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スピリチュアル哲学入門は、体制破壊である

ぶっちゃけた話だが、私もこういう方面では「できること」はある。一年前では考えられなかったほど、その点は変わってきた。ほんと、変化は加速していくものなのだ。

そこで、「わかってきた」ことと、「これまでの常識」との隔たりが、ますます大きくなってきたのだ。

そういうわけで、私はこれから、「探求者&表現者」として自己を表出することにしたのだった。これは何を意味するかというと、「体制破壊者」となる、ということだ。つまり、「これまでの積み上げ」をすべて認めた上で、それを少しずつ「拡張」していく、というやり方は、もうだめではないか、ついていけないのではないか、という意味である。時代はそれほど急速に変化している。「今までのもの」は、地球人が、意識構造的に「かせ」を着せられているという状況において、生み出されたものである。昔の数十年、百年分が数年で起こってしまうというこの未曾有の時期において、「今までのもの」を正確に理解する、などということに時間を費やしているひまは、もはやないのである。

ある意味では、「今までのもの」ではもうだめなんですよ、まったく新しい考え方をしなければならなくなってきている、ということに気づくということも必要なのだ。いったん、無にしてみる。そこでもう一度宇宙を感じなおす。

そういう意味では、これは、今までの「哲学入門」とは対極にあるものだ。今までの「哲学入門」は、哲学という確立された領域を学ぶことが、意味あることだという前提で書かれている。つまり、既存の哲学教授のペースによって、その教育コースの妥当性、ひいてはそれを肯定している社会体制そのものを肯定しているところから、スタートしている。ポストモダンだの、いかにラジカルなことを言っていたとしても、それは保守的なのだ。「徹底的に考えることが大事だ」などという価値観に洗脳しようとしているが、そういう「哲学のすすめ」の保守性を見抜かないといけない。

本当は、大いなるものへの感性のチャンネルが開いていない状態で、いくら考えたとしても、ほとんど無駄なのである。そういう哲学は、本当に学ぶに値するほどのものか、現在の人類文明の水準を、宇宙的な基準から眺めてみるとどうなるであろうか。

「スピリチュアル哲学入門」は、実は、すべて既存の「ふつうの哲学入門」の徹底的なアンチテーゼであり、体制破壊なのである。

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「おはなし」と哲学・形而上学

と、いうわけで、今度は河合隼雄による「おはなし」関係の本をいろいろと借りてきたのだった。昔話とか児童文学、ファンタジーと、いろいろある。

こんな文がある。

極端な言い方をすると、自然科学もおはなしの一種なのだが、外的事物を操作するのに飛び抜けて優秀な「おはなし」だというべきだろう。それがあまりにも有効なので、自然科学の語るおはなしが、そのまま「現実」だと思い違いをはじめたために、現代人は混迷しはじめた。「現実」との真の接触を回復するには、人間は自然科学以外のおはなしも沢山知る必要がある。
『おはなしの知恵』p.20

というのはまったく同意であって、自然科学が一つの「おはなし」であることは、たとえば池田清彦の『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)などを見ても明らかであろう(ただし彼の『科学とオカルト』は前に書いたように天下の駄書なので読まないように。なおこうした科学観の高級バージョンとしては、大森荘蔵『知の構築とその呪縛』などがある)。

また河合は、オウム真理教と見られる事例に触れて、それにひかれた人は、知的エリートであったかもしれないが、あまりにも、生と死にかかわる「おはなし」について知らなさすぎ、免疫がなかったと言っている。だからあのような「変なおはなし」にだまされてしまったのである。

こういう河合の基本的な考え方は、「人は、生きるため、そして死ぬために、おはなしを必要とする」という理解である。そして、自然科学は、人が生きるためのおはなしをすべて提供できるようなものでもない。もちろん心理学だって、自分なりのおはなしを提供するというだけの話である。

