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日本の神様カード

オラクルカードもドリーンのとかいろいろあるが、なんと『日本の神様カード』が発売! これ、買ってみたのだが、けっこういい。デザインもメッセージも。

ただ、どうしてこの神様はないのか~ というところも、あるにはある。基本的に古事記に基づいているので、それに入らない神様は出てこない。

しかし、かなりのおすすめではなかろうか? けっこう売れているらしい。

4903262294 日本の神様カード
Denali 大野百合子
ヴィジョナリー・カンパニー 2008-03-17

どういう神様が入っているのか、アマゾンの「なか見検索」で知ることができる。

私はタロットをやるが、ある人のリーディングに「タロットのエネルギーがありますね」と言われたことがある。

なるほど、カードにも固有のエネルギーがある。それが我がものとしなければ、使いこなすということにはならない。それはたぶん易やルーンなどにもいえるのだろう。古代的な思考法になるが、これらにはみなある種の「スピリット」があり、つまり、固有のエネルギーがあり、それと共鳴するようなエネルギー構造が自分に作られないと、それを通して「聖なるガイダンス」が流れるようにはならないのだろう。つまり、こういうオラクルグッズは、それとの「アチューンメント」が重要になる。それはクリスタルでも同じことだろう。

私がタロットを見るときも、本に書いてある意味などはあまり気にしなくなっている。たしかに、そのカードにはどういうエネルギーがあるのかを「肌で知っている」という感じになると、そういう非言語的メッセージを人間語に翻訳するという感じなので、言ってみればこれも一つのチャネリングみたいなものか、という気がすることもある。

というわけで、「日本の神様カード」も、チューニングするならば、かなりガイダンスを得やすいのではないかな、と思えた。日本神界に親しむグッズとしても優れている。

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日常より

いかがお過ごしですか? 私は、原稿書きまくりの日々・・そうでもないか? 月末までにあがるのか、ちょっと微妙・・ 気合いを入れて、縦書きで入力している。一太郎で、プロフェッショナル画面にし、フォントを「HGS明朝B」15ポイントに設定すると、すごく見やすくてきれいな入力環境になる。お試しあれ・・といっても、だれも試さないでしょうねぇ。

パソコンに脇に石を置いてエネルギーを補充しているが、どうも、白っぽい石ばかり多いことに気づく。もっと濃い色のカラーストーン、ラピスラズリやスギライトも置かないとね~ これも必要経費になるのだろうか?

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打ち上げ、開始でございます♪

すみません、このタイトルは、地元の人にしかわからないネタです(笑)

きのうは変な夢を見た。
私は、身体から抜け出ていった。それが猛烈なスピードで発射され、前方には巨大な「曼陀羅」のような聖なる空間がある。私は猛スピードでそれに吸い寄せられ、ずぼっとそれを突き抜けた。その内部の空間を感じたところで夢から覚めた。

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自分への制限を解放する

最近、実感として感じることは、「自分の本来の力には限界がない」ということだ。ただ、それに制限を課しているという「意識設定」によって、限界があるように見えているだけなのである。これは、理論としては前から言われていることであるが、本当にそうだな、と思えるのは、実際にそういう制限をいくつか解放していって、解放されるとはどういうことかという実感を積み重ねることによってわかってくることである。

ドリーン・バーチュー『エンジェル・ガイダンス』の分類でいけば、私は「クレアコグニザンス」が優位である。最近は、「ハートチャクラの部分に、浮上してきているものがある」とか「胸から肩にかけて、緊張しやすいエネルギーがある」などということを言ってしまうことが増えているが、なぜ、そういうことがわかるのか、自分では説明できないことが多い。ただ、なんとなくそういう直観が浮かぶので、それを信頼することを学んで、その通りに言ってみるだけである。

さらに、最近できるようになったことがあるが、それを書くと、さすがにあまりにぶっ飛びになるだろうから、ここはセーブしておくことにしよう(笑)

本当に重要なことは・・
これまでの地球人の常識には絶対に収まりきれない、地球外に存在する「リアルなエネルギー」に実際に接触して、徹底的に、これまでの自分を「シェイク」させることだ。その破壊と浄化をくぐり抜けなければ、何も見えることはない。これが、私の学んだことである。

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アセンションプリーズ2

アセンションプリーズ アセンションプリーズ~♪

やってますか? 右手をくるくるっと斜めに上げながら、ですよ(笑)

さて、私もようやく夏休みに入った。

そこで、しばらく、もう一段階自分を「解放」することにする。
どうなりますかお楽しみ~ イルカくん大笑いですよ・・

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アセンションプリーズ

最近、越智啓子センセの講演会に行ってきた人の話を聞いたのだが、お約束の「カニ踊り」のほか、うけたのが「アセンションプリーズ」だという。

これは、右手をくるくるっと右斜め上方へ向けて螺旋状に回転しつつ上昇させ、「アセンションプリーズ」と言う、というもの。

これは楽しい(^^) やってみるとわかるが、精神が解放されます。カニ踊りもそうだが、「こまかいことはどうでもいいじゃん!」てな明るい気分になってくる。これがまさに越智センセの世界であろうか。

いまのスピリチュアルには絶対にこういう「軽さ」が必要なのである。というのも「重いスピリチュアル」はやはり、物質界の重圧が強くてそれを破るのが大変だった時のスタイルで、世界の波動が変わっている現在、むしろ軽さが求められるようになっているはずなのだ。それは理論とかではなく、直観的に感じていることである。

そういう意味で、過去の哲学はやっぱり過去の哲学。そのままでは通じないところもある。それは痛感しますね。

さて、アセンションプリーズで思い出すのが、「アテンションプリーズ」という昔のドラマである。たぶん越智センセもそれを意識してアセンションプリーズを作ったのでは? ここでいう「アテンションプリーズ」は最近の、上戸彩によるリメイク版のことではなく、紀比呂子主演の昭和40年代のドラマのことである。

私はこのドラマの主題歌がものすごく好きであった。で、アセンションプリーズも、この歌のメロディーをつけて言うのがよろしいのではないかと思う。

歌詞がうろ覚えだったので、YouTubeで探したらありました。

http://jp.youtube.com/watch?v=vXKTpQfyx7M

関連動画で紀比呂子が見られるバージョンもある。

しかしこの、JALの動画もなかなか・・

というのはそもそも、飛行機というものが発明されたのは、単に、遠い場所へ早く着きたいという欲求ばかりによるものでは、ないからだ。「飛びたい」という欲求には、もっと魂の本質的なものがある。この動画は、なかなか、そういう感覚を感じさせるものがある。

「私は飛ぶ、私は飛ぶ、飛ぶの~♪」

とか私が歌っていると、「どこへ飛ぶんですか?」などと、いささか違う意味に誤解されてしまう可能性もないではないけど、ともあれ、

日に光り ひらける波を
いま わたしは 見る~
アセンションプリーズ アセンションプリーズ・・

■追記 7/29

紀比呂子、范文雀らの、オリジナル版「アテンションプリーズ」のDVDボックス。
YouTubeで、紀比呂子をひさびさに見たが、すごい、かわいいですね~
放送当時は、あまり色気づいていなかったので(笑) そういうことには、あまり気がつかなかった。

これは、激しく見たいのだが、レンタルでは、出ていないようだ。

誰か買いますかね?

