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目覚めへの意識の量的変化

自己の神性への目覚め、ということ自体は何ら新しいわけではない。それは既に伝統哲学――インド哲学、ギリシャ哲学、禅など――で、探求されたことである。ただ、過去の文明においては、それに気づいた人はきわめて少数であった。これに対し、現在は、ものすごい数の人、それも、別に何かの伝統に沿って「修行」をしたわけでもない普通の人が、目覚めの意識を経験している。この数ということが、大きな変化なのである。つまり、量の変化が全体の質の転化をもたらそうとしている、という状況だ。

神性への目覚めということがらを、学問内部で探求しようとしたのは、人間性心理学やサイコシンセシスを先駆者として、トランスパーソナル心理学という立場もある。だが、哲学としてはもっぱら、アカデミズムの外部で受け入れられてきた。西洋社会でのその始まりはロマン派における直観からスタートして、エマーソンなどが本格的に東洋思想を深く理解し、ニューソートという思想の流れで追求された。これは今の「引き寄せの法則」の思想的なルーツになる。

そして今では、ノンデュアルなどという名前がつけられることもあるが、目覚めの意識を体験した人たちが、これは昔から東洋思想が言っていることと同じだなあ、ということに気づいてきた。トールなど、最近、その手の本もいっぱい出るようになっている。ここまで、西洋社会の人たちがこういう考え方を理解した時代はかつてないので、20世紀後半から21世紀にかけて、爆発的な「東洋哲学の浸透」が見られたということなのである。

西洋においては、それまでの、キリスト教思想の理解が、あまりにレベルが低すぎたことに気づき始めた。最も高次な視点で理解すれば、イエスの言っていることと東洋哲学は矛盾しないらしい、という視点を持つ人も出始めたということである。

こんな本が出ているのも紹介しておきたい。

Easternization of the West: A Thematic Account of Cultural Change in the Modern Era (Yale Cultural Sociology Series)

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宗教や霊性についての西洋人の理解が「東洋化」してきていることを指摘している。こういった文化変容が進行していることは、人類全体に「神性への目覚め」という価値観が共有される時代へと向かっている、ということになるのである。
しかし、こういう変容について、知識人と言われる人の反応はかなり鈍いのである。こうした文化変容は、ある程度の教養はあるが、わりと普通の人が主導している面がある。

それは結局、知識人というのは社会のエスタブリッシュメントであって、既存の価値観の中で競争を勝ち抜いて優等な地位を獲得した人々であるので、自分のよって立つ基盤を崩すような思想に賛同はしないものである、ということだ。哲学とはすべてを疑うことだと言われるが、世の中で哲学とされているものが本当に必要か、哲学者とは必要かということ自体は疑わないものらしい。私はそこのところを疑っているが。本当の哲学者は大学の哲学科にはいないものだと考えている。

しかしながら、地位や名声などはどうでもいいのである。それは三次元世界の夢のゲームでの勝った負けたという世界である。要は、目覚めるが勝ち、自由になることが唯一、本当の価値があることなのである。

宇宙文明への開国ということ

一部の人の間で言われてきた、オープン・コンタクトという概念がある。これは、地球外知性体の文明社会から地球人類にコンタクトが始まっていることが、公にされるということを意味している。

実はもう既にアメリカやロシアなどの最上層部はそのことを知っているが、準備が整うまで一般国民などには秘密にされている、などという噂も、聞いたことがあると思う。

オープン・コンタクトが起こるとどうなるだろうか。もう地球の人類の常識が根底からひっくり返ることになるだろうと思う。それはいわば人類の「幼年期の終わり」であって、新たな文明のステージの始まりとなる画期的なことだろう。しかしその対応を誤ればとんでもない大混乱になる可能性もまたある。

実は、トランプ大統領はあのような人だから、既にコンタクトが存在していることをぽろっとツイッターで書いてしまうのではないか、という可能性もあると思う(笑)