このように見てくると、私がいまなぜ河合のおはなし本などを読もうとしているのか? というのは、私はたぶん、今から書こうとしている哲学、形而上学(それをスピリチュアル思想ともいうが)をも、一つの「おはなし」を作ることだと感じているからではないか、と思われる。単に、その仕事が終わったら神話学の仕事に入るから、というのではなく、その二つの領域は、私において、もっと内的に、密接に連関しているのであろう、と気がつくのである。

哲学・思想というのもけっきょくのところは、「自分が納得できるようなおはなし」を求める行為なのだろうと思う。あるいは、「美しいおはなし」をつくろうという衝動に由来するものでもあろうし、その中には、「自分の実際に見てきたすばらしい世界について人に語ろうとするおはなし」もあることであろう。このように思想の歴史をながめてはどうだろうか。

だからそれを研究するということも、つきつめれば、「自分のもっている、<世界についてのおはなし>を豊かにする」ための旅のようなものだろうと思う。

霊的哲学というと、存在世界についての「絶対的に正しいおはなし」を追求するものだと思うかもしれないが、そうではない。「一つの絶対的に正しいおはなし」を信じることは危険である、というのが現代人的な感性であるし、それを精緻に語るのがいわゆるポストモダン思想なるものだ。そもそも、人が語る限り、それは絶対に相対的なものでしかない。人は、人の世界という文脈の中でしか、宇宙の真実を表現することはできない。人が人の世界(正確には、地球人の世界)を超えれば、また別の表現も可能になるであろうが。

すべては「相対的にバランスがとれていると思われるおはなし」や「相対的により多くのものを包含した包括的なおはなし」「相対的に、深い美の世界が表現されていると感じられるおはなし」などをめざしていく、ということしか、人間には可能でないのである。それ以上のことは、地球を卒業してからやるべきことである(笑)

伝統の形而上学は、たしかに、自分こそが正しいおはなしであるというのを争おうとしてきた側面がある。特に西洋的な思想はそうである。また、それが正しいお話であることを「証明」しようという試みもあった。また、そういうおはなしは「感覚的経験の示すところにもとづいて、完全に首尾一貫して論証されていなければならない」という考え方もあった。

私はこのような「論証への呪縛」から哲学を解放して、それは「おはなし」なのである、という立場に徹しようと考えている。哲学といわれるものは、世界が存在するとか、自分が存在するということについての、「よりすぐれたおはなし」を探求するということなのだ。すぐれたおはなしを沢山知れば、オウムのような、粗雑で美的ではないおはなしを面白いと思う人はいなくなるはずである。

おはなしであるからといって、イメージだけで、論理がまったくないというわけでもない。そのへんは、たとえばプラトンの対話編などを見てもわかるだろう。ただ「論理のみ」で押していくことにも限界があることは明らかである。

と、ここでさらに問題になるのは、それでは、そのおはなしと、霊的体験のような「体験」の問題はどうなるのか? ということである。おはなしは、「人間が経験しうること」をできるだけ多く含みこむものであるべきだと思う。その意味でも形而上学的経験(日常の領域を超える経験)があるということも、おはなしは含みこんでいくべきであろう。

まあ、そんなことを考えたが、河合の本は、あっちこっち連想が飛びまくりで、まったく論理的でも体系的でもないのである(笑)

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インド哲学の話から霊的ヒエラルキアの話へ

あらためて『はじめてのインド哲学』を再読して思ったのだけど、私自身の立ち位置は、明らかに、仏教とは違う(あとで述べるように、ここでいう仏教は、密教を除いたインド伝統的なものを指す)。

仏教は、もともと、低次の自我を否定するための実践体系として考えられており、無我の思想もそういう目的のものだ。そのため、仏教の非実体説によっては、世界がどのように展開してきたのかという説明は、不可能になる。このことも立川武蔵ははっきり述べている。

ところが、仏教が密教(タントリズム)の段階になると、大日如来からすべてが展開しているということで、本来の仏教色が薄まり、ヒンドゥー教哲学に近い形になるのである。別の面からいえば、密教化した仏教は、ヒンドゥー教とあまり区別できなくなってきたからこそ、インドでの存在意義を失って、インドからはほぼ消失するということになったのだろう。つまり、ヒンドゥー的哲学が仏教をのみこんだ、という形になるだろう。(なお、儀礼的実践が優勢になってきたのも、ギリシア哲学においてプロティノス以降、「テウルギア」が重視されるようになったのと似ている)