B000EBDDL8 ATTENTION PLEASE アテンション プリーズ
紀比呂子
キングレコード 2006-05-10

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銀河意識の目覚めの時にあたり・・

銀河意識との接続を試みる今日このごろである(^^; 

本は書けるのか?・・と思わないでもないが、まず意識の設定が第一。

「今度の本にはどういう意味があるのでしょうか?」という問いに対しては、

銀河意識が大規模に目覚めつつあるというこの大変換の時において、これまでの地球人類(現代人が認知している限りでの)が創造した哲学・思想というものの遺産を総括し、どういうことが達成されていて、またどこに限界があったのかを示し、流れては消えるどうでもいいものを整理し、本質的なものだけを浮かび上がらせる・・つまり、哲学というものをきわめてシンプルな形にしていくということだ。銀河意識がよりオープンとなっていくための、一つの作業ということである。

このようなメッセージが入っております。

それではまた

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精細な意識

精細な意識波動をキャッチし、そこにフォーカスすることをテーマとして最近の日々を送る。ますます「受信モード」? 今回の新作には「銀河意識の目覚め」という意識波動を広めるという意味がある、とのメッセージを受けている。例の宮澤賢治のことば、「我らに必要なものは銀河の透明なる意志である」というのも、一つのキーワードではある。そのエネルギーを表現するにはまた媒体自体も変容が要求されている。

そのサポートとしてまたエッセンスの服用を考えているのであるが。さしあたり、ポマンダー、クイントエッセンスは切らさないように一日数回の使用である。

また、数年中に、物理的にも動くことになる、とのメッセージも来ているのであるが・・(来ているというのはどうやって受け取っているのか、という疑問には、この場では答えないことにしておく(^^;  )

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銀河意識を養う

このところますます、「準備」という感覚になってきたかも・・ ここのところ、過去の哲学についての勉強をやめにして、ボディワークも増やし、感覚を中心にしている。聴く音楽はブルックナーとヒーリングミュージックばかりである。すると、少しずつ、「銀河意識」とでもいうべきものが、徐々に鋭敏になっていくのを感じることができる。新聞やテレビなどマスメディアもできるだけふれないようにしなくては、なかなかこれを維持できない。

そのようなエネルギーを「受信」し、人間語に翻訳するということを、本質的にはやるわけであって、その意味では限りなく「詩人」に近いのである。

これまでのものはたしかに偉大ではあるが、あくまで地球という限界で語られていたものだし、地球鎖国時代という条件のもとで存在したものだった。少なくとも表現法は銀河時代的に新しいものとならねばならない。

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銀河文明の夜明け?

最近、いちばん考えるのは「銀河文明への目覚め」ということである。

地球的視野を超えるということである。

これまでの地球人の文化は、少なくとも現代人に知られている限り、まだ銀河に目覚めていない段階のものである。その中でもある直観が保存されてはいるが。

既存のものをつぎあわせるだけでは、銀河文明にふさわしい思想表現はできない。では、どうするかということになるが、そのためにイルカくんとの交信を活発にする日々である(笑)

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イルカくん再始動?

さてひさびさでござる・・ 少し休んでいたが、実はこのあいだ、波動がチェンジしてきた。またまた、イルカくんが動き出したのである。春からしばらくのあいだ、研究モードでいろいろ調べていたが、それも一段落。実際に書いていくにあたっては、また違った意識モードが必要となってくるのだ。今回、イルカくんは、「自分のもっている力を恐れず、信頼するように」とのメッセージを発信してきている。

実際、過去の思想をつなぎあわせるだけでは、もはやこれからは不可能だということもはっきりしている。そこにはどうしても、ジャンプがある。21世紀は地球で未曾有の時代なのだから仕方がない。

視線は銀河の彼方へ・・である(坂本さんみたいだが)。もはや「銀河意識」とはどのようなものなのか、それを感じて表現することが求められる段階に来ている。そのためには、過去の思想に「根拠」を求める発想も、ひとまずは手放さなければならない。根拠も証明もない。そこに生まれるのはヴィジョンである。こういう思い切りが必要だ・・というのが、イルカくんから到来している交信である。というわけで、今月中には大規模な意識シフトを完了させたいところである。

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「ねじまき鳥クロニクル」の穴のことなど

今度の本でメタフィジックの総まとめをして、それから神話やファンタジーの分野に広げていく、という計画をしているのだが(これは再来年から「文学」の講義を担当するのでその準備ということも兼ねているのだが)、総まとめが終わらないうちに、そちらの興味も平行してしまっている。つまり、どうしてもそちらにも手を出してしまう。現実逃避か?(笑)

『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』という本を借りてくる。これは、その題名の通りなのだが・・ 対談ということもあるが、期待の割にはツッコミ不足かな。期待というのは、「物語るということのディープさ」についての洞察ということだが、それについてはほんのちょっとで終わった。

この対談は「ねじ巻き鳥クロニクル」が書かれている頃に行われたらしい。この本のストーリーはかなり忘れたが、「海辺のカフカ」と並んで私のもっとも愛好する作品である。なんといっても「古井戸の穴の底」に降りてそこで過ごす、というイメージは鮮烈であった。それがどうしてノモンハン事件とつながっていたのか、まったく思い出せないが、とにかく「穴の底」が強烈で、それはつまり、「これは私もぜひやってみたい」と思わずにはいられなかったということである。

これを読んだときは私も興奮して、周りの人に「井戸の底に入って何日も過ごすんだよ? やりたいと思わない?」などとさかんに言っていたが、その反応は「やりたければやれば?」という冷たいものだったので大いにがっかりした記憶がある。世の中には、そういうイメージにもほとんど何も感じない人もいるのか、と思ったわけで、そういう私との感性の相異がはっきりした人とはさっさと疎遠にするがよろしかろう、などと考えたりした(笑)

こういう文学的イメージは、人間の心が作ったものではあるが、決して単なる「構築物」なのではない。ある意味でこれは「自然」でもあるのだ。

なぜそこにそういうものがあるのか、それは簡単な説明を拒否しており、そういうものが存在すること自体が不可思議ではあるが、それではそれはなぜかそこに存在し、その存在と私とは、なぜかあるエネルギー的な共振をしているということ。そういう圧倒的な「事実」がそこに成立しているのが、ここで自然と呼ばれるものである。

そこに花があったり、雲が流れていたりするという事実があり、そのことだけからも、私はそこからエネルギーが流入してくるのを感じるのだ。そのように、自然からエネルギーが流れ込んでくる「回路」があるというのが大事なことだと思うのだが、世の中にはそういう回路を発達させていない人が少なからず存在する。「解釈された世界」に頼ろうとしすぎる。

本当の「イメージ」とは、なぜそこにそんなものが存在するのか、それは謎であり、それは花が存在し、雲が存在するのと同様の神秘を含んでいることになる。そういう「自然」としての性質をそなえたものこそ本物というものだ。

というわけで、その「穴」というイメージは強烈であったが、この対談本では、そういう「物語ることにより発生してくるディープさ」についての追求は物足りないものであった。

ただここで知ったことは、村上春樹は、書き始めるときにその結末を決めていないということだ。つまり、どのように終わるかわからないまま書いていくので、作者自身、どのように終わるのか先がわからないということである。

たしかに書き始めると、その書かれたものはそれ自身のエネルギーを持ち始め、あたかも独自の意志を持つかのように動き始めるというのは経験するところで、そのように作者の意図を超える世界へ突き進んでいかないと、傑作というものにはならない。

私も前著で、その終末に近くなったときに、始めるときには見えていなかった「ある精神空間」が出現してきたことを感知した。それが、あとがきで、ある空間に到達することがこの本の趣旨だ、と書いたことの意味である。

メタフィジックもまた、言語表現であり、見えない神秘の領域に関わっていくものである以上、そのような「魂レベルの感覚」において判断されてもよいのではなかろうか。メタフィジックをどこまでも論理的に構成しなければならない、というのは必然なことではなく、ある種の美学的立場にすぎないのではなかろうか。・・というと、いつも「霊性における反知性主義」を批判している私としては矛盾ともとられようが、やはり「東アジア人」たる血脈も争えないものがあるのかもしれない。

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本棚サピエンス登場

週に一日くらいは頭を休めないとやっていられない。

さて、めずらしく部屋の片付けだが、最近本棚から本があふれており、そこらに本が積まれているのが気になっていた。

そこで、縦型に本を収納するといういっぷう変わった「サピエンス」なるイタリア製のブックシェルフを置くことにした。これが意外といける。山積みの本が全部収まってしまったのですっきりである。しかもそれほど不安定な感じもない。

