域を知覚する「霊的(微細)知覚能力」を有する。

霊的世界観はこういう前提に立つ。これを科学者の方が受け入れてくれないと、科学と霊性の統合は、本当には実現しない。この枠組みの中で、科学を一つの方法論として、適宜に使いこなすことはできるはずなのである。

最後にあげた「霊的知覚能力」というのは、ドリーン・バーチューの『エンジェル・ガイダンス』に書かれているような、クレアヴォアヤンス、クレアオーディエンス、クレアセンシェンス、クレアコグニンザンスの4つを指す。

そういうものがある、とはっきり断言することから、霊性思想は始まる。

一方、科学は方法的に、そういう霊的知覚ではなく、あくまで五感とそれに基づく推論の世界である。

感覚や思考とはそれだけである、というのは一種の哲学的(思想的)言明であって、それ自身は科学の領域に属さない。また、超感覚があるという立場に立っても、もっぱら五感のみを使う知識の領域というのは当然認められる。つまり、探究すべきことがらに応じて科学と霊的知覚は「使い分ける」ということになるのである。霊的な領域は霊的な知覚によって探究するのであって、そこに科学の方法論は入ってくるべきではない。科学と霊性の統合とは、それぞれの方法論の「適当な棲み分け」なのであって、霊的領域を科学で探究する、証明するということではない。このへんに思考の混乱があるのではっきりさせておきたい。

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霊性思想は人類思想の本道である

まだダイアーだが、Excuses Begone! (言い訳よさらば)という本の翻訳が、山川夫妻の訳で出ている。内容はいい。しかし、この訳書はすべてパラフレーズである。分量としては半分以下になっているようである。全部訳せば400ページ近くになるはずなので、それは出せないというのはわかるが、この訳書が原文そのままの翻訳ではないことはあらかじめ承知しておいた方がいいだろう。この本だけでなく、三笠書房から出ているダイアーの本はみんなパラフレーズだ。みんなきっちり訳しているという意味では、ダイヤモンド社の『思い通りに生きる人の引き寄せの法則』(The Power of Intention)がいいかもしれない。

4837957145 「使わない!」と人生がうまくいく“18の言葉”
ウエイン・W・ダイアー 山川 紘矢
三笠書房 2010-06-01

私がこういう本に注目しているのは、今の時代、「応用」が大事だと思うからである。霊的な世界観を統一的に理解するための本も必要ではある。しかし、それを応用してどのようにすばらしい人生を創造していくか、ということを今の人は求めている。私自身もそうである。

創造、想像、はよく誤変換するが、これはなかなか意味深である。実は、想像=創造だからである。その二つに本質的な違いはない。

一方で、時間があったので、ひさびさに、セイイッド・ホセイン・ナスル先生の本を読んだ。伝統哲学に基づく霊性思想を明晰に述べている点において、ヒューストン・スミスと並んで現代の碩学である。

この二人のような、膨大な学識に裏付けられつつ、現代における「形而上学」(霊性思想)を説くような知識人が、日本には絶対的に不足している。読む人がいないので、翻訳も出すことができない。ナスル先生などレクチャーのDVDまで出ているのである。もちろんダイアーのような著者に比べれば読者は少ないが、それでも知識層と言われる人々の間で、こういう本を読む人が一定数いるのが英語圏の強みである。日本はとにかくインテリが駄目だと思う。まったくこういうものを拒否している。こういう知的な本は、普通の人ではなくてインテリ層に受けないと売れないので、日本では厳しいのである。ま、別の見方をすれば、マーケットの規模の違いなのかもしれない。たとえば英語圏なら3000部売れる本は、日本だと数百部になってしまうのでペイしなくなる。出版の電子化によって、こういうマイナーな本の出版が可能にならないものだろうか。人口比で考えれば日本語圏に人材が少ないのもしようがないのかもしれない。やはり言語というのは人口である程度その文化的な力が決まる部分があるのだ。

そう考えれば、日本の精神世界本なども大半が英語からの翻訳である。最近は日本人の著者も出てきているがまだ少ない。チャネリング本などもそうだ。これは思うに、やはり英語が今の地球で最も普及しているので、もし地球人にメッセージを届けたいと思っている高次元存在がいるとすれば、英語圏にまずそのメッセージを降ろすのは当然の選択だろう。そこで評判になればすぐにほかの言語に訳されることは簡単に見通せる。これが最初に日本語圏に降ろしてしまうと、なかなかそれ以外に広まらないだろう。これが英語圏にチャネリングのよい本がたくさん出る理由だと思う。

