14 posts categorized "音楽"

衝撃的CDその後――レムリアンブレス

この前書いた「クリスタル・ヒーリング」のCDであるが、このところ、毎日2~3時間は流れている状態・・ますますこのエネルギーに入っていっている。

そして、第2曲「レムリアの記憶」にそのエネルギーが使われている石――アマゾナイト、クリソコラ、そしてウォーターメロントルマリンを用いて、「レムリアンブレスレット」を作る計画が、このほど実行に移された。

行きつけの店で聞くと、ウォーターメロントルマリンは、かなりお高いらしく、これのブレス用丸玉は出ていないという。一時は、が~んということになりそうだったが、ウォーターメロントルマリンの小さなタンブルを、ブレスに金具をつけてぶら下げるというデザインによって、問題解決。

緑の石を基調にしてクリアクォーツなども混ぜ、なかなか好ましいエネルギーとなる。できるのは一週間後である。さて私自身のエネルギーもまた変化していくであろうか?

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衝撃的CD発見

このあいだ知り合いのヒーラーさんのところで耳にしたCDが、波動感じまくりで、速攻入手した。

ジェームズ・マキオンの「クリスタル・ヒーリング」

なんか、太古の記憶を呼び起こすエネルギーで、こういう波動は、数年前までは表現されることがありえなかったんじゃないの、と思ったり。

ジェムストーンの波動が入っているそうであるが、どのようにして入れるのであろうか(笑) 繊細な波動の音楽に、ヴォイスが入っているが、これがまたすごい。

特に2番の「レムリアの記憶」ですよ~
この曲にそのエネルギーが入っているというジェムストーン三種を使ってブレスレットを作り、「レムリアンブレス」にしようという計画が頭にひらめく。

マキオンさんはエオラのジェムオラクルカードでも有名らしい。このCDはアマゾンでは売っていない。

追記

こっち見たら?

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またまた Liquid Mind

またも Liquid Mindを買った。

B00005MNFLLiquid Mind V: Serenity
2000-06-06

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これで3,4,5,6と4枚そろった。はっきり言って最近のヒーリングミュージックは Liquid Mind ばかりである。
この「セレニティ」は、また一段と、深い至福感の世界に入ってしまう音楽で、何とも気持ちよい。
三好和義の「楽園シリーズ」にも通じる、ここのところの「至福」への感性というものが、出ているらしい。
何というか、自分がイルカになってブルーの至福宇宙を遊泳しているというか、そういう気分があるのだ。

ところがクラシックといえば、シューマン、チャイコフスキー、ラフマニノフと、ロマン派全開。

なんなんだこの趣味は、って自分で思いますね(笑)

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最近のBGM

最近のBGMはリキッド・マインドの6。
3,4と買ってきて、月一枚ペースでそろえようかと思っていたが、6のジャケットにつられて一つとばし。
光の柱ですからね、「そのものやん」という感じです。

B00008BR0VLiquid Mind, Vol. VI: Spirit
Liquid Mind
Chuck Wild 2003-03-04

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天使的音楽 Liquid Mind とモーツァルト

Liquid Mind というのはヒーリングミュージックのアルバムシリーズである。これに最近はまっていまして・・

以前からこれ持っていたんだが、その時は「よく眠れるCD」と思っていた。それは間違いではないんだが、その当時のオーディオと今のものではグレードが違う。数年ぶりに聴いてみたら、前はわからなかった、微少な音の粒子がキラキラと漂っているのがすごくクリアに聞こえてきて、この曲の真のディープさに耳を開かれた? ということ。

虹色の音の粒子が泡立つ「光の海」に漂う。私に浮かんできたイメージはなぜか「イルカ」だった。
もしかして、イルカっていつもこういう意識の状態で生きているのかもしれない(ほんとは知らない。これは想像である)。限りない意識の大海。至福。愛・・ その巨大な空間をただ自由に遊び戯れているイルカである。私はそれを水中から、イルカと同じ視線で見ている。いや自分もイルカになっているのだ。・・これは私にとって完全に「宇宙旅行」のモードであった。最初は、あまりに意識拡張しすぎて、聴き終わった時に「スペースアウト」状態になり、しばしグラウンディングできなかった。しかし、何回か聴くうちに慣れてきてそういうことはなくなった。

大傑作! これはひさびさの衝撃的な音楽体験だった。私がこれから Liquid Mind シリーズを買い込むであろうことはいうまでもない。

B00000I57BLiquid Mind III: Balance
Liquid Mind
Chuck Wild 1999-03-02


もう一つお気に入りはモーツァルト。というか、クラシックは最近モーツァルトしか聴いてませんね・・
モーツァルトセラピーという音楽療法があり、それによるとモーツァルトには倍音による高周波の音が豊富に含まれており、それがヒーリング効果をもたらすとされている。しかしいくら高周波といっても、ヴァイオリン協奏曲など聴くと、日本人の耳にはあまりにキンキンしすぎているように聞こえる。弦楽四重奏曲も日本人(正確には日本語の周波数帯域に慣れている人間)には生理的な違和感がわずかに感じられるような気がする。そこで、私としていちばん好ましいのは、管楽器と弦楽の組み合わせではないかと思う。それがひじょうにバランスのいい波動になるのだ。