ふつうの本棚を増やせばいいようなものだが、その置き場所というのも問題であるし、特にこれは、「とりあえず気になる本を手近に積んでおく」という習慣のある人がいることを察知して、その習慣を延長したままうまく収納でき、美観的にも満足を与える、ということで、なかなかいってるコンセプトのものではないかと思う。

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スピに親和的な政治とは

後期高齢者健康保険の問題が騒がれているが、うちも、これまで扶養家族として保険料がいらなかった母親の保険料がいきなり請求されることになった。このことで福田さんがバッシングされているのは気の毒なことだが、これはみな小泉政治の負の遺産である。

小泉さんはたしかに新国立劇場や新美術館を作ったかもしれないが、全体としては「日本の文化をぶっ壊す」政治であったことがいまや明らかである。つまり文化のすべての面にわたって、経済原理至上主義、要するに「金にならないものは切り捨てる」という風潮が蔓延してしまったのである。

「お金になることが偉いことである」という価値観の象徴が、あの、ライブドアのお兄さんとか、村上ファンドのギョロ目男である。そして、彼らの凋落によって、初めて、国民も幻想から覚めてきたのである。

小泉政治というのは、本質的に「金にならないものをリストラする」という政策であり、それを推し進めれば、弱者が切り捨てられ、金にならない文化が衰退するものだということが、小泉退陣後一年もしてようやく理解されてきたというのは、遅すぎた。国民というのは、政治家に対して、いいたい放題、すごく偉そうなものの言い方をする人が多いが、その実、どの政党の政策はどういうものか、など、ネットをちょい調べればわかるようなことも全然勉強しておらず、ほとんど頭で考えることなくイメージに踊らされているものである。小泉さんは、国民は投票するときに決して頭を使っておらず、イメージだけで決めているということを誰よりもよく知っており、それを最大限に利用するという点ではまったく最大級の天才政治家であったのだ。

政治家の責任ばかりにせず、日本がいまのようになったのは、郵政民営化などというスローガンに踊らされて与党を大勝させてしまった自分たちにある、という自分の責任を自覚しないといけない。しかし国民というのは、自分だけは悪くない、政治家のせいだと考えるものである。

いっさいの「無駄」を敵視する経済合理性の大波が、ここ数年で、急速に大学という世界をものみこんできている。

もう、理念も何もない。生き残るためには、なりふりかまわずだ。文化にとって、今何が必要か、ではなく、ぶっちゃけ言ってどうすれば学生が多く集まるか、しか考えていない。そういう経営をするところも多くなってきている。

いやな世の中になった。これならいっそ、世界をいったん終末にさせて、またリセットしてやり直した方がいいくらいなものだ(笑)

小泉政治は、日本をぶっ壊した。それを支持していた自分たちは、考えが足りなかった。このようなはっきりした反省に立っていかねばならない。

話を「スピ」に関連させるならば、スピ自体は政治でどういうできるものではない。ただ、スピに親和的な政策と、スピに逆行し、抵抗となる政策というものがある。スピに親和的な政策とは、「高福祉高負担」の、つまり北欧的な政策である。

残念ながら今は、民主党の政策も自民党とそれほど大きく違うものではなく、高福祉高負担の福祉社会をめざすような政党の勢力は、著しく弱い。

国民も覚悟を決めねばならない。高福祉を実現するには、消費税を15%くらいのヨーロッパなみに上げなければどうしようもない。小泉型政治がどういうものかを知って、軌道修正を望むなら、ある程度の負担を感受し、弱者にやさしい社会のために使うことを受け入れねばならない。それが「スピに親和的な政治」なのである。

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激越なるパラトラパさん

きのう見つけたパラトラパさんのブログから、その前のバージョンへのリンクがついていたが、それ見ると、かなりすごいことが書いてある。

すでに私のあだ名は「魔王」で通っている。もはや知らない奴はいない。

2007年は爆裂態勢のスイッチが入っている。昨年途中までの「冬眠した熊」のような私ではない。完全に覚醒した。同時に極めて危険な人間になった。穏やかではない。猛り狂うようなスピリットにあふれている。

・・いや、いきなりコレですよ(^_^;

今の私は非常に毒性が強く、近寄ると危険でさえある。魔性の塊のようになっている。くれぐれも言っておくが、私は「四国の拝み屋宮司」でもある。こちらから先制攻撃を加えることは決してないが、相手の出方(無礼、非礼な言動)によっては激烈な闘争心が前面に出てくるため、十分に注意してほしい。 (2007.1.9)

ひえ~~

いや、たしかに彼には、こういう激しい面が秘められていることは知らないわけではない(知らない人も、これ読めばわかりますね)。

「稲荷行者」かぁ・・ これ以上のコメントは避けておきたい。

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『スピリチュアル哲学入門』情報

執筆予定の『スピリチュアル哲学入門』(今秋発売予定)だが、今回も前作にひきつづいて、対話体でいこうというプランになりつつある。対話体はプラトン以来、多くの思想家が採用してきた表現法であって、私が直接参考にしたのは、シェリングの「クララとの対話」であったのだが、ノヴァーリス『青い花』の第二部もかなりそんな感じなので、そういう雰囲気を意識している。

言語表現に関する私の考え方だと、内容もさることながら、まず「基本的なエネルギーの質」を決定するのが重要なこととなる。トーンを設定するわけだ。

そして、「語り手」のキャラクターと名前をだいたい決めた。これは前作とは異なる。必然的にエネルギー的には少し違うものになってくる感じだ。なんというか、もう少し「宇宙ちっく」になってくるかも(笑)

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いわゆる「スピリチュアル」と思想的問題

ちょっとネットで「スピリチュアル」ということばを検索すると、それはもう実にいろいろに違う意味に使われていることがわかる。中には、「江原さんみたいなもの」という意味で使っている人も少なくないことがわかる。

江原サンにも役割はあるとはいえ、一人のタレント霊能者のイメージで、この由緒あることばの意味が理解されてしまうというのもなんだかである。というより、世の人はともかく、「感覚を超えた非物質的な根源の世界」との関連で存在の意義を問うという、「形而上学」という知のあり方が存在するということをあまりにも知らないのである。そのために、少しでも「向こう」に関わりあるものはみな「オカルト」の類に入れられてしまうという恐ろしいことになるのだ。「スピリチュアルの人」という言い方は、「江原サンみたいなあほなことを信じている人たち」という意味で使われていることもあるらしいことがわかる。

いまだに、オウム真理教の例を持ち出して、あらゆる「神秘主義」や、あるいは唯物論ではない世界観を抱くこと自体を危険視する論調もある。これが、文系の勉強をほとんどしていない脳科学者ふぜいが言うのならまだわかるが、インド哲学の専門家でさえ神秘主義を危険視するのだから驚いてしまう。

こういう人は、根源世界との接触という可能性と意義を否定しているわけだが、それを否定することは、オウムばかりではなく、たとえば空海やゴータマ・ブッダをも否定することである。脳科学のような世俗の学問を少しばかりやったからといって空海やブッダよりも偉くなったつもりになり、そういうのはばかなやつだと軽蔑する権利を得たかのごとく思っているのである。こういう、反神秘主義に立つ駄書の特徴は、オウムだけをとりあげて、その他の伝統的な霊性探求の歴史をまったく無視することにある。つまり、宗教的なるもの全体をバカがやることだという論点に立ってしまうのである。

心理学的に考えると、ムキになって神秘主義を罵倒する必要があると感じるのは、それだけその著者たちが、自分を防衛する必要を感じているということでもあるだろう。本を書くという大いに手間のかかることは、よっぽど強いエネルギーがないとできないのである。基本的にこういう人は、ハートが閉じているというエネルギー構成を持っており、それを防衛するためにいろいろなマッチョ的行動に出る。