まあ私は既にこのブログの過去記事で、地球はやがて宇宙文明へ向かって「開国」をする時期に入るのである、ということははっきり書いてしまっている。ペリーの「黒船」が日本に来たときだって、その事実はごく一部の日本人しか知らず、大多数の人はそんなことは知らなかったのだ。だから、「黒船は既に来ている」とも言えるわけだろう。

知識人といったって大部分は結局「保身の論理」から自由ではない。こんなことを言ったらなんと思われるか、というのが恐いのである。しかし私は恐れるものはない。オープン・コンタクトが実際に起こったとき、あいつだけはあのときからはっきり言っていたなあ、と思われることになるかもしれないのだ。

既に「コンタクト」というそのものずばりの映画があったし、スピルバーグの「未知との遭遇」や「ET」などの名作もあり、そういうフィクションを通して、徐々に、人類はこういうコンセプトに慣れてきているのである。

ただ、いわゆる「宇宙人」ということを考える際に、一つ重要なポイントがある。それは、宇宙文明への開国ということは、この物質次元だけが現実であるという枠組みから脱することが不可欠だということである。宇宙は多次元なのであり、人類も実は多次元的存在である。そして宇宙文明とは多次元的に展開されているのであり、決して、単に物質次元のある惑星だけにあるというものではないのだ。比喩的に、仮に今の人類のいる世界を三次元と名づけるならば、四次元、五次元、六次元等の世界にある文明があり、そこに高度知性体が存在する、と考えられる。

しかし、実はこういう世界観は、近代以前には当たり前にあったものだ。つまり、昔は「天使」などと呼ばれていた存在と、いま「宇宙の高度文明にいる存在たち」とは、同じものを、違う解釈枠組みで捉えたものだということになるのである。

こうした宇宙の高度文明では、三次元の地球文明ほど分離感が強くなく、つねに、すべてが一体であるという認識が忘れられていないのである。

一部の世界で「アセンション」と呼ばれているのは、地球文明が全体として意識の高いレベルに入っていくということを意味しているのだが、それは、宇宙文明への開国ということと、実は密接にリンクするのである。

以上に書いたことは、すでにもう当たり前だと思っている人も多いと思うが、こちらのブログでも、以降は、これをはばかることなく書いていくことにする。

そんなことを書いたらくびにならないんですか、と心配する人もいるかもしれないが、なりません(笑) それだったら保江邦夫さんはどうするんですか?(まああの人はバチカンに守られているのかもしれないが) 宇宙人好きの横尾忠則さんも美大教授だったんですからね。

既にいろいろな人が、今までは小出しに、来るべき大変革に備えて、少しずつ宇宙への開国のための準備を進めているのである。このブログも、これからはそういう役割をするようにしていくのである。

今までの哲学の99%は目覚めていない人間によって書かれている

さて、哲学者とはもともと「真理」を追求するものという意味である。その意味で言えば私がしてきたことはずっと真理の追求ではあっただろう。しかしその追求をしている間に、それは学問という枠をはみ出してしまった。というより、そもそも、真理の追究ということが学問である(近代的な意味での)必要があるのか、ということにも疑問を覚えてきたわけである。そもそも古代ギリシャの哲学は学問ではなく、「生き方」、ウェイ・オブ・ライフの探求であったということはアドー(フランスの哲学史家)なども言っているとおりである。近代的な学問というのは、学界という集団を形成し、そこではピアレビュー形式の論文審査があり、大学等のポストを占め、といった形態で行われる知的生産ということである。哲学というのはその形式にはまらなければならないものであろうか。むしろ、はまらない方がいいということはないであろうか。

ぴあレビュー形式というのは結局のところその学界の「常識」に従ったものしか受容されない。その前提を根本から疑うようなものは却下されるのである。それにくわえて、既にミシェル・フーコーが指摘したような、「文体の統制」がある。あるスタイルで書かねばならない、という強制力があるわけだ(『言語表現の秩序』参照)。