いきなり話がチャネリングになってしまった。ナスル先生は、さすがにチャネリングについては言及していないが、天使の存在は完全に認めている。実は、彼のバックグラウンドであるイスラム哲学では天使の存在は常識なのである。人間には微細身体があるということもわかっている。大したものである。実は精神世界といわれるジャンルで語られていることは、ほとんど伝統哲学にある要素なのである。それを現代人向きにアレンジして出してきているということだ。別にぶっ飛びでもなんでもない。人類思想の本道なのだ、と自信を持ってよいのだ。

私も、現代社会の常識からすればかなりぶっ飛びとも見えることを実践しているけれども、私のやっていることがどのような原理に基づいているか、私は完璧にロジカルに説明する自信がある。だから世間からみてずれていようと何とも思わない。間違っているのは常識の方なのである。たとえば私のやっているエネルギーワークなども、弘法大師空海がやっていたことと原理的には変わりないと思っている。霊性思想は人類の本道だということを力強く語るナスル先生などを知っているので、私はその点においてはまったく揺らぎがないのである。

しかしまあ、出版は厳しいなどと書いてしまったのは「引き寄せの法則」の原理からするとあまりよろしくはないだろう(笑) もっとも、私自身がそういうものを書こうというわけではないのだ。たぶん私はそれを望んでいないであろう。私は、こういう霊性思想の基本をふまえつつ、応用の方にシフトしているのが最近の状況である。

最後にナスル先生への入門書をあげておく。

1933316381 The Essential Seyyed Hossein Nasr (Perennial Philosophy)
William Chittick
World Wisdom Books 2007-09

このほか霊性思想の主な著書は次のようなものである。

Knowledge and the Sacred

Religion and the Order of Nature

The Need for a Sacred Science

Man and Nature

Islamic Philosophy from its Origin to the Present (イスラム哲学概論)

The Garden of Truth (スーフィズム概論)

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何でもありの世界

私のやろうとしているのは、研究・解説ということではなくて、新しいものを作るということである。べつに研究・解説を否定するわけではない。

現代的霊性とか、スピリチュアリティとかいう。私は、スピリチュアリティのようにこなれないカタカナ語を使うことはあまり好きではないが。

私がやっていることは宗教に類似した行為であるが、宗教ではない。宗教という枠には入らない新しい文化的形態であると理解している。

その新しい形について、いろいろ宗教学者などの分析も出ている。それにはいちいち触れないで、私の考え方だけを言うと・・

宗教と、今作られつつある新しい「宗教に似ているけど違うもの」の違いというのは、宗教はあくまで「作られた形」に依拠する部分が大きいということ、そして後者は、「意識がすべて」という考え方が基礎にあるということだ。このポイントを指摘したい。

たとえば儀式的なものにしても、「なぜだかわからないが、この型の通りやっていくことに意味がある」というものが受け継がれ、その通りに実践され、それなりの手応え(経験)を得る、というのが宗教のやり方だ。

ところが、新しいものは、その型が効果があるのは、それが効くと信じている、つまり「意識設定している」からそうなるのだ、ということを明確に知っているのである。つまり、自分の意識設定によって、いかなることも可能になるのだという理解をしているのである。

エネルギーワークの本質は意識設定にある、ということは何度も書いてきた通りだ。アチューンメントが効くのは、そのように意識を設定するからなのである。

さらに「すべては意識設定だ」という考え方は、「すべては意識だ」ということになる。「もの」というのは本当は何もないのである。あるのはただ意識がいろいろに作り出した無限数の現実のバージョンだけである。

その意味でいえば、たとえばミカエルのワークをしているからといって、ミカエルが「客観的に存在する」と素朴に信じているわけではなく(信じてもいいのだが)、それはいわば方便であり、いわば宇宙と私たちが共同でミカエルがいて助けてくれるという現実を創造しているのだ、と知っているわけである。

このように、何も固定したものはなく、何も「絶対に本当」なものはない。ただ、それぞれの本当、真実があるのみなのである。

マトリックス・エナジェティックスの創始者がワークショップの映像でこんなことを言っていた。チャクラの調整をしながら、「もっとも私はチャクラなんて信じてませんが」。その後に付け加えて、「それは、私は木も信じていない、という意味です。つまり、すべては意識によって設定されたものなのです」。つまり、「あると思っているからある」というあり方でしか「存在」というものはありえないのだ、という哲学があるわけである。こういう理解に立つことがきわめて本質的なことがらである。