だが結局、こういう人たちは、オウムがなぜ間違ってしまったのか、正確に、宗教的、霊的な観点から理解することができないのである。「修行」なんぞをしようとするから駄目なのだ、という論点になってしまうが、つまりは、そういう霊的探求にも正しいやり方と、間違ったやりかたがあって、オウムはその間違った道なのだということがわからない。何が正しいやり方なのかという知識がなく、見分けがつかないから、そういうことがら全体を否定しないと自分が守れないと感じてしまうのである。むしろ、オウムに行ってしまった人たちは、何が正しい道で、何が間違っているのかということをわかっていなかった、つまりそういう霊的ことがらに関する知識と判断力があまりにも不足していたから、「偽グル」を見分けることができなかったのである。あれが偽物であることなど、瞬間的にわからなければいけないものなのだが。したがって、オウム的なるものを予防するためには、むしろ、「正しい霊的知識」が広まることが必要なのであり、神秘主義的なるもの全体を頭から否定することとは、まったく反対である。そういう否定は、かえってまた、過激なアンダーグラウンド的カルトを生む、不寛容な精神的雰囲気をかもし出してしまうものである。

とはいえ、今は大家として知られている某宗教学者でさえ、当初は、あれが偽グルであることを見抜けなかったのだから、恐いものである。私は、彼の著書に出てくる神秘主義観にも、どこか危険を感じていた。それはあまりに、倫理を軽視して、ただ「大いなる快楽」ばかりを強調するもののように思われたのであった(これは、彼の思想には「霊的ヒエラルキー」というイデーが入っていなかったため、次元の高低を述べる基盤を持たないことに起因している)。

そして、「スピリチュアルの人たち」などという言い方をしている今の人びともまた、人類の積み上げてきた霊的文化の遺産について、ほとんどまったく知識を持っていないわけである。少しでも知識があれば、「スピリチュアル」をそんな意味に使うはずがないだろう。とにかく、あまりにも、その「伝統」が、知られていなさすぎるのである。

たとえば、禅の文化は伝統として尊敬はされているが、なぜ禅はよくて、オウムは駄目だったのか、それを明確に説明できる人などどのくらいいるものであろうか? 

とにかく、思想的教養の低下は著しいもので、ものごとを判断する基準となる、基礎的な思想史的知識のない人の、思いつき発言がまかり通っている。プロティノスやシャンカラを一行も読んだことのない自然科学者などが、人間の意識について発言できる資格があるはずないのだが、それを許してしまう世間のいいかげんさというのもまたあるのである。

この状況は、前にも触れたが、欧米ではある程度の勢力を持っている「伝統主義」の思想が、日本ではほとんど知られていないということからも来ている。ゲノンの訳書が出たことがあるがすでに絶版であり、今は、『忘れられた真理』があるだけである。日本には神学の伝統がないからしかたないのだが、知識人も、霊的事象を知的に扱うという分野があるということを受け入れられない人が多いのである。たとえば、空海の思想に立脚して、現代思想を批判し、霊的哲学を主唱する、なんて思想家が出ても不思議はないはずだが、なかなかそういうのは出ない。(たぶん日本では、伝統主義思想が存在しない空白を、「シュタイナー本」が埋めているのだろうと想像できる。それは現代日本である程度知られているものの中では、最も、「霊的事象についての知的行為」に近似したものであろうからである。私は、彼のハードコアのオカルトにはまったくついていけないが、少なくとも『いかにして超感覚界の認識を獲得するか』を読めば、オウム的なるものに誘惑される危険はほとんどなくなるだろう。・・そうそう、それからウィルバー本もあるが、こちらは少し科学にも色気がある人向けなのですかね。たしかに私のやろうとすることは、ウィルバーに対するオルターナティブを日本に作ろうということも入っている。それはなぜかといえば、簡単に言って、ウィルバー思想は特に霊的ヒエラルキーについて誤った表象を描いていると思うので、そのままで広まってしまうと、実践的にも問題が生じてくる可能性があるからだ。とりあえずウィルバーファンの人は、『忘れられた真理』をよく検討して、比較研究してみていただきたいと思う)

こういう状況に一石を投じるためにも、『スピリチュアル哲学入門』などにより、基本的な思想的知識にもとづいて議論する習慣を作り上げていく必要があるのだ。今度の本は、十進分類147「心霊研究」に分類されてしまわないよう、出版社の方は十分に気をつけていただきたい(笑)

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忙しすぎだが

このところ数日、猛然と読み、猛然と書くという過激な研究モードが続いたが、さすがに体にこたえてきた。少しセーブしなければならない。

イスラムから、ヒンドゥーの世界に入ったが、まだまだ知らないことがたくさんある。いろいろ読んでいると退屈しない。そうするとますます書く方の時間がなくなる。

時間の余裕があれば、大部な哲学史の洋書をゆっくりと読んでいってみたい。ナスル編の『イスラム哲学史』、ジルソンの『中世キリスト教哲学史』や『中世哲学の精神』、ラダクリシュナン『インド哲学史』などだ。時代を超越した、クラシカルな雰囲気がかもし出される時間となるであろう。

6月6日追記

上のリストに、タタキスによる『ビザンチン哲学』を追加する。

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最近の興味

最近の興味としては、ひきつづきイスラム哲学、特にスーフィズムとの関係の強いイブン・アラビーの思想を調べようと思っている。あとは、新プラトン主義・・日本では、新プラトン主義の研究者など20人もいないだろうという状況だが、英語圏ではかなり出ていて、特にイスラム哲学やインド哲学、キリスト教哲学との比較など、興味あるところだ。このあたりをいろいろ読んでいるだけでも数年は楽しめそうであるが・・そんな悠長なことをしている時代か、というのもある。

特に新プラトン主義とインド哲学というのは、私自身の思想傾向がそれに近いわけだから、無関心ではいられない。英語では二冊ほど研究書が出ているようなので、トライしてみるか。だいたいわかったことをより精密にしていくよりも、あまり知らない新しい分野に進出することの方が私の好みである。つまり、研究者向きではないということだ(笑)

また、だいぶヨーロッパやイスラムなどに遊んだので、そろそろインドといくか、と思わないでもない。

読んでいると書く時間がないが・・(笑)

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『スピリチュアル哲学入門』執筆開始

『スピリチュアル哲学入門』の原稿を書き始める。

夏休みに完成させる予定だったが、少し前倒ししようかと思う。なんとなく、「あまり時間がない」という感覚がある。最近のエネルギー的展開が急速であることもあるだろう。この時期にできるだけ世の意識転換を促さないといけない。それはいろいろなところで進行しているが、この本が出るのもささやかながらその一翼を担うということである。できれば2009年までにもう一冊は出したい。もう一冊は何を書くのか今は見当がつかないが、たぶん、今の本で書き残すことがたくさん出てくるので、やや視点を変えつつスピリチュアル哲学を述べることになるだろう。

昔は、あまり「売れる」ことに抵抗がある部分もあり、「知る人ぞ知る」の方が快適だという意識もあったが、そういうのも最近は手放した。ともあれ、意識転換を進めるには、多くの人に読んでもらわねば話にならないからだ。そこで、今度はなんとかたくさん売れてもらいたいわけだ(借りて読んでもいいが)。

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エネルギーの転換か?