というわけで、クラリネット協奏曲、フルート協奏曲、フルートとハープのための協奏曲、クラリネット五重奏曲、オーボエ四重奏曲、フルート四重奏曲、管楽器とピアノのための五重奏曲・・あたりだ。交響曲やピアノ協奏曲なども、オーケストラには管楽器が必ず入るから大丈夫。

前置きが長いが最近のマイブームは「クラリネット協奏曲」である。
この曲について、昔はよく人生論的な感傷的文章をよく見かけた。人生の哀愁だとか、諦観の境地だとか・・
もちろんそんな「意味づけ」は無用。私にとってこれは「天界の波動」。天使的音楽ということだ。
ただ、第二楽章など、このような波動の世界は、この地球の物質次元にはまったく存在しないため、こういう世界に接するとそれが「死の向こう側の世界」であるかのように感じる人がいるのも、無理からぬところかもしれない。そのへんが、「死を前にした境地」だという解釈を生むことになったのではなかろうか。

しかしべつに、死ななければそういう世界に行けないわけではない。そのためにこの音楽が存在する。
向こうにあるものは今ここにもあるはずだ。

演奏については、モーツァルト全般にマリナーを好んでいる。
それは、天使的音楽にふさわしい「無垢の遊戯性」をもっとも表現しているモーツァルトであるように感じるからである。イルカがぴちぴち海面ではねているような感じのモーツァルトなのだ。(レクイエム、ハ短調ミサなど「合唱もの」はヘレヴェッヘの演奏もよい)

マリナーとライスターのコンビでいうことなしですね。三回続けて聴いてもあきません。

B00000410DMozart: Clarinet Concerto in A; Sonata in B flat; Bassoon Concerto in B flat
Klaus Thunemann Stephen Orton Karl Leister
Philips 1989-10-19


※注:この文章は個人的好みを述べたものにすぎず、それが万人にお勧めするものだということは言っておりません。

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シベリウスはタオの音楽

ひさびさに聴いたけど、シベリウスの音楽はかなりgoodである。
これは言うなればタオ・ミュージックかもね。つまり目に見える自然の「手前」にあるエネルギーの流動のようなものが感じられるのだが。

きょうは洗礼者ヨハネの日なのだそうで、本来なら「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でも聴かねばならないところだが、シベリウスに走っていた。

特に交響曲5~7番! その後は、3番とヴァイオリン協奏曲かな。
2番ってのが有名だけど、シベリウスの真価は5番以降にある。

いってみればドイツ音楽が「京都」だとすればシベリウスは「北海道」かな(なんじゃそりゃ)。
つまり、ぶあつく堆積しているものがなく、自然の流動する「気」がごく近くにあるという感覚というか。
やっぱ、タオですよ~
フィンランドって一回行ってみたいですね。冬はパスだが・・

演奏は定評のあるベルグルント指揮ヘルシンキ・フィルがよろしいのではなかろうか。
この「ひんやり」した感触はなんともいえません。

Sibelius: Symphonies Nos. 5-7; The Oceanides; Finlandia; TapiolaSibelius: Symphonies Nos. 5-7; The Oceanides; Finlandia; Tapiola
Jean Sibelius Paavo Berglund Helsinki Philharmonic Orchestra


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もひとつ「ドイツ・レクイエム」のこと

今日のエントリーは趣味に走っております。
この前の「ドイツ・レクイエム」について、「フルトヴェングラーのCDも音は悪くないから聴け!」というようなメールが来た。この場を借りてご厚意に感謝しますが、どうもフルトヴェングラーのことを書くとメールが来ることが多いような気がする。

私はCDコレクションの鬼ではないので、いくら好きな曲だといってもその曲の演奏をことごとく集めてしまうようなことはない。世の中には、入手すべきCDのリストを作ってそれを集めることに気合いを入れている人もいれば、自分の気に入ったCDに当たったらそれ以上集めようとせずそればかり聴いている、というタイプがあるかもしれない。どうも前者は男性に多く、後者は女性に多いような気がする。ことごとくを「制覇」しようとか、少しでもよいものを求めてあくなく追求するといった行為はオス的な所業なのかもしれません。私は他の男と比較して、「男性性・女性性」の比率が違っているようで、女性性の比率が高くなっておるようです。それはともかく、

ちょっとネット検索してみたら、ドイツ・レクイエムCD紹介のページの多いこと。
その中で、私の聞いた5,6枚のCDの印象とほぼ一致していたのが、次のページである。
http://www5.airnet.ne.jp/kawahara/Brahms-dreq.htm