こうした新しい「宗教に似ているが宗教ではない行為」を論じるに当たって、学者などは、どうしても「客観的現実がある」というスタンスに立ってそれを語ろうとしてしまいがちだ。そのへんに限界を感じるのである。哲学をもうちょっと入れてほしいという気がする。

だれしも、世界とはどういうものか、自分とはどういうものかについて「信じている」ことがある。すべての論は、そのフィルターを通して語られたものである。ニュートラルな視点などないのだ。ただ、多数派である集合意識にあまり抵触してない形で語られたものが「客観的」に見えるのである(それに価値がないとは言っていない。本質は何かという問題だ)。

その意味で言えば私の言うことなど、スサノオノミコトかシヴァ神のような「破壊行為」に映るかもしれないが、世の中にはこういうものも必要ではないか、と考えている。みなが同じことをする必要はないが。

エネルギーワークにしても、気功からレイキへ行くには一つ飛躍があるが、それがこの「意識設定の問題」なのである。気功はまだ、「意識がすべて」という考え方の革命なしに入れるからである(入れるということであって、深くきわめるにはやはり意識変革が必要になると思うが)。

そして、「意識とエネルギーは同じもの」という理解も本質的なものとしてある。

宇宙意識は宇宙エネルギーと同じだし、私の意識は私のエネルギーである。

この理解は、べつに新しいものではなく、インドや中国の伝統思想にはすでにあるものだと理解している。

ただ、伝統社会で作られた「型」をそのまま受け継ぐことには意味は少ないと思う。これだけ時代は激動しているのである。新しい型が必要になるのは当然のことだ。そして、たぶん、その型の賞味期限はかなり短くなるのではないだろうか。時代のエネルギーの変化とともに、どんどん作り直され、変容していくことになるだろう。型は意識によって作られた方便であることを明確に知っており、意識設定によって何でもできると完全に理解していることがポイントとなるのである。

知識人層の中でも、霊性に興味のある人は多いが、やはり、伝統的な型に寄り添った方が安全だという意識を持っている人が多いと感じる。見えざるラインがあるようなのだ。

「この世界は何でもありだ」と心底から感じることができると、世界の感覚はかなり違ったものになり、基本的に、怖いものはなくなるのである。

そのように、自己を解放する、自己に許可を与える、そのための抵抗を取り去る・・この要素がありさえすれば、どんな形でもいい。というか、形にこだわるというのはその目的からすれば矛盾そのものである。すべては方便である。

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現実は選べるということ

結局、「自分ができると100%信じられたことはすべてできる」というのが宇宙の法則だと確信できるようになった。自分に許可証を与えるかどうかという問題なのである。文字通りすべてできる。水の上を歩くことだってできる。キリストはそれができた。ただ私たちはそれができることに確信が持てないのでできないだけである。

だから「できると信じられること」を拡大することは、自分を拡大する、自分の現実を創造することと等しいのである。

私は「アチューンメント」という世界に関わって、そういう法則がはっきりとわかるようになった。

こういうことを疑わしいと感じる人は、おそらく、「客観的な世界というものがある」という思考をしているのだと思う。実は、その客観的な世界というのは、集合意識によって作られた「同意された現実」にすぎない。

新しい現実を創造するとは、もちろん同意された現実を完全に否定することではない。完全に否定すれば生活はできないし、自分が創造した現実と同意された現実にほとんど接点がなければ、コミュニケーションが全く不可能になる。この場合私は同意された現実側からは「気の狂った人」と見なされ、病院行きとなるであろう。

ただ、同意された現実というのは、それほど確固としているわけではなく、ほとんどの人は、あまり多くの人に同意されていない現実の部分を作り上げて生きているものなのである。

だから、少しずつ、同意された現実をずらしていくということである。スプーンが曲がるという現実は、曲がらないという現実に比較して大して変化しているわけではないが、意識のあり方は同じではない。つまり、同意された現実がすべてではなく、私ができることにはもっと多くの可能性がある、ということに気がついたということが重要なのだ。

大天使ミカエルや阿弥陀如来というものが「いる」という現実に生きるかどうかは、選択できるのである。正しいとか間違っているということはない。正しいかどうかというのは、何を基準とするかの問題に過ぎない。