こうした学問としての哲学というスタイルは、また、ヨーロッパ文明的な所産でもある。それはヨーロッパ文明の欠点、と言ってもいいと思うが、欠けているものを示してしまってもいる。

どういうことかというと、ヨーロッパの哲学には、結局、東洋のような「体験的な裏付け」が欠如していることが多い。東洋では、言葉で言っているだけでは駄目で、それを実際に「体現」しているのでなければ評価されない。ところが、ヨーロッパ文明では、深い体験に人を導いていく、インドのヨーガのようなシステムが欠如していた。ヨーガ的な伝統は、中国にも入り、仏教にも入り、また一部イスラムのスーフィズムにも入ったり(あるいはユダヤのカバラも)、どういうわけかヨーロッパには入らなかったのである。入ったとしても教会に抑圧され、地下水脈的なものとしか存在できなかった。

ヨーロッパでも、エックハルトのように、深い目覚めを体験した人はいた。しかし、そういう目覚めに人を導くような方法論や体験の蓄積を有する「伝統」がなかったために、後代に受けつがれることがなく、単発に終わるしかなかったのである。

ヨーロッパ文明全体として、そういう、東洋文化で探求されてきた「目覚め」という意識があるということを理解したのは、東洋文化との出会いによる。翻訳された本を読んだだけでは理解することができなかったので、本格的に、東洋が何をやろうとしてきたのかがわかってきたのは、ようやく20世紀も後半になってからである。

13世紀に、大学に哲学が生まれたが、ここでの哲学は神学のための予備的、論理的訓練として位置づけられていたので、哲学だけで知恵を語ろうという意図はなかった。そこで哲学は純粋に知的水準での議論になった。もちろんこの当時の哲学者はみな坊さんであって、それなりに修行もし、ある程度経験的にもわかる人たちもいたであろうが、哲学はあくまで全体の中の一部であったので、論理的(つまり左脳的)知性しか使わなかったのである。ところが神学が頽落してくると、この哲学が一人歩きし始めて、論理的追究だけで真理に接近できるという誤認が生じてきた。

私はこれを、「全体から切り離された左脳の暴走」であると考える。今の時点から反省すればそのようにしか言うことができない。言葉を換えれば、ヨーロッパ文明全体として、「マインドとハートの分裂」あるいは「左脳と右脳の分裂」が生じてきた。哲学には「左脳的な表現のみを使う」というルールが課せられてしまったのである。

こうした哲学のスタイルを破壊したのがニーチェであることは言うまでもない。もしニーチェが哲学であるならば、何を書いてもありになってしまう。ニーチェのように書いたら哲学科で通るわけがない。そういう哲学は狭すぎることになる。

既にニーチェで哲学は破壊された。ちなみにニーチェは目覚めのことをわかっていたのかと言えば、何かの直観は明らかに持っていたと思う。ただしヨーロッパ文明自体にそうした伝統がなく語彙もコンセプトもないので、多分に混乱しているところがあった。必ずしも今の日本人がニーチェを読む必要はないように思うが、ヨーロッパ哲学者の破壊者として、私たちに自由をもたらしたことは大いに評価すべきである。

デリダの脱構築なども、ニーチェのやったことを、アカデミズム内部からの侵食という形でやろうとしている、という見方もできるだろう。しかし結局これは知識人のための知的ゲームであるので、真理を知りたい人が読むようなものではない。

前置きが長いが、ここから本音のトークとなる。
私は、人間には目覚めという地平があるということを前提としてものを考えるわけだが、今までの哲学の99%は目覚めていない人間によって書かれているものにすぎない、ということを事実として認識すべきだと思う。言いかえると、3次元的時空という制限内で思考するという枠内でしか考えることができておらず、3次元人間という限界を超えられていない。しかし真理を理解したいのならば、そういう枠組みを超えるところを見ないといけないのである。