私が最初に聴いたクレンペラー盤については、

このディスクに関しては不満点は音質のみなんですが、これがそれなりに問題ではあって、とくに限界ギリギリの最強奏のところになるとどうしても音が割れるというか響きが濁ってくるところなど演奏自体の迫力からしていかにも惜しいです。

まったく同感。私としては、この最高潮のところで音が割れるというのは致命的!! というのは、私は音楽を一種の「エネルギーの流れ」として聴いているわけで、盛り上がったところで音が割れると、そこまで上り詰めていたエネルギーが解放されずに残ってしまうのである。これが私はどうにも耐えられないくらい不快なことなのだ。大きな宇宙へとエネルギーを一気に解き放つ瞬間こそ最高の至福なので、それが損なわれてしまうのはこの曲を聴く意味がないと言ってもいいくらい。私も、本当に惜しいと思う。

ヘレヴェッヘの演奏については

ヘレヴェッヘ盤の演奏は古楽器アンサンブルの原色的な音色の美感が十二分に発揮された演奏で、その響きの美しさが強い個性を形成していると思います。⑦のガーディナー盤の演奏においては古楽器オーケストラをガンガン鳴らすことによる荒々しい音彩の表出が演奏の迫力を強めていたのに対し、古楽器オーケストラの力感が巧妙に調整されているこちらのヘレヴェッヘ盤の演奏においては音響的な迫力というよりはむしろ、響きの透明感、細やかな色彩美という面において際立ったものがあり、声楽の広がりの充実感という点でもガーディナー盤を一歩凌いでいる感があります。敢えて不満点を挙げるなら、演奏の性格上総じて響きにある種の濃密性が弱く、「ブラームスを聴いている」という感じがそれほどしない点でしょうか。

きわめて妥当な批評で、異論ないです。私としてはそういう、伝統的な「ブラームスっぽさ」がないところが逆によい。ヘレヴェッヘの演奏は、必死に救済を求めて血へどを吐くような魂の叫び、ではないわけだ。言ってみれば、最初から最後まで至福の世界にいて、そこから歌い出しているドイツ・レクイエムなのである。そこがカール・リヒター的なものと対極にあるヘレヴェッヘの音楽性なので、それがいいという人はすごくいいし、いや、やっぱり血を吐くような魂の叫びでなければ、という人は他の演奏を聴けばいいだろう、ということ。このヘレヴェッヘの演奏は決して「鎮魂」ではないので、それとは別のもの。誤解を招く表現かもしれないが、「人間」というより、「宇宙の調和」を表現しているもの。(だからヘレヴェッヘの受難曲はつまらないかもしれない)
ただ、ソプラノ独唱はちょっと物足りなさが残るかもしれない。それは他にいいのがたくさんあるから。

ちなみに「ペンギンガイド」によれば、ガーディナーが鍵マークにロゼッタ。アバドのDVDが鍵マーク。あと三つ星はプレヴィンの2枚、クレンペラー、ノリントンのみ、モノラル参考記録の三つ星がケンペとカラヤン。こちらは「保守的なイギリス人の趣味」としての参考である。

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ブラームスのドイツ・レクイエム

ブラームスの「ドイツ・レクイエム」はひじょうに特別な音楽である。これは、現代人が「キリスト」を体験する一つのあり方を示している、と思う。

キリスト教音楽というと、一昔前ではバッハの「マタイ受難曲」が最高とされていて、ことにカール・リヒターの演奏などは神格化されんばかりであった。あれこそがキリスト教のエッセンスを示している、という評価も多かったが、いま、この2006年になってみると、そういう評価はもう終わってもいいと思う。はっきり言って、現代人(特に日本人)にはこのキリスト教理解は合わない。曲の美しさはわかっても、本質的なところでは理解を拒絶するものがあるに違いない、と思う。

というのは、決してマタイ受難曲をけなすわけではなく、あれが偉大な曲であることには何の異論もないのだが、あのキリストのとらえ方が「典型」とか「最高」というのは違う、という気がする。マタイ受難曲は、「人類の罪」をあがなうために、イエス・キリストが苦しみを受けるということが中心であり、その苦難をこれでもか、と描くことにある。はっきり言うと、こういうキリストのとらえ方はもう古い。こんなキリスト教は「普遍的霊性」にはなりえないのである。

個々の魂におけるキリストとの出会いを描いている、新しいキリストの把握が「ドイツ・レクイエム」にはあるのだ。歌詞はブラームス自身が旧約・新約から引用を集めたものなのだが、よく見るとあんまり「イエス」のことは出ていない。歴史的なイエスの受難なんてことはどうでもよくて、いかにして魂がキリストという「光」を知るに至るのか、という内的なプロセスだけが表現されているのだ。