ミカエルという存在が客観的に(つまり、科学のように、誰が観察しても必ず同じものが出現する、という意味において)実在するわけではない。あくまで私は、私のバージョンのミカエルをそのつど創造しているのである。ただし、これまで多くの人が創造した、ミカエルのエネルギー場(シェルドレイクの言う形態形成場)というものはあり、それに影響を受けるということは当然ある。だけれどもそれはあくまで私のバージョンである。実はミカエルというものは、すべての人間、そして宇宙の他の領域の住人たちすべてが、そのイメージにおいて創造した無数のバージョンを統合したものとして存在している、という言い方もできる。つまり、私が私のバージョンのミカエルを創造すれば、ミカエルという存在はそれだけ、より進化発展し、より多様にして統合されたものになっていくのである。これは阿弥陀如来でも天照大神でも同様である。

従って、私の現実にはミカエルも阿弥陀如来も存在するが、別の人の現実には存在しないであろう。たとえば私の現実には、マオリ族やラコタ族の神々は登場しない。しかし意図すればそれを付け加えることはできる。つまり、現実とは意図的に創造可能なものである。選択できるのである。それを選んでしまえば、その存在は実在し、それと会話するだってできる(できないと信じていれば別だが)。

できると思っていたができなかった、というのは、それが間違っていたということではなく、集合意識の同意された現実の力が勝ってしまった、ということだろう。あるいは、単に、もう少し時間が必要で、最善のタイミングでできることになっているのかもしれない。

「できる」と思い込むということがいかに大切か。それも、引き寄せの本には繰り返し書いてあることである。

「現実を選ぶ」ということが、これからの思想の中核となるのだ。

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エイブラハムの引き寄せの法則

「引き寄せ本」を読みまくっている最近である(笑) そんな中、聞いたことはあるがまだ読んでいなかった、エイブラハムの引き寄せ本を読んだ。

いや、これはすばらしい。たいへんおもしろい。

書いていることはバシャールと似ている。自分がよいものを引き寄せているかどうかは、自分の中にポジティブな感情があるかどうかでわかると言っているが、これはバシャールの「ワクワク」と同じである。

実をいうとアメリカではバシャールよりもエイブラハム(ヒックス夫妻)の方がずっと有名である。ホームページも充実しているしワークショップもすごい数こなしている。バシャールの方がはるかに小規模である。でもまあ、私はバシャール大好きですがね。

バシャールはだれでもコンタクトしていいと言っているが、エイブラハムとコンタクトしてみるとできるのではないかと思う(「できる」と思うことが大切)。

で、エイブラハム本は、いやなものを引きつけてしまったときにどう対処すればいいかとか、そういう具体的なノウハウがかなり出ている。これがなかなか役に立つものだと思った。とても実践的なのである。

人気が出るのも当然である。実際に「使える」ものだから。ただ、読む場合には翻訳のよしあしに注意だろう。『神との対話』の訳者、吉田利子さんは、訳はとても読みやすいが時々原文をパラフレーズして変えてしまうので、原文と離れることがある。一方で、他のエイブラハム本ではアマゾンレビューで「訳が悪い」という評判が出ているものがあるので、そのへんはチェックすることが必要だ。

まあ、この手のスピリチュアル系自己啓発本の世界では、原文を時々省略するなんてことはふつうに行われているし、ダイアーの本なんかも全部訳せば400ページにもなりそうなのを250ページの本にするなんてこともある。

話を引き寄せに戻すが、私がかなり若い頃は(いまでも若いが)、こういうものは、ビジネスマン向きのナポレオン・ヒルとかそんなものしかなくって、それがスピリチュアルな世界観と結びついているということはほとんど気がつかれていなかった。

スピリチュアルな成長ということを考えると「修行モード」だったのである。つまり、今の人間は基本的に駄目なものであるから、たたき直して、カルマを浄化し、少しでも神に近づきなさいという教えである。今の若い人は知らないかもしれないが、オウムという現象はそういう流れの中で、「偽グル」が出現してしまったという問題である。そういう偽物は論外としても、その師匠が「本物」、つまり実際に高い意識に達していたとしても、やはりその指導法は「修行」だったのである。

