『カラマーゾフの兄弟』マンガ版
泣く子も黙るドストエフスキーの名作、『カラマーゾフの兄弟』のマンガ版を読みました(二種類あるけど講談社版のほう)。
いや、これがすごかった。古典文学のマンガ化はたくさん読んできたけど、これはその中でも最高によく作られています。
原作のもつ「激しさ」、緊張感がよく出ていて、ドストエフスキー特有の「世界観の激突」が見事に表現できてます。
絵にしがたい「大審問官」も、よくここまで・・という感じ。キリストも存在感をもって描かれている。
漫画家として知られている人ではないけど、すごい画力ですね。
今回、長老の死後に奇蹟が起きなかったということが、大審問官への伏線になっていることに気がつきました。
原作で読むと、読み切るのに二週間はかかるしろものであるため、前の方を忘れていくので、今まで気づかないのはうかつでした。
当時のロシアの悲惨な状況の中で、ドストエフスキーが「神」と格闘していたことがよくわかりました。
この作品といえば、亀山氏の新訳が話題になりましたが、私はあまり面白くなかったんですよね。緊張感がないというか。
私は、米川正夫訳の世代ですので(笑) あと、江川卓、原卓也、とかいましたが。
私は、このマンガ版は作品の本質を表現できていると考えますので、まずこれを読むことをお勧めします。
神はあるのか?
これが大問題です。
あるいは
「神の作った世界を許せるか?」です。
なぜ最高善であるはずの神が創造した世界が、苦悩と悲惨に満ちているのか。
問題はそこに尽きます。
が、これを今の2020年の時点から見るとどうなるのか。
ドストエフスキーが直面していたのは、キリスト教的な世界観の限界とも言えます。
彼は、上の問題に答えを出してはいません。
答えはないのです。
ただ、キリストの愛はそこにあり、それは私の中の愛でもある。
それだけは信じることができる、というのが彼の結論だと思います。
神がなければ、すべてが許される。
その通りです。(世界に規律を与えるものとしての)神はないのです。
ですから人間は完全に自由です。
ですが、その上で、人間は愛と調和に満ちた世界を作ることができるのか。
これが21世紀の思想的課題です。
キリスト教圏には、「私は本来、神である」という思想や、「カルマ」のコンセプトはありませんでした。
また、「世界とはゲームである」という思想も。
いかなる苦悩といえど、「自分が作っている」という原則は変えられないものです。
神は世界を作っていません。
神が世界を作ったと考えるから理解できなくなるのです。
世界は人間、私が作っているというスタンスに立てば、矛盾はなくなります。
私が創造主だということです。
ですので、ドストエフスキーがつきつめた結果は、つまりは、「神が世界を作った」という思想では行き詰まることを示唆するのです。
ですが、
漫画の本一冊で、ここまで思索を呼び起こすというのは凄いと思いませんか?
やはり、偉大な作品ですね。
原作は、もう30年以上読んでいませんが。