私はあなたがたに再び会うであろう。 そしてそのときの喜びは、けっして失われることはない。

というヨハネ福音書の引用があるが、その意味が本当に「わかる」ということが、キリストのことがわかるということなのだ(この際、「キリスト教」はどうでもよろしい。ここでは「キリスト」の話をしている)。
キリストとは、光であり、真理のことである。
キリストに会うとは、「光を見る」ということである。
つまり「ドイツ・レクイエム」は、苦悩に満ち、「生きることの意味」を必死に求めている魂が、ついに光と出会って、「永遠の生命」を自覚し、その尽きることない喜びを知るに至る、というきわめて霊的なプロセスを描いていることになる。

「光を見る」というのは、いわゆる「悟る」ことではない。
「悟り」とはあくまで神と合一する究極的な段階のことを言うのであり、「光を見る」とはその第一歩であるに過ぎない。
しかし逆に言うならば、魂が苦悩から救われるのは、何も悟らなければいけないわけではない。まず、光を見る(キリストに出会う)だけでいいのだ。それは、悟るよりはるかに簡単である。悟らなくても、そこまで行けば、基本的に苦悩からは解放される。仏教でも解脱に至るプロセスとして、たとえば「不退の位」とかそういうものがあるが、それが「魂の救済」に相当するかもしれない。
悟らなくてもいい。魂の救済はもっと簡単なことだ。
それは、私自身がこれまでの探求で理解したことである。

まあ、たしかに、キリスト教ではふつうこの「魂の救済」が最終目標になってしまって、そこから先の「神人合一」までの道があることを知らない(一部を除いて)、というのも普遍的霊性という観点から見れば欠落ではある。
しかし同時に、そういう究極目標があることは知っていても、「魂の救済」というプロセスがその中間にあるということがよくわからず、最初から悟りをめざしてしまってかえって回り道する、というのも、西洋的霊性が入っていないところにはありがちな欠落なのである。
普遍的霊性とは、この両者の統合にあるのだ。

「ドイツ・レクイエム」の演奏だが、機会があれば実演に触れた方がいいと思う。
オーケストラと合唱という曲は、録音がむずかしく、2チャンネルの再生ではそう簡単にその曲の真価を表すことはむずかしい。ミニコンポくらいでは話にもならないのである。最低でも、合唱と同時に低音弦のラインがはっきり聞きとれるくらいでないとこの曲の音の厚みはわからないのだ。
演奏自体はよく、実演ならいいんだろうけどこの録音では駄目だなあ、というCDがいくつもあった。
一般にはガーディナーのCDが定評あるようである。
これも悪くないが、録音の良さであっと驚いたのがヘレヴェッヘ指揮のCDだった。本当にほかの盤とレベルが違う。驚くべき細部まではっきりとわかり、しかも全体が見事に溶け合っているので、とにかく「音の美しさ」では比類がない。音楽とはまず第一に「美しい音」を聴くことにある。精神性なんてものはそのあとで初めてついてくるもので、雑音ガリガリのヒドイ音の塊から必死になって聴き出すものが精神性ではない(私がフルトヴェングラーを聞かないのもそういう理由である。指揮が悪いというのではなく、録音された音として駄目なのである)。

最近、アバド指揮のDVDを入手したが、これもなかなかよかった。演奏している人の表情が見えるというのはよいものである。合唱の人が、時には必死になったり、また美しいメロディーを歌う時に喜びに満ちた表情をしたりしている。肉体をもった人間が力を合わせて、ある霊的なプロセスを創造している、という感覚が伝わってくるのである。またこのDVDでは、バーバラ・ボニーの独唱がことに素晴らしかった。

ブラームス:ドイツ・レクイエムブラームス:ドイツ・レクイエム
ヘレヴェッヘ(フィリップ) ブラームス エルゼ(クリスティアーネ)


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Abbado / Brahms : Ein Deutsches RequiemAbbado / Brahms : Ein Deutsches Requiem
Brahms , Bonney, Terfel, Abbado


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※注: この文章で「光」と言っているのは、よく瞑想中に体験するような、いろいろな色のついた光のことを言っているのではない。よく読めばわかると思うが、念のために。

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「ゲロンティウスの夢」とスピリチュアリティー

この間、「わかっていない人は語ってはならない」などと書いたが、そういってしまうと自分で自分を縛ることにもなるわけで、究極意識に達していなければ一言も語ってはいけないということになると、スピリチュアルな言説というものはほとんど成立しなくなってしまうだろう。それに、ウィルバーがそう言うからには自分はほとんどすべてを知ったという前提でなければならないわけで、それは果たしてどうなのだろうか、という問いが生じる。たしかにある程度のことはわかっている人にはちがいない、しかし、それは昔から言われている「無上のさとり」、神人合一の段階を指すのであろうか。私は、ウィルバーはそこまでは行っていないのではないかと推測するのである。というのは、この数十年というもの、急速に霊的文献に人々が接する機会が増えてきているが、それらにだいたい共通している要素と、ウィルバーの理論とは必ずしも合致していない部分があるからだ(具体的には、アストラル界=微細界と物質界との関係などの議論が、うまくかみ合っていない。それとこれは個人的なことだが、私がウィルバーをそれほど好きではないというのは、私はキリスト教的なものも好きなので、ウィルバーが西洋人であるにもかかわらずキリスト教的霊性に背を向けているようなところがなじめないということがある)。