しかし、実際に修行をしている人、たとえばそんな師匠のやっている道場に泊まり込んで(つまりふつうの仕事は辞めて)けんめいにやっている人と何人か接したが、それがあんまり進歩していないように見える人も多かった。明らかに「自分は修行をしているんだ」ということがひそかに自意識、エゴの肥大になってしまい、修行をしない人を「成長するつもりのないやつ」として見下げる、という態度を示す人がかなりいた。そして「あいつの方をなぜ師匠はかわいがるのか」とか、仲間に嫉妬をしたりする。私はそういう実情を知って、修行という道に疑問を感じるようになった。いっそ修行を始める前の方が「いい人」だったかもしれないというケースもあるのだった。(あとでわかったことだが、そこに集まっている人々は、ほとんどが、過去生でもその師匠のもとで修行をしていた人たちであるようだった。それ以外の人は続かなくてまもなくやめていくケースが多かった。それから、その師匠は過去生ではインドのグルであったので、その教え方も伝統的なインド宗教思想に近かったのだということもわかった)

今から考えてみると、修行モードというのは、今の自分には求めるものが得られていないという「欠乏」にフォーカスしてしまっている面があった。神の愛とか、宇宙の豊かさということがわからないので、何とかそれを得たい、と必死になっているが、その「自分にはない」という意識が強いので、なかなかわからないという側面があった。師匠の愛をめぐって争うなんていうのはいかに宇宙を「欠乏」として見ているかのよい証拠である。私が、神の愛がわかるなんてことは実に簡単なことだと気づいたのはかなり最近である。というか、わかることが人間としてはむしろノーマルなのだ。「自分は神の愛がわかっていない」という欠乏に焦点をあわせるのが間違っていたのである。得たい得たいではなくて、もっと力を抜かなければいけないのだ。

「努力しなくてもいい」ということに気づいてからかなり楽になった。正確に言えば、努力したい人はすればいいが、それがオプションであって、義務ではないということである。「楽であってもいい」という考え方が受け入れられないと、レイキのような世界には入れないだろう。レイキは確かに、「宇宙に任せていればすべてはうまくいく」ということを実感させてくれる。その意味でたしかにレイキは転換点だった。より広大なスピリチュアルな次元があることを、これほど簡単に実感させてくれるワークはそんなに多くないと思う。

今の人は恵まれている。どんどん楽になっている。苦労をする必要はないのである。たいへんけっこうなことである。きつい経験をするのは、マラソンやトライアスロンをやる人のように、自らそれを選んで、そのきつさを克服する高揚感を得ようという、趣味の問題にすぎなくなったのである。

そういう意味で引き寄せ思想が世に広まるのはすばらしいことである。

ただ、アマゾンのレビューなんかでも、「目新しいことは何も書いていない」などとネガティブなことを書いている人が必ず一人くらいはいるものだ。

申し訳ないがこういう人は何もわかっていない。つまり「頭でわかる」がすべてだと思っている左脳オンリーの人間なのである。

本当に自分を変えていこうと思ったら、「わかった」「理解した」というレベルはほんの第一歩にすぎない。大事なことは、わかっているはずのことを繰り返し繰り返し、インプットしていき、潜在意識を完全に変えることなのである。

外国語と同じである。もう文法の理屈はわかってしまっているかんたんな英語を、大量に聞き、読むというインプットをおこなっていかないと、話せるようにはならない。「わかっている」ことと、「使える・できる」ということとは大きな違いがあるのである。「わかること」だけで十分だと思ってしまっているのは、学ぶということを学校の勉強モデルで考えてしまっているからである。「できる」というのは数学や歴史みたいな勉強ではなくて、音楽・体育・工芸みたいな「実技科目」である。実際にできてなんぼである。バスケットがうまいということは、ルールを知って理解していることと同じではないのである。

であるから、引き寄せの思想を完全に身につけ、実践するためには、とにかく、頭でわかったあとも、繰り返し読む。そして、同じようなことを書いてある別の本を次々と読んでいくのである。同じ思想が違う側面、切り口で語られるのに接すればまずます定着が進むのである。このように潜在意識をトレーニングすることの大切さに気づき、そのためには「繰り返してのインプット」が大事だと知るべきである(お気づきと思うが、これは「アファメーション」と同じ原理である)。「目新しいことは書いてない」などということを言う人は、自分の人生に何もいいものを創造できていないことはほぼ確実である。

さて話が長くなったが、要は、エイブラハム本はいいよ~ というのがこの記事の趣旨である。ホームページのおすすめ本にも載せようと思う。

4797341904 引き寄せの法則 エイブラハムとの対話
ジェリー・ヒックス エスター・ヒックス 吉田 利子
ソフトバンククリエイティブ 2007-10-30

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