しばらくのあいだ、マジメな研究モードだったが、このところから、もうなんだかわからないようないろいろありの世界に突入していて・・ そっちの方面では、おそろしいほど過激?な集中的なプログラムを組んでしまっており、魂レベルではやる気満々であるのだが、はたして大丈夫なのか? 今回は、もちろんレスキューレメディーなど準備を万端整えてのぞんでいるが・・ しかし、今日のワークではまた、神聖な世界への扉が開いており、かなりなエネルギーを受けてしまったので、体がだるくなって夕方から一時間くらい眠らざるを得なかった。こういう日が最近は週に数回あるからね・・

本の方も最近では洋書ばかり見ており、いくら時間があっても消化しきれないくらいあるのだが。しかしまあ『スピリチュアル哲学入門』の原稿は書かねばならないので、それも大丈夫か? という気もするのだが、こちらも精神的なエネルギーだけはかなりあり、問題は肉体面がそれについていけるかということになっている。ともあれこういう仕事はある面でいま求められているところでもある・・という意味は感じているわけなので、これがうまくいけば、その後にたとえば『スピリチュアル神話学入門』『天使学入門』『輪廻転生論入門』などの入門シリーズを連発するなんてことも長期構想として考えないわけではないのだけれども。

私はただ「頭」だけの哲学を否定する立場であるし、「学識」だけで一流になれるほどの勉強をしているわけでもないので、ある程度実体験的なものがあるということをアドバンテージとするほかない。だからワークとの並行は必須となってくるのだ。もっとも、そっち側を具体的にカミングアウトするのはまだかなり先になるだろうと思う。

これは何度も書いてはいるが、私の理想としては、聖地のような場所に、スピリチュアルな学びを総合的にできるようなコースができて、そこで定期的に教えつつ、ワークとヒーリングをつづけていく、なんて生活ができればなあ、と思っている。今はまだまだ、生活のためにそれ以外のことをやる時間もかなりあるのでね。いちおうどこかで宣言しておかないと実現もしないだろうからここで書いておくということである。可能性としてはキリスト教系・仏教系などのところが動いていくことは今後ありうると思う。前著のように「知る人ぞ知る」の世界に満足するのではなく、もう少し「流れを作る」ということも視野に入れていきたい。これも宣言という意味でここに書いているわけである。

敏感な人は、この文章を読んだだけで、私のエネルギーが少し転換したことを感じ取れたのではないかと思う(笑)

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このところは

いちおう私としては、哲学というものを、その本来のあり方としての「叡知の伝統」という形に戻していくための仕事、というものが、「こちら」に来た理由の一つであろう、とは思っている。しかしまた私には別の面もあって、それはここではほとんど書いてはいないが、プラクティショナーというか、実践家としての面である(ここで書いているのは、だれがやっても危険がないような初心者向きの情報だけに限定しているので、私のことを初心者レベルだと思う人がいるようだが)。このところ、そっちの方面にかなりエネルギーを注がなければならない状況があって、あんまり、こちらのブログには熱心になれない事情がある。今日なんかも、部屋でホワイトセージを焚きすぎて、部屋に入るなり背骨あたりがびりびりするようなことになってしまったが(笑) どうなることか。

べつに、哲学などの領域で偉大な業績を残そう、などという発想はあまりないので、やることだけやって、次へ進もうという感じで生きているのである(^_^;

なんとなく、いろいろとエネルギーが浮上しているのであるが、最近は、シューマンの交響曲第2番第3楽章、そしてブルックナー交響曲第6番第2楽章という音楽に共鳴している。何かモヤモヤしたものがうまく表現されて昇華されていく感覚がある。

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新著は『スピリチュアル哲学入門(仮題)』??

今年は新著を一冊出す、と宣言してしまっているが、少しずつ、具体化してきた。

普遍神学、つまり現代における霊性思想、形而上学をめざすという立場にかわりはない。しかし、今度の著では特に、前著からの数年間に勉強してきた、西洋的霊性へのふり返りのことが書かれることになるだろう。新プラトン主義・キリスト教思想(東方・西方含めて)・イスラム哲学(これからもっと勉強が必要だが)を通観して、そこで到達した霊的世界観のヴィジョンをまとめてみる。そこから、ある程度、ロシアの思想家みたいな地球神化のヴィジョンが出てくることが期待される。しかし、それだけでは足りないものとして、東洋的霊性から、特に輪廻転生のイデーが統合される。こんな感じだろうか。

もちろん、東洋的霊性を掘り下げることも、深い意味がありそうだが、一冊ではそこまで手広くできないのが実際であろうから、東洋の問題は、ある程度、さらにその次になるのかもしれない。

というより、西洋的霊性をよく見ることにより、東洋にもあるはずだが、これまでよく見えていなかったものも見えそうである。具体的にいえば、たとえば、宇宙から注がれる神的な愛(アガペー)によって神化の道を歩むといったヴィジョンである。これは、阿弥陀や観音など、東洋にもあるはずのものだが、これまでの東洋的霊性論はあまりに自力主義的な「無」の立場に偏りすぎて、アガペーの道が軽視されてきた傾向も見受けられる(それが京都学派的バイアスだと私は言うのであるが)。したがって、西洋的霊性にフォーカスするということは、「神と向き合うこと」の意味を考えることであり、アガペーの道(インドでいえばバクティの道となるが)を前面に押し出すという思想となる。日本の知識人には受けやすい「無」とか、「生命」とかいうものではなく、人を神化へと導く「神」が存在することを訴求するのが、今回の著の主要テーマとなるのである。

タイトルは『スピリチュアル哲学入門』などではどうか、というのが出版社の意見である。これまでここで述べたとおり、私は「スピリチュアル」ということばは、やや軽すぎて好きではなく、なるべく「霊性」という言葉を使いたいのであるが、本が売れるにあたってはかなりな程度タイトルで決まる部分もあるので、「スピリチュアル」という言葉で霊性の領域にひかれている層に訴えるには、ある程度妥協も必要であろう。もともと「スピリチュアル」という言葉は「スピリット」から来ているわけだし、これは西洋的にいえば「神」に発するものである。(前著のタイトルは、かっこよかったのだが、反面、どういう内容の本なのか、わからない人にはまったくわからないという問題があったのだった)

奇妙なことに、検索する限り、今の日本に「スピリチュアル」と「哲学」が同時にタイトルに含まれている本は存在しない。

多くの人は「スピリチュアル」の領域を仮に認めたとしても、それは「非知」、つまり思惟の領域外にあるものと見なしている。これを私は「霊性における反知性主義」と呼んでいる。それが日本の思想の根深いパターンでもある。禅の影響は思いの外に強い。禅を認めないわけではないが、日本で霊性を語るとすぐに禅のパターンになってしまう、という偏向を是正するには、西洋的霊性思想を対置するしかないのだ。そうしないといつまでも形而上学が根づかない。

西洋的思想伝統では、霊的知恵と知識とが合一した形が追求されてきた。東洋にだって、それはないわけではない。天台・華厳や、空海の真言密教もそういうものだろう。

新著は、そういうねらいを持っているのであるが、しかしたぶん、このブログ以上にわかりやすくしなければならないだろう。

たとえば、研究室にタロットをしてもらいに来るような女の子にもすすめられるような本――といえば、あまりに野心的すぎるであろうか(笑)

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やや愚癡モードだが

しかしあらためて思うが、タダのブログは読んでも、お金を出して本を買って、体系的に知ろうというような人は少ないんですねえ・・ 『忘れられた真理』は、残り少ない在庫分がなくなったら、再版しないことになりそう。買うなら今ですよ・・(^^;  永遠主義思想は、なかなか今の日本では受け入れられない・・どうも悩みですね。ま、次に出す本がブレイクすれば、またわからんけどね。

やっぱり、「神について考えるということが知的伝統にない」というのが、明治以来の日本の決定的な問題だと思うのだが・・ 稲垣先生の『問題としての神』を、みんなで読んでほしいものだ。

大森正樹先生や谷隆一郎先生でさえ、「文部科学省研究成果公開促進助成金」がなければ本を出せないわけだから、私如きが言ってもしかたないですかね(笑)

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アルテのHP

右コラムにある『魂のロゴス』や『忘れられた真理』を刊行しているアルテという出版社だが、いまさらながら、HPができたことを知ったので、リンクしておく。

http://www2.plala.or.jp/arte-pub/

というのも、アマゾンでは上記二著は取り寄せになってることが多い。その他のオンライン書店(楽天セブンアンドワイビーケーワンブックサービスなど)をかたっぱしから見ていけば、たいていどこかに在庫があるものだが、アマゾンだけ見てあきらめる人もいるだろう。アルテHPに行けばそこから直接注文もできるので、その利用も可能だ(送料無料)。