ここの読者も、最近いわゆる精神世界と呼ばれているジャンルにおいて、宇宙の構造とか死後の経験などについていろいろな情報が出ており、それは必ずしも単一のグループからではないにせよ、そこにはある程度の共通性が見られることに気付いていると思う。それはシルバーバーチなどのスピリチュアリズムであったり、インドや日本の「霊覚者」(と思われる人)の言っていることであったり、あるいは一般の人々が何らかの形で「のぞいてきた」ものであったりする。それらをすべて「幻想」の一言で片づけることはあまりにもたやすいが、結局それは、そう言う人はこれらの情報とまともに向き合いたくないということを示しているだけで、そこに何らかの根拠や証明があるわけではない(そもそも「何が幻想なのか」ということは哲学的な難問であって、そのように簡単に言ってのける人はこの世界の本質について真剣に考えたことがないことを示している)。とりあえずそういう情報というのは「現代の神話」と言ってよかろう。そして私たちは神話を信じる権利もあるわけである。それはユングが主張したことであるし、また『構造主義科学論の冒険』で出てきた「恣意性の権利は科学的理論に優先する」という公準を持ち出してもよい。科学が描く唯物的実在論にべつに哲学的根拠がないのであれば、私たちは何を信じるも自由なのであり、そこで、それならばこの現代の神話において生きてやろう、と考えることも自由である。これは実存的決断なのであって、べつに理論的・合理的に要請されるようなものではない。ただそれを間違いであるとか幻想であるなどと言う権利が他人にはない、というだけである。そういう権利があると思っている人が多いということが問題なのである。「意識の死後存続」を信じることがオカルトであるなどというのは全くの妄言、暴言であるということである。スピリチュアリティーに関して知的活動が役立つのは、そのような「信じる権利」を守り、妄言・暴言を許容しないという思想的環境を整えることにあるのかもしれない。

こんなことを考えたのは、エルガーの大作オラトリオ「ゲロンティウスの夢」を聴いたからである。これは言うなれば「臨死体験もの」である。エルガーは「死んだらどうなるのか」というのをこういう風に理解していたのか、ということがわかる。それはもちろん、時代的に、かなりキリスト教の枠組の中にはまってはいる。しかしなかなかどうして、かなり、真実に迫っている部分もありそうだ。ゲロンティウスは死の床で恐怖におびえるが、そこに天使が来て慰め、魂を送る。ゲロンティウスの魂は、肉体から解放されると軽々とした気分を覚える。そして天使に導かれ、「裁きの部屋」に入る。そして一瞬、「絶対なるもの」のヴィジョンを見るのである。それは巨大な閃光のようなもので、それが音楽で表現されている。ゲロンティウスはそして煉獄に行くことになるが、煉獄での修行を経てまたその神のところへ行ける日があることを知り、希望を胸に抱くのである――というような話である。詩はたしかにちょっと古いところもある。しかし、さまざまな情報と比較すると、次のところはかなり一致する。
1. 死の床では天使的存在が現れる。
2. 肉体から離脱すると身の軽さを感じる。
3. 一瞬、強烈な光と出会うことがある。これは、「チベットの死者の書」で言っている「クリアー・ライト」のことだ。
4. 煉獄へ行くというのは、つまり、神の光との合一でも、また地獄的な領域でもなく、その中間階層へ行くということである。実は、私たちの大部分は、中間界に行くことになるわけである。もちろん、キリスト教の煉獄というイメージはかなり限定されてはいるが。
というわけで、キリスト教的な限界はあるが、大枠では、死後に起こることをある程度反映しているのではないか、と推測できるのだ。

「ゲロンティウスの夢」はたしかに傑作である(聴くのは疲れるが)。クライマックスの「神の光」の一撃はかなり衝撃的だ。まあ、神学的に言えば、そういう光は神そのものを見たのではなく、神に発出するエネルギーのようなものであろうが、そういう細かいことはいいだろう。最後の曲も浄化された美の世界である。ボールト指揮の録音はかなり前のものだが、最近のリマスター技術というのはたいしたもので、合唱も驚くほどクリアである。ペンギン・ガイドで「ロゼッタ」をもらっているだけある見事な演奏である。そのほか、ヒコックス、バルビローリ、ヒルなどの演奏が評判いいようである。ヒルのナクソス盤をあげておく。

B0000014APElgar: The Dream of Gerontius
Edward Elgar David Hill Waynflete Singers