ある意味では、禅こそが、仏教本来の行き方を維持している伝統なのかもしれない。

・・とはいうものの、私は基本的には、ヒンドゥー的な表現の方を好んでいることは、否定できない。だから、密教には完全にアット・ホームである。また、ヒンドゥー教哲学の中でも、シャンカラのような純粋な非二元論よりも、「世界はブラフマンの顕現である」ということを強調する、ラーマーヌジャとか、あるいはシヴァ派系統の哲学の方に親和性がある、と自己分析することができる。

つまり、基本としては空海・・というより、空海的なタイプの思想だということになる。実際、日本の伝統がもつ思想のレパートリーの中で、空海がもっとも総合的であり、現代的でもあると思う。これは、仏陀が説いた仏教とはまったく異なる。しかし、それでよいのである。はっきりいって私は、歴史的仏陀にはこだわらない。

西方の思想だと、私の勉強した限りでは、イスラム神秘主義に基礎を置くイブン・アラビーの思想は、密教的な世界観に近いように思われる。井筒さんも結局のところは、空海やイブンアラビーの思想にいちばん共鳴を示していたようにも読めるのだが・・?

立川武蔵は、「世界に<聖なるもの>としての価値を見出す」ことが、インド哲学の伝統だと結論している。

これは、いろいろな意味に使われている「スピリチュアル」ということばの一つの定義としても、使えるものだろう。

つまり、「スピリチュアルとは、世界(そして自己)の根源に<聖なるもの>を見出そうとし、その<聖なるもの>との関連において存在や生の意義を追求しようとすることである」という定義も、なかなかにいいのではなかろうか。

あるいは、日常性=俗とは対立する、「高い次元」の存在を認知し、それとの関係において生のあらゆる面を再構築・再構成しようとする試み――というふうにもいえる。

これは「宗教」という言い方もできるわけだが、ここでは「宗教」とは、上に定義した「スピリチュアル」にプラスして、「複数の人間が共同して構築した、<聖なるもの>探求を目的とする組織的活動」としての性格をもつもの、と考えておく。つまり、本来、宗教はすべてスピリチュアルであるが、スピリチュアルのすべてが宗教とはいえない、ということになる。

話を前の方にもどそう。私は、仏教では、この相対的な世界がどのように構成されているかという世界観が示せないので、仏教だけをもとに21世紀的霊的哲学を構築するのは無理があると思う。基本的に「絶対神からの宇宙の創生と、そこからまた絶対神への帰還」ということが宇宙の基本構造であることをまずおさえつつ、相対的世界の発生については、原型(イデア)論や、世界霊魂(アニマ・ムンディ)、普遍霊と個霊・・などの新プラトン主義哲学の概念を活用すべきであろうし、また、個我の根源とその転生については、サーンキヤ哲学も参考にできるだろう。

実際、いかにして「私」は宇宙の根源へ帰ることができるのか、という実践の問題として受け止めたときに、密教などが示唆しているのは、「霊的ヒエラルキアと魂の成長」というイデーであるように思われる。『はじめてのインド哲学』では、密教の霊的ヒエラルキアという面は、いまひとつ強調されていなかったが・・ 私がいうヒエラルキアとは、「経綸と恩寵」のシステムということである。「人類を導く神々の働き」を意味している。密教的ヴィジョンとは、宇宙とはマンダラであるということである。それはつまり、ヒエラルキアですよという意味だと思う。

現代のスピリチュアル哲学(聖なるものの探求を基礎に置く哲学という意味)としては、「天使のいる場所」を持つということが重要なテーマになっていると思う。絶対者と(地球的な)人間の両極を立てて、その二つの関係を説くような哲学はこれまでにたくさんあるのだが、それだけでは実践的に足りない部分が出てくるのである。間違っているわけではないが、もう少し豊かな内容をつけ加える必要がある。