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人体科学会の雑誌に坂本さん登場

所属している、人体科学会というところが出している小冊子みたいなものが届いた。これは、学会誌とは別に出しているもので、広報誌みたいな感じだろうか。

それを見て驚いた。なんと、坂本政道さん、越智啓子さんが書いている。

内容は、他の本で書いているのと、同じようなものである。

その他に、青山圭秀、永沢哲なんてのも・・

こういうのが出ているということは、人体科学会としては、坂本さん越智さんなどを決して「いかがわしい」とは思わず、少なくとも、重要なる問題提起を含むものとして受け止めていることを意味しているだろう。

たしかにアカデミズムとしては少数派であることは間違いないのだが、学界というものもここまで来ているということは、ここを読む人たちも知っておいてもらいたいものである。

まあ、それくらいでなきゃ、この私が入会したりしているわけはないですな(笑)

ただ、永沢哲というのは、どうも私はエネルギー的に異質な感じがするかな。チベットで密教を修行した人だが、今は、京都の大学に勤めているらしい。

彼の『野生の哲学』は、野口整体を論じたものとして評価が高いようだが、アマゾンレビューで「中沢新一の影響が強すぎるのでは?」というのを書いたのは私である。

永沢のタントラ論は、どうも、中沢新一が『チベットのモーツァルト』時代に書いていたようなタントラ論とかなり似ているところがあり、そのノリを、野口論にも応用したような感じなのだ。

これを極端にいえば、「悟りとはつまり宇宙とのセックスでしょ」という悟り観に立つものだろう。「気持ちよさ」の極致としてそれを語っているわけだ。

ここがどうも、吉福伸逸流トランスパーソナルがはやった時代の感覚というか・・この現在ではすでに異質な感じがする。

その気持ちよさというのを、宇宙から注がれる愛や、人間がそこに位置づけられている「宇宙的な善への志向性」と一緒に語らない傾向がある。つまり、倫理性が後退して、快楽が前面に出てくるような印象を与えてしまうのだ。

チベット密教では、タントラ修行に入る前に、厳しい「前行」があって、徹底した戒律と懺悔の期間が必要とされる。それを前提とせずに、その気持ちよさだけにフォーカスしていくことの危うさを、今回も感じてしまった。

それはともあれ、時代は急速に変わっているということで、余計な自己規制はもはや無用になっているのである。

人体科学会の学会誌の次号に、普遍神学の論文が載ることになっている。

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タッチの差で・・

ということで、『神学的言語の研究』を借りてきてるのだが、再三ここで書いたように、熟読すべき本なので、手元に置こうと、古本屋検索サイトへ行くと・・ 数日前にはたしかに一件、あったはずのものが、今日にはなくなっている。

まさか、ここを読んで、すぐに古本サイトへ手を回して買ったという人はいないでしょうね? それはさすがに、このブログの影響力を過大評価しすぎ? とも思わないではないが、実際に、ここで紹介すると最高で十数冊アマゾンで売れたことはあるので、ありえないことではない。実は、今回のようなパターンはこれで三度目くらい。アマゾンのマケプレでも、よし買おう!と思って行ってみると、数日前にはあったのが売れていたり。新刊だって、在庫ありだったのが「3~5週間以内で発送」に変わってることはしょっちゅうなのだ。

最近はもう、これに懲りて、先にまずしっかり在庫を確保してから、こちらのブログで褒める、というようにしていたが、今回は相当にマニアックな学術書なので、まさかそこまではと油断していたんですね(笑)

幸いに、この『神学的言語の研究』は、まだ比較的新しく、新刊で買うことができるからいいようなものの、品切れ本だったら、かなりの被害を被るところであった(実は、そのせいで、まだここに書いてない本で、一冊、書く前に手配したのがあるのだ)。今回は1500円くらいの損ですんだが、気をつけねば・・ って、もちろん、本当は何の関係もないことで、ただの妄想なのかもしれませんがね、今回が初めてではないので、ちょっとショックというか。たまたま地元の本屋だったので、ネット手配ではなく、今日直接買いに行こうとしたところだったんですよね~~ 今後は、特に品切れ本には気を使って、手配する前には絶対ここでは書かないようにしないと。

ま、古本で買っても、著者には一銭も印税は入らないので、少しは、稲垣先生にお布施をあげるべきだということかもしれません(笑)

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さらに深みへ

このあいだ書いたテーマに加え、いま、「トマス・アクィナスにおける《存在》の意味について」というのが浮上してきている。

なかなか、深みに入りそうである。

トマスってのはやっぱりなかなかすごいです、形而上学をやろうという者はちゃんと勉強しなきゃいかんですね(今頃気づくのは遅い?)

ただ、トマス研究はたくさんあるが、それを生かして現代における形而上学をマジで追究しているのが、稲垣先生だけというのはちと寂しいものだ・・

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これからとうぶんのお仕事

これからはそれほどひまではないのだが、合間をぬって、次のような計画を進めるつもりである。

1.ボナヴェントゥラ神学・哲学、およびその周辺、の勉強

2.普遍神学の新著作の準備

3.微細エネルギー関係の論文の準備

4.(継続)中世以前と近代との断絶について

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今日も休みますよ

何だか疲れたので、三日休むとアクセスがガガッと減ることはわかっているけれど、ちょっと休筆。もうアクセスなんぞ気にせず自分のペースでいくことにしま~す。

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4月1日なので

ここで一つ宣言しておこう。

今年は、夏休みまでに新著を一冊、執筆します!

出版社が決まっているわけではない。それはまあ、何とかなることになっているようである。興味ある会社はお早めに(笑)

・・って、エープリルフールだったりしてね(^o^)

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普遍的霊性を教える大学(への夢想)

あら~ またアクセスがガコッと下がっていると思ったら、どうやらアクセス解析の障害らしい。ま、いっそ、こんな機能なんかない方が、さっぱりしていいかもしれない。

しかし、きのうも書いたが、真剣に、霊性とか、存在、宇宙という根本的なことがらを考えようという「真の教養主義」に立った学科というのがあってもいいと思う。

やはりそれは、スポンサー的には、キリスト教系か仏教系の大学に期待するしかないだろう。そういうバックグラウンドに立ちつつ、その宗教にとらわれないで、普遍神学的な「宇宙のグランドデザイン」の必要にめざめているようなものが求められる。

キリスト教系の小規模な大学なんかでも、理想だけは高く掲げているところはあるのだが・・それだけのカリキュラムを組むのはなかなか大変かも。普遍神学は今はまだないのであり、ないものを教えるわけにはいかない。

一つ、私を呼びませんか?(←これが言いたかった? 笑)

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雨ですので

最近、ホワイトセージが気に入って、しょっちゅう部屋に煙を流している。

さて、今日の予定は、加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』の読解である。
これはとても重要な著作のようなので、購入して保存版とすべきだろう。

もし、これから哲学を専門的に勉強したいという奇特な若い人がいたら、ギリシア・ラテン語を学び、教父や中世の哲学を専門に選ぶのをすすめたい。
いろいろ見ていて、結局それがいちばん「霊性」を哲学として追求できる領域であるように感じられるからだ。

あるいはもっと意欲があれば、イスラム哲学とか。日本ではひじょうに人材が不足しているし。

インド哲学も、知っておく価値はあるが、学界があまりに閉鎖的なので、創造的なことを行っていくのは、ちょっとむずかしい。就職もないし。

近現代哲学は、解説書も多いし、専門にせずとも自分でやるだけで十分である。

穴場としては、ロシアの近代神秘哲学で、これは相当なるぶっ飛びと言ってもさしつかえない。
「神化の思想」を近代においてマジメに追求しているというなんともアッパレな人びとの話である。
たぶん、私自身の、社会に対するスタンスとしては、こういう人びとにいちばん近いのであろうと思う。