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ヨーロッパではずっとこうした宗教曲、つまり霊性をまともにとりあげた音楽作品が作られ続けている。それは最近になってもタヴナー、ペルトなどがいるわけで、神とか魂についてまともに向き合うという文化伝統は決して死んではいない。逆に言えばニーチェの「神は死んだ」というニヒリズムの宣言は、それだけ深刻なのであり、神がいないというのは実に大変なことなのである。それをどこかの島国のインテリなどは、神のことなど一度も考えたことがないくせに、ポストモダンがどうのこうのと表層ばかり追いかけるというのは、その腰の軽さにいささかあきれてしまう。特に最近思想哲学関連の新書などが出るが本当に内容が軽い。神がいなくても平気だというのはどういう感性なのか、私には理解できない。逆説的だが、そういう人にニーチェがわかるはずがないと私は思う。もちろん神と言ってもキリスト教的イメージの神である必要はない。問題は、「神について考えるというのはいったいどういうことであるのか」を理論的だけではなく「感性的」に理解できる資質ということである。

私は音楽からスピリチュアルな感覚を感じ取ることは十分に可能であると思うが、宗教曲というジャンルの中で、特に私が傑作だと思うのは次のようなものである。

モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」(時空間を超越する感覚あり)
J・S・バッハ「ミサ曲ロ短調」(受難曲よりこちらのほうがよい)
ヘンデル「メサイア」(私は、このリストの中でもベストだと思います)
モーツァルト「レクイエム」(特に浄めに効く。9.11のあともこれが演奏された)
メンデルスゾーン「エリヤ」(知られていないが、ものすごい作品である)
エルガー「ゲロンティウスの夢」(というわけで、ランク入りである)

べつに当たり前のリストである。このほかにも、宗教曲ではないがハイドンの「天地創造」も神への賛歌であり、すばらしくスピリチュアルな曲である。私がここでスピリチュアルというのはべつにむずかしいことではなく、単純に、高いエネルギーが流れ込んでくるという意味である。私は神というものをエネルギー的に理解しているのである。そして、「高いエネルギーを感じるというのはどういうことなのか」が少しずつわかるようになるということが霊的進歩だと思っていて、そのトレーニングとしてこういうエネルギーの高い音楽を聴くことが早道の一つであると考えている。感じるようになったら、それを今度は自分から発出していくような練習もするわけである。

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20世紀のシンフォニー

磯田健一郎『ポスト・マーラーのシンフォニストたち』を入手。これは、20世紀の交響曲の紹介本である。20世紀といっても無調で無定型の不可思議な音塊で音楽と称しているものではなく、わりとふつーに聞ける音楽もあるぞ、というコンセプトである。シベリウス、ヴォーン=ウィリアムス、ショスタコーヴィチになぜかアイヴズが大きく取り上げられていて、それからエルガーやニールセン、等々で伊福部昭、吉松隆まであるという趣向。絶版だが欲しかったのでマーケットプレイスで定価より高く出ていたのを買ってしまった。送料併せて1600円近くである。で、書き方はかなり軽めのタッチで、全部が網羅されているわけではないので、まあ定価の980円なら妥当だろうが、1600円出すにはちと高いかな、という印象もある。

私はショスタコーヴィチもヴォーン=ウィリアムスも少し聞いてみたがどうもちと相性が悪い。ヴォーン=ウィリアムスの「田園交響曲」あたりは悪くないけれども。この本を見て聴いてみようと思ったのはニールセンとスクリャービン、伊福部昭あたりだ。

私は、音楽とは基本的に「存在感覚」であり、また「宇宙感覚」でもあると思っているので、同時代の人間がどのような表現をしているのか、それにはやはり興味があるのだ。

最近はエルガーの一番にハマり気味で毎日聴くが、これには魂の高貴さといったものがある。まさに「成熟」とはこういうことを言うのだ、という感じである。私はハンドリー盤なのだが、ナクソスのディスクも三つ星になっていたので、それをあげておく。

B00005F475エルガー:交響曲第1番
ハースト


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それと、スピリチュアル系な現代曲ということならば、私に思い浮かぶのは黛敏郎の「涅槃交響曲」である。これは傑作である。しかも、なかなか聴きやすい。鐘の音が幾重にも交錯するところなどめくるめく「インドラの網」の世界を連想してしまう。

見渡してみると、メシアンはじめ、最近のタブナー、ペルトなどはキリスト教に回帰しているし、ラウタヴァーラにはどこかフィンランド的な「自然」が見える。結局は「魂の根拠」を自分の中に見出すしかない、ということなのだと思うが、それならば、「涅槃交響曲」のように「内なる東方」へ向き合うことは日本人にとって避けて通れないことだと思う。その意味でこの作品は突出していると思う。岩城宏之のディスクは安いが、なかなかけっこうな演奏である。