その意味で、現在の哲学の99%は不要である。大学の哲学専攻は「入学してがっかり」の最たるものである。「西洋哲学史研究者」は少数ならいてもいいであろうが、今の10分の1以下でよい。真理を知りたい人は早々にアカデミックな哲学に見切りをつけるのがよいだろう。

スローガン的に言うなら、今の文明的な課題が「マインドとハートの分裂」なのである。その統合へ向けたスタイルが求められる。

いろいろとおすすめ

普通の人が目覚めてきたということで、それが「ノンデュアル」とか、新ヴェーダーンタなどともいわれるのだが、そういった系統で印象に残った本を一つあげるとこれだろうか。『「私」という夢から覚めて、わたしを生きる』で、面白いので二回も読んでしまった。

もう一人、注目する人はまさよさんである。本がすごく売れているらしいが、たしかに、いろいろスピ本というのはあるが、ここまで波動が高くてまた使いやすいものはなかなかないと思う。たとえばこの『エネルギーの魔法』である。

本質をシンプルに、すぐに使える、というのが現在では大事なことになっている。細かい知識は、全体の枠組みが見えないとあまり役に立たないし、むしろ邪魔にもなる。

人間とはどういうもので、自分とは何であるのか、なんていう最も基本的なことにしっかりした「枠組み」を持つことが重要ではなかろうか。

新文明期の始まり

どうもまた、最近急に変わってきたところがあって、今までのように、過去の知識からあれこれ言うことに、基本的に興味を失ってきた。

哲学はもともと真理に向かう運動であるわけだが、頭で考えること、知識を積み重ねることによってそれに達することができるとは、私は今信じているわけではない。

真実とは実はシンプルであって、それにダイレクトに目覚めて来ている人がものすごい勢いで増えている、という今の地球の現実を見ていて、もはや、今までのようなスタイルを捨てる時ではないかと思えてきた。

人類の歴史始まって以来のことが起きつつあることがはっきりしてきた。

そのまったく新しいステージが始まったのは1990年代くらいだった、と今から思えばわかる。その当時は見ていなかったが。

およそ、近代というものが始まった17世紀くらいから1980年代までは「人類史の過渡期」であったのだ、ということがわかる。

人類史というのは、1.原始文明期、2.古典文明期、3.新文明期、に分けられるのであって、近代というのは2と3の過渡期だった。

ところが今の学問とか知的体系で常識とされていたのはこの過渡期にできたものの延長で、それで、まったく新しい新文明期を理解しようということに無理がある。

新文明期とは何か。それは人類が自己の神性に本格的に目覚め始める時代である。その結果、現実が意識によって創造されていることを理解し、現実をコントロールすることができるようになり、そうなって始めて、地球以外の進化した存在たちとの交流も可能になってくる、という新たなステージに入るということである。

この、自己の本質を知るということは、原始文明期にも、一部のシャーマンたちには知られてきたことであった。古典文明期ではインドやギリシャなどにおいてそうした哲学が勃興したが、この時期は本当にわずかな人々しかその本質を理解し、体現することができなかった。社会全体のレベルが低かったため、そういう意識を追求しようとしたら社会の外に出るしかなかった、という状況が見られた(出家ということである)。

この圧倒的に少なかった「目覚めの意識」を理解できるようになる人々が爆発的に増えて、やがて、人口の過半になってくる、というのが新文明期の方向性である。

新文明期を理解するために、これまでの学問はほとんど使い物にならない。
それは単に過去の権威によって尊敬を集めているだけで、自分たちが真理に近づいてはいないことは彼ら自身が一番よく知っている。

はっきり書いてしまうが、地球外知性とのコンタクトがオープンになる日もかなり近づいているのである。もはや猶予はない。そして、もはや、そのようなことを言ったらなんと言われるか、などという恐れを持つ必要はなくなったのだ。そのくらい、目覚めの意識があることに気づいている人が増えてきたのだ。