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意外といけてるインド哲学入門

立川武蔵の『はじめてのインド哲学』を読み直しはじめたけど、これかなりよいみたい。宮元啓一のにちょっと失望したあとだったので、あらためて見直したというか。「追求する姿勢」があるね。もっとも立川さんは別の本では、自己流で修行の実践をやって危ない世界を見た経験もちらっと書いていたので、それはちょっと引く要素ではあるが、このインド哲学論は一本筋が通っている感じ。それと、ラーマーヌジャやマドヴァなど、ヴェーダーンタの後代の展開も視野に入れていて、けっこう侮れないものがある。

少し見直したので、彼による、講談社メチエから出ている「ブッディスト・セオロジー」四部作なるものにもとりあえず目を通しておくべきかな、とも思う。いちおう、現代における形而上学の可能性というのをテーマとする立場からいえば、その方向における壮大な試行ではあろうと思うので、どういうものか知っておくのも礼儀か、とも思ったのである。

ともあれ、インド哲学入門に最適。「スピ本」ばかりじゃなくて、たまにはこういう伝統霊性についての本も読んでみてほしい。同じ著者による『ヨーガの哲学』もお勧め。

4061491237 はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)
立川 武蔵
講談社 1992-11

昔懐かしい、杉浦康平によるヴィジュアルな表紙である。今もこれで売ってるのかしら?

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スピと脱近代

なんというか、締め切りがあるので、気分がゆっくりしませんな。

きのうは新プラトン主義の英語による概説書を読んだ。ここで、欠落していた部分をかなり理解することができた。考えてみれば、新プラトン主義についての日本語のよい概説書など一冊も出ていない。カントやヘーゲルの研究者など掃いて捨てるほどいるのに、新プラトン主義の研究者なんて日本じゅうさがしても20人もいないであろう。エリウゲナ、ボナヴェントゥラなど、新プラトン主義系キリスト教思想家でも、まあ数人というところだ。

哲学というものを、近代ヨーロッパの哲学こそがモデルだと考えること自体、「脱亜入欧」の明治的学問体制の名残だというのが私の考え方である。岡倉天心は西洋文明について、哲学はまったくたいしたことない、美術は東洋とまぁいい勝負、音楽だけは西洋が勝っている、という評価をしていたという。東洋文化の伝統を意識した人間としては、そのあたりが適正な評価ではないかと思うのである。

近代ヨーロッパをとりあえず脇にのけて、人類の哲学思想を大観してみると、このメタフィジック(形而上学=究極的なるものへの知)としては、「みんなてんでに違うことを言っている」ということではなく、表現や強調点の差はかなりあるにせよ、基本的にはかなり似た構造をしているのではなかろうか、という見方ができる。だから正しいという証明になるわけではないが、究極的なるものへ向かうときに人類が抱く思想(イデー)にはある一定の構造があり、人間とはそのように考えて生きるのが「ふつう」ではないだろうか、という感覚を抱く。つまり、人間とは形而上学を求めるものであり、その意味では、ホモ・メタフィジックスなのである。

そういう「共通構造」に興味を示したのが、井筒俊彦である。共通構造を取り出しつつ、その中のいろいろなパターンを示したのが『意識と本質』だろう。

いまの哲学教育だとやればやるほどなんだかわからなくなるだけである。まず、伝統文明における哲学は、似たような基本構造を持ち、いくつかのバリエーションとして展開してきた、という大枠をおさえることである。その上で、近代ヨーロッパの哲学はどのように「特殊」(独自といってもいいが)な方向へ進んだのか、という理解を持つことである。

つまり、現状ではあまりに、近代ヨーロッパ的な哲学のとらえ方が正しいことが、自明とされすぎており、その点が疑われていないことが問題なのである。

いわゆる「スピリチュアル」が、なぜ「オカルト」と同一視されてしまうのか?そのような、「スピ音痴」の風潮が蔓延した原因は、近代ヨーロッパ文明の特殊な性格にあり、それがあまりに無批判に受容されているためなので、スピの正統性を復権させるためには、近代文明批判という観点が欠かせないのである。