B000066ILB黛敏郎:涅槃交響曲
岩城宏之 東京都交響楽団 東京混声合唱団


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エルガーの音楽

きょうはエルガーにはまっていた。エルガーのコレクションを始め、届いたCDの中から、「威風堂々1~5・交響曲第一番」(Elgar: Symphony No,1, Pomp & Circumstance Marches 1-5. London Philharmonic Orchestra, Vernon Handley)。演奏はたいへんすばらしい(いちおう、ペンギンガイドでチェックしてから注文するので、滅多にはずれることはないが)。まず超有名な「威風堂々第一番」、これはやはり何度聴いても感動的。というか、これに感動できるのは精神が健康な証拠ではないかと思う。いいかえればこれがダメだという人はどこか精神に健全でない部分があるのではないか・・などとも思う。しかし第一番以外も高揚感のある曲だ。交響曲第一番の方はさらにすごい。なんというかエルガーの音楽には器の大きさとか、包容力のようなものがある。絶対にネガティブな波動が入らないので、基本的な安心感がある。というわけで私の中では既にドヴォルザークと肩を並べるくらいの存在になってきている(ドヴォルザークもまたきわめて健全な音楽である。ドヴォルザークは毎日六時前に起きて森の中を散歩していたという人で、そういう人でなければ表現できない世界があるのだ。「のだめ」にも出てきた交響曲第五番などその典型である)。

実は、私は音楽を聴くこともまたスピリチュアル・ワークであり得ると思っている。『黎明』というニューエイジ界で評判の高い本にも「音楽は喜びに満ちた悟りへの道となりうる」とか書かれていたようだが・・ 実際この世界はどこまでいってもきわまりはないのである。私が再生装置のことをうるさく言うのもほかでもない、そういう自分の経験からなので、つまり、音楽から得られるスピリチュアルな体験の質というものが、ある程度以上の音質でないと十分に得られないからなのだ。私は十万円くらいの投資で、それまで安いコンポの時に経験していたものの少なくとも十倍以上の何かがそこに現れるのを経験したのである。その程度のお金を惜しんでそれをいつまでも知らないでいるのはあまりにももったいないので、そういうことを言っているわけだ。なおこれはクラシックには特にあてはまるが、ほかのジャンルでも同様だと思う。

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『椿姫』

また音楽ネタばかりなんだが、ゲオルギューがヴィオレッタを歌った、『椿姫』のDVDはすごかった。およそオペラのDVDは数々あれどこれほどまで完成度が高いものはそう滅多にお目にかからない。この『椿姫』のゲオルギューは、ルックス、声、歌唱、演技とも最高度である。ここまで完全無欠でありうるというのはどういうことだろうか。たいていオペラ歌手というものはなかなかルックスと歌との両立が難しいものであるのに。DVDのジャケット写真にもゲオルギューが映っているがこれは写真写りが悪くてちょっとおばさんぽい。実際の映像ではもっと若々しくて美人です! 『椿姫』ではあのゼフィレッリが監督したオペラ映画で、ストラーサスとドミンゴが出てるのもなかなかなんだが、ストラーサスはすごく美人ではかなげな雰囲気がいいのだけれども、歌唱の点ではあと一歩だった(それにしてもメトロポリタンの『ラ・ボエーム』で見たストラーサスは、『椿姫』の映像と比較してあまりの容色の衰えにガクゼンとしたのだった。特に第三幕でミミが死にそうな場面でアップになるのだが、その顔のアップはもう恐ろしいという部類であり、物質界の美ははかないものであるという真理を再認識させられるものがあった)。こうなれば、ゲオルギューのミミ(ラ・ボエーム)が見たい・・という欲望は今のところはかなえられません(映像ソフトなし)。「トスカ」はあるが、6300円という値段で・・ しかしゲオルギューがスーパースターであるという理由はよくわかった。このDVDでも、終演後のロイヤルオペラハウスは大興奮のるつぼと化しており、ほとんど怒号に近いようなブラヴォーの嵐である。解説によると、指揮者のショルティはリハーサルの段階で「これは大変な公演になる」と確信し、映像化の予定はなかったのに初日の一週間前に急遽BBCにかけあって録画してもらったのだという。それほどに非日常的なまでの公演なのである。ヴィオレッタだけでなくアルフレードもジョルジュもたいへんすばらしかった。

ともあれ、話も別に難しいところはないので、全然オペラなんて見たことない、という人でもこれは楽しめる。むしろここからオペラに入門するのもいいのではなかろうか。(ただし、テレビのスピーカーから音を出したりするような野暮なことはいけません。最低でも、コンポの外部入力につないで音を出すくらいのことはしてほしい。私は、ある人にワーグナーのビデオを貸したら、テレビの音で見たというので、「ちゃんとしたオーディオで音が出せるようになるまでもうソフトは貸しません」と宣言した(^^ゞ)

B000087EM0ヴェルディ:歌劇《椿姫》全曲
ショルティ(サー・ゲオルグ) ヴェルディ ゲオルギュー(アンジェラ)


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「光の天使」など

エルガーのヴァイオリンソナタを聴いた。なんというか、落ち着いた渋いめの音楽だが、私としてはなかなか好きな部類である。エルガーはほとんど知らなかったのでこれからいろいろ聴く楽しみができたということか。五嶋みどりのCDでカップリングされているフランクのソナタもなかなかのものである。これはチョン・キョンフアのも持っているが、五嶋みどりのほうが好きかなあ。