そこでこのブログでも、これ以降、思い切り本音での話をすることになるだろう。

アメリカ大統領選と人類のゆくえ

新年になって既に一ヶ月が過ぎた。あまり更新していないブログであるが、私自身が更新される必要があった。この2017年になっていろいろな変化を感じている。

しかしこの年から世界はいろいろ大変になりそうである。それも人類の霊性が顕れてくる大きな転換のプロセスである。

いま最大の懸念材料はアメリカでのトランプ大統領の登場であろう。トランプの登場は反グローバリズムとも言われている。グローバル化の流れに取り残された人々の反撃という側面が指摘されている。

霊性思想的に見ると、グローバリズムというのは単に政治・経済の結びつきが強まったというだけではない。人類はすべてつながっており、また、人類と地球ともつながっている、という統合的意識が推し進められることなのである。トランプの当選は、言うまでもなく、その流れに対する反動である。トランプ氏はたしかに品位に欠ける人物かもしれないが、トランプ氏が悪というのではなく、これは社会全体のある流れを映し出している鏡である。

反グローバリズムとは「自分だけが成り立てばいい」という考えである。他を犠牲にしなければ自分が生き残れないという意識構造でもある。これは端的に言うと「物の原理」であり、物質というものの特性である。物質界が宇宙の中で創造された時に、本来は、すべてが一つにつながっていることが理解されていた宇宙の中に、その原理が忘れられ、「自分だけが成り立つということが可能である」とか、「自分が勝つか、相手が勝つかしかない」という二元対立の思考が出現した。ヨーロッパの近代は、この考え方が推し進められた。しかしそれはとんでもない問題をもたらすことに気づき、少しずつ、人類全てが協同しなければ成り立たない、という思想が理解されてきた。
トランプ大統領は、こういう、人類の霊性認識の歴史に逆行する、揺り戻しの現象である。しかしこれは必ず失敗する。そもそも、人類が一であることを認識するようになるのは歴史の方向性であり、世界はそのような基本的なベクトルを持っているので、それに対する反動はあくまでも一時的な現象でしかないだろう。
彼に投票した米国民の半数弱は、いまだに、「自分だけが成り立つことが可能だ」とか「自分が勝つか相手が勝つかしかない」という思考に有効性があると思っていたということだ。トランプほど、すべてがつながっていることをまったくわかっていない候補者も珍しい。まともな政治家ならば誰でも多少はわかっているものだからだ。そういう認識が「そのへんのおじさん」レベルの人が大統領になるとは前代未聞の話だ。グローバリズムをある程度理解している政治エリート層を否定して、よくわかっていないおじさんおばさんレベルの人がホワイトハウスに入ってしまったという点では究極のポピュリズムと言える。

それにしてもオバマ前大統領は偉大だった。彼はすべてが一であることを完全に理解していた。だが多くの米国民にとって、オバマはあまりに高尚すぎて波動が合わなかったのだろう。トランプが等身大で身近に感じたのであろう。また、対抗馬のヒラリーが今ひとつ弱かったということもありそうだ。彼女はオバマのように人々の中の理想を呼び覚ますことが十分にできなかったのだ。

だが、これからその政策が政治的、経済的な混乱をもたらし、うまくいかなくなったところで、ようやく、「やはりこういう考え方はだめなんだ」ということがわかってくるわけである。そのために必要な四年間である(四年で気がつけばよいが・・場合によっては途中辞任もありうると私は思っている)。つまりトランプ当選は、そうした物質的な(自分だけが成り立てばよいという)思考が駄目であることを人類がはっきり認識するための痛みを経験する機会ともなるだろう。ある程度の混乱は覚悟しなければならない。しかしこれも人類進化のための必要なプロセスである。その道を人類は選択してしまったのである。