コレですよ。

4796702032ロシアの宇宙精神
スヴェトラーナ セミョーノヴァ ガーチェヴァ 西中村 浩
せりか書房 1997-01

大多数の人には、ついていけないのか、ほとんど評判になってませんね・・
永井均あたりにかじりついているようではどうしようもないのに、ねえ。

ともあれ、
霊性の思想として、よいものは、すでにたくさん出ている。世が、それを受け入れることができていないのである、と私は考えている。きのう書いた稲垣先生にしてもそうである。

しかしこのブログとしては、しばらくは、ぶっ飛びモードも封印かも? とはいえ、ぶっ飛びとかそうでないかとかいうのは、世の常識が勝手に引いているラインに過ぎず、私はただリアルな世界に生きているのみだということは、再三述べているところである。ま、いちおう世ではどのあたりにラインを引いているのか知っておくことは、処世術として必要ではあろう。

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予想通りというか

「衝撃的CD発見」の記事でぐぐっとアクセス数が上がって、哲学の記事を書いたらまた200ばかり降下。

正直すぎ?(^^; う~ん、でも哲学というか普遍神学の話はやめないですよ。

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なんというか

哲学の話を何日か続けると、だいたいいつも、アクセス数が200くらいどーんと落ちてしまう。

やっぱり好きじゃないんですね、そういう話は・・
私が書きたいことと、人が読みたいこととの、ギャップがあるんだろうか・・

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「哲学の歴史」

中公版「哲学の歴史」を少し買おうと思っていたら完全に忘れてしまった。こういうのって、私としてはアンビバレントな気分だ。というのは、こういう本を見ると、哲学というのはここまですごいのかというのと、人類の知の歴史なんてこの程度のものかい、という感覚とがわき上がってくる。どうしても西洋哲学系は基本として「人間が考える」ということを重視しすぎる。もちろん考えることは大切であるが、それ以上に、そういう「考えることが」がそもそも成立するような「土台としての魂の気分」がまったく語られていない。そういうことを語らないのが哲学だという「自明の前提」を疑ってほしいのに、誰も疑ってくれない。そこが哲学界というものに対する不信の原因でもある。

こういうオムニバス形式の概説は、だいたいにおいて「結局哲学というのはどういうものだったのか」という疑問に答えるものではない。こういう本は図書館で借りて必要なところだけ読むものであろう。近くの図書館になければリクエストすべし。

そういう意味ではこの前の「ヨーロッパ精神史入門」みたいな本がもっと必要である。

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とか言っておいて

やはり惜しいので結局ジュンク堂。しかしここはふつうの本屋と違って平積みがなく、図書館みたいな雰囲気なのでなかなか落ち着く。ジュンク堂はいいわ~ 変な本が集まってるところにさえ行かなければ大丈夫。予算消化であるが、『中世思想原典集成』の一冊10000円というのがあるから、消化しようと思えばそれを買いこめばよい。あといろいろ。

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本屋はきつい

ジュンク堂にはまだ行きませんよ。きょうは近くの戸田書店へ寄ったのだけど、やっぱりある程度以上大きな本屋というのはどうもいけません。なんか、ぐわ~~~んと、たくさんの本の波動がまざったものが襲ってきて、めまい状態に(笑) エネルギーに敏感になると大きな本屋へは行けなくなるのです。特に「精神世界系」というのは、よい本もあるけれど、変な波動を発しているものが少なからず混入しているので、かなりすごいエネルギー状態になっており、なんか恐ろしくて近寄れない。

要するに、いい波動の本というのは少なくて、そうではない本が多数を占めているため、どうしても全体的には厳しものになってしまう。というわけで、あまりその手の本のところへは行かず、趣味の本などをちょろっと見ただけで急いで出てしまうということになりがちである。これではジュンク堂での買いだしなどエネルギー的に無理であろう・・(^^;

本屋なんかに行くくらいならパワーストーンのお店の方がどんなにいいかしれない・・

いちばん気持ち悪いものは週刊誌の広告である。新聞に出ているが、あれを見るとまったく人間の持つどす黒い欲望がぎらぎらと出ていて、防御していないと受けてしまいますね。電車の中で身動きできないときにあの吊り広告が近くにあるとつらいものがありそうですね(私は満員電車に乗らない生活なのでそれだけでも助かる)。

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今年度予算

今年度の予算をあと9万円ほど、今週中に消化しなくちゃいけないんですよね。官公庁だと、そうやって不急不要のものを買ったりすると、批判を浴びるというこのごろであるが、民間はカンケーないです(^^; ジュンク堂へでも行って本を大量に買いこむくらいしかないが、でも最近、本ってあまり興味ないんですよね。買いたいものはパワーストーンと洋服がメインなんですが、これには使えませんからねえ(笑)

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オショーとは誰?

十数歳?若い人をオショー禅タロットで占う機会があったが、よく聞いてみると、その人は「オショー」とはなんであるかを知らない、ということが判明した。

これは衝撃でしたね~ オショーを知らないんですよ。一回も聞いたことがないと。

70~80年代のあの大ブームを知る者にとっては・・私もすでに「旧世代」に属するのかもしれない。

いいかえると、これまでまったくスピリチュアル方面のことを知らなくて、ここ数年になって急に興味を持ちだした人が、かなり大挙して存在するらしい、ということ。そういう人にとっては、オショーは関係ないでしょうね。

なんていって、いまこれを読んでる人の中にも、「私も知らないんだけど・・」という人もいるかもしれないが、そういう説明はめんどくさいので、ネットにいくらでも出ているから検索してくれい。

ということで・・

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今日のメッセージ

発信源は不明です(笑)

まず、自分が永遠に生きていると自覚することから始まる。
それがわからないうちは、他の何をやってもしかたがない。
自分は死ぬことがない、と完全に信じ切ることから、すべてが始まる。

以上です。

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春物更新の話

春物更新時期なので、いろいろ考える。
思い悩むのはお金を惜しむからで、「迷ったときは両方買え」にしてしまえば、何も思い煩うことはなくなるのである(笑)

以前・・クロコダイルのジャケットについて触れたが、きょうよく見たらあれはポリエステル製だった。失礼・・ 同じ値段ならEBの方がぜんぜんいいでしょうね。
ランズエンドで新作のリネンジャケットが出ていたが、やっぱり段返り三つボタンチェンジポケットつきのトラッド仕様である。
ただし、サイドベンツであるのと、段返りのボタンがディープなトラッドではなく位置が少しずれていて、ポロラルフローレンに近いもののようである。しかし買うかもな・・

なお、衣服更新には「エネルギー変換」の補助という意味があることについては、過去ログを参照いただきたい。
大きく言えば、それもワークにかかるコストのうちである。

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ご質問について

先月下旬の「ご質問」とアンケートのことだが、

「正答」というのではなく、「私ならばどのように回答したか」という視点で書くと、

質問1: 必ずしもそうとはいえない
質問2: 必ず見える

である。

質問1は、全員が同じ答えなので、解説する必要もないだろう。
質問2は、回答が割れたが、ここでは、「完全な覚醒」ということばがミソである。「完全な覚醒」に達した人は、そもそも「人」と言えるのか?というツッコミも当然あり得るところである。つまりは、人というものの究極的な完成可能性を、どこに求めるかという「完全な覚醒の定義」の問題だということである。それが現実にこの地球上で達せられるかという問題とは同じではない。

「必ず見える」にならざるを得ないのは、私の思想からして必然である。つまり、私は「完全な覚醒」を「神的知性との一致」として理解するからである。これは仏教では「大円鏡智」などの仏智として知られるものだ。
ブッダは、覚醒の時、宇宙のすべてが見えたと仏典にも記されている(キリストは、宇宙から降下したものであり純粋な「人」ではないので、ここでは除く)。

神性と一致するのだから、当然、神と同じ視点で見ることになる。
言い換えれば、全宇宙領域がすべて「自分」として感じられる境位である。
もしその地点に立てば、宇宙のあらゆるものは自分の中にあるものとして直知されるはずである。
それ以外には、論理的にも考えようがないのである。