この夏は旅行もいかず、CDやDVD・ビデオなどでマインド・トリップ(というと何か聞こえが悪いが)という感じだった。精神というのは瞬時にどこへでも旅できるというのはたいしたものである。最近何となく変化してきたことは、あんまりこの世的な価値にとらわれなくなってきたというか、たとえば「成功すること」などをほとんど意識することがなくなったということである。自分の本拠が向こうにあるということもわかってきたし、いつかはそこへ帰るということも実感が強まってきた以上、世間にどう見られるかなどということより、この一瞬をどのように充実させるかが問題だという感じになってくるわけだ。まあ、また本を書くのもいいけれども、それは何というか、たとえば「北の国から」で五郎が石の家を少しずつ楽しんで造ったみたいな感じでやっていけばいいことであるという感じか(「北の国から」はこの夏のメインイベントであったのでついその比喩になってしまうが)。

それはそうと最近であった音楽の中でかなりショックだったのは、ラウタヴァーラの交響曲第七番「光の天使」かもしれない。ラウタヴァーラはまだ生きていて70代くらいのフィンランドの作曲家。この「光の天使」で一躍世界的に有名になり、いまはたぶんアルヴォ・ペルトとかジョン・タヴナーと並んで最も売れっ子作曲家であろう。こういう最近の人たちというのは、ひところのゲンダイオンガクとは違って、耳に優しい。ああいう一時期の無調、不協和音のオンパレードみたいなものは、もはや時代遅れに聞こえるからフシギである。鬼面人を驚かすことを目的とするようなある種の現代芸術というものは9.11で決定的に終わってしまった。これからは昔通りに、どれほど魂の奥深くまで到達できるかという「精神性」の勝負になってくる。まったく好ましいことである。そういうことを千住博も『美は時を超える』という本で書いていた。

で、「光の天使」である。もうタイトルからして私好みではないか。そうこれは、ウルトラ・ネオロマン主義というべき作風であり、90年代以降のラウタヴァーラはこの作風でブレイクしたのである。それはつまり人々はこういう世界をこそ求めているのだ、ということだろう。スケルツォの楽章は激しいが、その他の楽章はみなゆっくりとした神秘的な音が流れており、ときおりブラスが咆哮したりするのはブルックナーと似ているとも言えよう。基本的には宇宙的な神秘性という感じのもので、武満徹をブルックナー風にしたとでも言えばいいだろうか。これはかなりお勧めですね。ラウタヴァーラの「ヴァイオリン協奏曲」や「天使と訪れ」はいまひとつよくわからない部分もあったが。ともあれ私はあと数枚はラウタヴァーラを買うつもりである。「光の天使」のCDをあげておく(私が聞いたのは Ondine盤である)。(いちおうアマゾンのリンクがついているが、輸入盤はHMVのほうが安いこともある)

B00000378XRautavaara: Angel of Light
Einojuhani Rautavaara Leif Segerstam Helsinki Philharmonic Orchestra


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B00007FKQHラウタヴァーラ・交響曲第7番
コイヴラ


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「のだめ」人気爆発中・・らしい

エルガーのチェロ協奏曲を聴いてみたらけっこうよかったので、エルガーを少し集めるか、とも考え中。情報源の一つは、山尾敦史著『近代・現代英国音楽入門』なのだが・・ エルガーのバイオリンソナタというのも必聴アイテムとしてあげられている。・・これってよく考えたら「のだめ」で、千秋のおじいさんが愛好していたという曲では・・ 五嶋みどりによるフランクのバイオリンソナタとのカップリングをアマゾンで検索する。で、アマゾンでは「これを買った人は、こんなのも買ってます」というのが出ることはご承知だろうが、それが、

モーツァルトのオーボエ協奏曲
モーツァルト・二台のピアノのためのソナタニ長調
ベートーヴェンのバイオリンソナタ「春」
ストラヴィンスキー・「ペトルーシュカ」からの三楽章

・・などが並び、「えっ、これ全部のだめに出てくる曲じゃ・・」というのはあまりに明白。「春」は別として、あとはかなりマイナーな曲といわねばならない。これはある程度クラシックを聴いてる人が、「のだめ」の中に出てくる曲でコレクションにないものがあるのに気づき、それを買おうとしている行動ではないかと思われ。しかし私はもちろんのだめの影響でエルガーを買うのではありません! もっとも、ホリガーによるオーボエ協奏曲も買おうとしていることは事実だが(笑)、それはモーツァルトの管楽器系協奏曲ではオーボエとファゴットだけがないからである(もっともオーボエ協奏曲はフルート協奏曲の編曲版であるらしい)。それにしても「のだめ」人気がいかにすごいかを実感した一瞬であった、というお話でした。

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