欅坂46「世界には愛しかない」の神MVについて

YouTube講座の方は、着々と準備を進めております。まもなく提供開始となります。

さて、今回紹介したいのは、最近見つけた「神ビデオ」である。
それは、欅坂46の「世界には愛しかない」だ。(欅坂46というのは、2015年にスタートした、乃木坂46の妹分のグループである。この曲は2番目のシングルである)
まずタイトル、つまりそれは最も表現したいポイントということだが、それがど真ん中直球ではないか。
昔、「世界の中心で愛を叫ぶ」という、タイトルの良さで売れた小説や映画があったが(小説はあまりたいしたことないが、長澤まさみ主演の映画はよかった)、今回はそれを上回る。
歌詞がほんとにいい。しかも曲も、映像も、欅坂の女の子たちもすべてがパーフェクトな作品ではないか。
正直、「世界自体のレベルが上がっている」ことを実感する経験だった。
というのは、精神的探求を始めてから二十数年になるわけだが、結局のところ、「世界には愛しかない」ということが本当にわかるということが唯一の問題で、それがある程度わかれば、少なくとも人間として生まれたことの意義のかなりの部分は達成したことになる、と思うにいたっている。これは20年かけてわかったことだからそれなりに「重み」はあるのだ。それは真実のすべてではないが、ある重要な一つの段階なのだ。
たとえば1980年代には、この歌詞は人々に理解されなかったと思う。しかし世界のレベルが上がっているので、この若い子たちは、私が20年かけて少しわかったことを、あっという間にわかってしまうのかもしれない。うらやましいことだ。
そして、またわかったことは、「世界には愛しかない、とわかりさえすれば、べつに哲学はいらない」ということだ。いま哲学と言われているものがいかにつまらないものであるか、骨身にしみてわかってきている。今の哲学は、知識人カルチャーという狭い世界の中で、脳に刺激を与えるいわゆる「ブレインキャンディー」に成り下がっているところはないであろうか。
哲学はいらない、とわかったところから哲学を語ったらどうなるだろうか。それが今回のプロジェクトで試みることである。それは私が、哲学をやることを直接の商売とはしていないことの「強み」であるかもしれない。たとえばあるメーカーの会社に勤めている人が、その会社の製品は実は社会に必要ないものだ、とわかってしまったら困りますよね。だから無意識のうちに、それは必要だという前提ですべてを考えるようになるはずだ。そういうバイアスがかかっていることに気づかないものだろう。今の職業的哲学者というのもそれと同じ。
大事なことは、もっと自由に生きてもいいのだということ。自分の現実は自分で創造するのだから。それが、このMVの、特に「風車のシーン」を見ていると感じられる(どういうことか、まあ見てください)。
世界には愛しかない、ということを別の角度から言えば、「愛以外のものは、すべて幻想である」ということ。このことをしんからわかっていますかね?
あらゆる、自分に課している制限は幻想であるということ。
そういうことも、このMVから感じられるのではないだろうか?
そういう意味を込めて、「神MV」と呼ぶのであります(^^)

『RDGレッドデータガール』がけっこう怖い

ふとしたきっかけから、荻原規子のファンタジー小説、『RDGレッドデータガール』を読み始めてしまった。全部で六巻。第四巻まで来た。荻原規子というのは、上橋菜穂子とならんで、日本を代表するファンタジー小説家である。

この話は、特殊な霊的能力を潜在的に持っている少女が、自分の力に徐々に目覚め、成長していく・・・と簡単に言えばそれだけであるが、いきなり玉置神社から始まるのはマニアックだ(小説中では玉倉神社という名前になっているが)。

しかしこのお話、けっこう怖いんですけど・・(^_^; ハリーポッターだって、言ってみれば呪術合戦のお話なのだが、それとはまったく違って、この小説の、奇妙な、背筋に何かが走る感覚は何だろう? こういうことを、まったく絵空事だと思っている人は、空想小説として楽しむだけかもしれないが、そもそもいきなり玉置神社から始まるのって、それがどういうところかわかっている人は、もうそれだけでもガーンと一撃くらうわけで、そこから、どうもあまりにリアルすぎて、ちょっと怖くなってくるのであります(笑) 特に、呪術がかかって現実が変わってしまうところの描写とかが、そこから出てくるエネルギーが、かなりリアル・・ まあ、そういう世界が本当にあると思っているか、いないかで、だいぶ受け取り方は違うのだろう。しかし、この著者にはそもそもかなり霊感体質があると感じた。実際にそういうことをしないのかもしれないが、エネルギー的にリアルなので・・ この感じを昔あったなと思ったら、思い出した。岡野玲子の漫画版「陰陽師」だ。あれととてもよく似ている(「陰陽師」は、私の『叡智のための哲学』の枕に使わせて頂いた)。この小説の内容も、だいたいあんな世界だと思えばいいだろう。