私は、「必ずしもそうとはいえない」と回答した人が、どのような思考回路でそこに到達したのか、よくわからないので、コメントできない。
まちがいと言っているわけではない。私にはわからないと言っているだけ。

こうした「完全な覚醒」は、地球領域から出ないと達成できないのでは? という気もしないでもない。
肉体を持つことは、必然的に限界を作るからだ。

「完全」まで行けば必ずすべてが見えると思う(というか、「完全」をそのように定義するわけだから同語反復である)。しかし、その中途、ある程度までの覚醒であると、それには個々人による違いが生まれてきて、そこには、見えるということに強い人もいれば、そうでない人も出てくるかもしれない。このようなばらつきは、「完全ではない」からこそ起こる。現実に私たちが地球で出会う人には、「完全」レベルはまずいないと思っていい。

私の考えを簡単に書けば、こういうことである。

・完全に覚醒している人は、必ず見える。
・見える人がすべて覚醒しているとは限らない(逆は真ならず)

つまり、完全な覚醒とは先にも言ったとおり「全宇宙領域を自己として自覚する」ことからの必然として「全知」が生じるのだが、第二の「見える」というのは、微細界(いわゆるアストラル次元)のレベルで生じうることであり、微細界は「何でもあり」であって、低次のアストラル次元というのもあるからだ。
この話はまた長くなるので、別項で書きたい。

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投票結果

投票総数:130

質問1: 霊的に「見える人」(つまりふつうの人が見えない次元のことがわかるということ:視覚以外でわかることも含む)は、ふつうの人よりも霊的に発達しているといえるでしょうか?(ふつうの人よりも霊的な覚醒が進んでいる、という意味)

 ・そういえる            0票
 ・必ずしもそうとはいえない 130票

質問2: 霊的に完全な覚醒に達した人は、必ず「見える」ものでしょうか?(「見える」の意味は、質問1と同じです)

 ・必ず見える          32票
 ・必ずしもそうとはいえない  98票

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投票は締め切りました

投票総数は130通。集計が大変・・

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はっきりいうと

これから多少、休暇モードかな。春物更新で更新プロジェクトを完結するべく、オンラインストアばかり見ている日々・・(^^;

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投票メールが

きょうはほとんど来なくなった。ということは、ほとんどの人は2日に1回は見てる、ってことかな。

ということで投票は今日くらいで締め切ろうかな。

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やっぱり激動?

あらら・・坂本さんのブログでは、坂本さんも23日にめまいが出てひっくり返りそうになったそうですよ。

今度の満月前後からの激動もすごいですからねえ・・月食もあるんでしたか。

ここのところ部屋ではホワイトセージを焚いてます☆

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「あなたがたに平安があるように」

投票は、予想外に多くて、集計が大変そうである。が、もうちょっと受け付けることにする。

今回は特に、書くことはない。
なんとなく、浮かぶことは、

「あなたがたに平安があるように」

とのことば。キリストが言っている。

いや・・チャネリングしたわけではありません・・聖書にのっています(^^)

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またもや

「暴風雪」ですってよ・・snow

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春物コーナーにて

用事があってジャスコに寄った。一角にクロコダイルのコーナーがあって、通りがかりにちょっと見ると、春物のジャケットがある。それを見て驚いた。チェンジポケットがついている。

春物コートの方にもついている・・ これがトレンドなのかしら? ランズエンドの新作ジャケットもみなチェンジポケットがついているのである。

そこまでディープにトラッドが流行しているとしたら、私としては喜ぶべきことであるが・・ いや、なんせ、田舎のことなので、世の動きには疎いので。

クロコダイルは、品質も値段も、だいたいエディー・バウアーと大差ないように見えた。なんかジャスコっていうとちょっと偏見があるんですが(^^; わるいものではなさそう。

私の衣服大更新プロジェクトは去年の五月か六月から始まっているので、春物はまだ更新されていない。もう少しがんばらねばならない(笑)

※注: チェンジポケットは、右側の脇ポケットのさらに上についている小さなポケットのことで、小銭を入れる用途のものだが、トラッドファッション特有のデザインである。

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閲覧ページ記録

過去ログウィークだが、読んでくれているかどうか・・ ココログにはアクセス解析というのがあって、その中に、一人が何ページを表示したかという記録もある。それによると、これまでの最高記録は、一人で一日に538ページを表示した人がいる。第二位は、361ページである。みなさんもがんばっていただきたい・・(笑)

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と、いうのも

前回のようなことを書いたのは、メッセージを読んでみて、ごく一部ではあるが、明らかに何か勘違いしている人が見られないわけではなかったことがある。

まるで私を、教祖か何かと思っていて、神か覚者に対してするような質問を、私にしてきたり。
何かの「権威」、お墨付きを求めてきたり。

また、あまりに「精神世界」にひきつけて読もうという人が多いな、とも感じた。

私は、いわゆる精神世界系の本ばかりを読んで、思想を形成してきているわけではない。

私の基本は「不易流行」である。つまり、古典に根ざしつつ、また現代にも真実の表現があることを見ていこう、というものである。

それなりに、キリスト教神秘神学、新プラトン主義、仏教、ヨーガの哲学等々を学び、根本をおさえた上で、現在浮上してきている霊的な情報類にも、重要な意味を持つものがあることを否定しない、という立場である。
そうした総合に立つものが「普遍神学」で、それは一冊にまとめたので、だいたい骨格はできあがっているともいえる。

基本的に、オカルト的な香りのするものは、受け入れていない。
クロウリーの神秘主義など、この世で最もきらいなものの一つである。

「スピリチュアル」という言葉は、今の日本では軽すぎるノリがあるので、あまり好きではない。
それでもあえて使うことがあるのは、人に注目させるための「釣り」である。

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過去ログ週間です

しばらくは、どうでもいいことしか書かないかもしれないので、そういうときは一つ、過去ログをゆっくり読んでみていただきたい。

前にも言ったが、ブログというのは、あることを体系的に知るということには、あまり向かないメディアである。
ただ更新を追っていくだけでは、私が考えていることの全体はなかなか伝わらないだろうと感じている。
ある程度まとめて読んでいただきたいのである。さらに、本を買ってもらえればさらにいいのだが(笑)

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冬の一日

春物のカタログが来たので読みふけってしまい、ブログの更新など頭になかった(笑) 病院での診察待ちの時間など、頭も使いたくないので、カタログを持っていくとちょうど時間つぶしに最適である。

とはいうものの、外は豪雪モードである。あのごついダウンパーカーは、雪の降る中、「車の雪下ろし」などをしている時には最適なんですが。

浴室の気温が5度しかない。冬場は石油ストーブを持ち込んで暖める。それだけだと時間がかかるので、きょうは電気ストーブも併用する(ガスが使えない場所なので)。

・・と、実は、いろいろなことが進行中だが、そういう裏の事情については非公開とさせていただく。

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喫茶去

期間限定でメッセージを受け取ったが、最近自分はこういうふうに変わってきた、という報告のようなものが多数を占めていた。

一方で、少数ながら、何か思いつめたようなエネルギーで「質問」を送ってきた人もいる。

ここでは、その質問には、あえて答えない。というのも、その人がいま本当に必要としているのは、けっして、その質問の答えではないからだ。むしろ、そのような質問が出てくるような「存在のあり方」を変化させていくことが必要となっているように思えるのだ。存在のあり方(それをエネルギーという表現でも語るのだが)が変わってくれば、自然と、その答えは自分なりに明確になってきたり、また、その答えを知ることはたいして意味がないと思えるようになってくるのである。

いわゆるスピリチュアルというのは何のためにやるのかなど、答えはあまりにも自明である。自分が幸福になるために決まっているのである。一点の曇りもなくそのように断定できるような「存在のあり方」でそこにあるということだ。ここで「じゃあ人のことはどうでもいいの?」などと質問するというのは、頭だけで考えている証拠だ。

禅に、「喫茶去」という話がある。
思いつめた表情で道を問う修行