「こっちの現実に来たら、自分にそれができると100%確信することが大事なんだ」とか、「なんでそんなことがわかっているの?」と思った。

面白いのだけど、あまり、こっちの世界に関わりたくないし、こういう小説読んでいると、波動が合ってしまって、自分の現実にこの手のものが近づいてしまうかもしれない、とリアルに不安になる私というのはいったいなんであろうか・・(笑)

「はじめてのお使い」とか、かなり少女小説っぽいが、だまされてはいけませんよ。

(注:ここでは、エネルギー的にリアルと言っているのであって、実際に小説に書いている事件などは、必ずしもみながリアルということではない。念のため)

4043944403RDGレッドデータガール はじめてのお使い (角川文庫)
荻原 規子 酒井 駒子
角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-06-23

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2015年スタート

2015年もよろしくお願いいたします。

今年から活動を本格化していく予定ですが、今年のテーマは「自分の制限をさらに外すこと」です。さらなる精神的変容の年となるような予感です。

まもなく、スピリチュアルライフコンサルティングのセッションと、「エジプシャンレイキ」という新しいエネルギーワークの提供を始めようと準備中です。

元旦にはいつも「日本の神様カード」というオラクルカードの一枚引きをする習慣なのですが、今年の一枚は「速秋津日子神・速秋津比売神」でした。

これは、みそぎの神様で、浄化であり、また、流れに逆らわず身を任せるという意味ですね。

そこで受け取ったメッセージは、「自分の変容は、自分の自我の認識よりも速く、また深く進むものである。流れを信頼して、それに抵抗しなければ、変容はなめらかに進む」とのことです。

さらにもう一つ、「ギャラクティックルーツカード」という、かなりマニアックなカードもありますが、こちらも引いてみました。今年は、「精神的変容」というカードでした。やはりという感じですね。

再開のごあいさつ

今日から「菅原晴」という名前を使ってみます。

「晴」は「はれい」と読むのですが、「はれ」でもいいです。

このところはずっと、インプットモードだったのですが、そろそろ外に向かって発信すべし、というメッセージがやってきています。
今までの数年間はかなりストレスに満ちていました。というのも少子化のため、地方の小規模私立大学は極めて厳しい状況が続いており、定員割れが続いていました。偏差値も40以下に落ちてしまい、そういった中教員を続けていくのは大変厳しいものがありました。人員削減や授業負担の急増、学生集めへの動員など、忙しさは何倍にもなり、そういうストレスもあって体調も悪化し、ブログにまで手が回らないことが続いていたのです。
ところが、2014年4月よりなんと、私立から公立大学に転換するという大ワザによって、一気に状況が変わりました。「沈み行く泥の船」より脱出し、志願者は定員の数倍に達し、偏差値は52にまで急上昇です。ここまで違うものか、ということですが、学費半減の効果は大きい。同じ商品を売るのに値段がいきなり半額になるのですから、売れるのは当然ですね。(個人的には、世界の多くの国のように、よっぽど特色のある私立大学以外は、大学経営は国公立にした方がいいんじゃないかと思うんですね。そうでないとなかなかクオリティが保てません。なお、私立から公立に転換できるのは「完全公設民営」の大学に限られます)
まあそんなことがあって、ようやく余裕ができ、数年前の状況に戻りつつあります。
今後はブログ活動を少しずつ再開しようと思います。
また、個人セッションなどもだんだんと再開して参ります。

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