つまり、「スピ」は、本来、人類文化の本道なのである。それがなぜ、マージナルな位置に追いやられているのか、それは、ヨーロッパ近代文化の特殊性を、「普遍」と誤認して無批判に受容した、「脱亜入欧」的な価値観が、思想分野をなお支配しているためだということである。

もちろん、ほんとのオカルトというものがあり、それが霊性とどのように異なるのかというのは重要な問題だが、それも、伝統文明の哲学における基本線を理解していればおのずと解けてくることである。

人類哲学史を概観すると、そのもっとも大きな流れは、新プラトン主義とインド哲学である。新プラトン主義は、ギリシア哲学を集大成して、セム系一神教と結合し、キリスト教、イスラム、ユダヤの哲学に巨大な影響を与えている。一方インド哲学は、仏教を分派として生み出し、中国や日本の思想の主要部分を形成している(中国における、仏教以外の本格的な哲学は、宋学だけなのだが、それもまた、仏教に触発されたものだ)。つまり、伝統哲学の大部分は、新プラトン主義(と一神教)、インド哲学の流れの中に入ってしまうのである。つまり、まずその二つをおさえるということが大事なことである。

ということなので、もし人類の哲学的古典から選抜するならば、西ではプロティノスの「エネアデス」、東ではシャンカラの「ウパーデシャーサハスリー」あたりを選ぶことになるかもしれない。この両者を読むと、驚くほど似ていることに気がつくと思う。(より正確にいえば、プロティノスよりももう少し後代の新プラトン主義の方が、シャンカラ的幻影説に接近するのであるが)

新プラトン主義でも、イアンブリコスや、のちのアテネ学派などになると、「テウルギー」、つまり霊的実践(儀式とかヨーガ的な修練)が重んじられるようになり、その点でもインドと似ているなあ、と感じられる。

つまり、ここで言いたいことは、伝統文化における哲学には、一定の基本があったということであり、そこまで普遍的なものであったとすれば、あれこれ言う前にまずそれを学んでみてくれ、ということである。批判するにしてもまずそれをよく知ってからの話である。ほとんど何も知らないまま、オウムをみろ、だから神秘主義(スピリチュアル)は危ないんだ、などという粗雑な議論が多すぎるので、そういうくだらない本はもう読まないようにしていただきたいのである(編集者も勉強して、そういうレベルの本を出さないようにしていただきたい)。言わせてもらえば、オフサイドとはどういう意味なのかも知らない人がサッカーを評論したりするようなレベルのものがまかり通っている。

つまり、私はここで、これまでの常識的な「哲学史」とは全く違う視点を持って、人類の哲学的遺産を眺めているということである。それは意識的に、「脱西欧」的な視点を取るのである。近代ヨーロッパ文明と対決し、その或る部分を拒否するということである。

残念ながら、私も、多数の本を(洋書を含め)つなぎあわせて、ようやく人類哲学史の概観に達することができたので、一般の人が、これを読めばとりあえず全体が通観できる、というような本はまだない。井筒の『意識と本質』くらいしかないのだが、これは入門レベルではなく、また「共時的」つまり歴史的な書き方ではないので、ちょっとむずかしい。インド哲学とそこから派生した仏教の展開、それが儒教・道教・神道の思想に与えた影響をトータルに把握する思想史はまだないし、また、ギリシア哲学からプロティノスで頂点に達し、そこからセム的一神教とからんで、イスラム哲学、キリスト教哲学、ユダヤ哲学と展開していった西洋の思想史全体を概観できるような本もない(現状でいちばん近いものはアームストロングの『神の歴史』かな。訳されてないが、ナスルの Knowledge and the Sacred がかなりいい)。またそういう西洋伝統思想史の理解に立った上で、オッカム以降の近代ヨーロッパ思想に生じた変動の意味を理解できるような概説もない(デュプレの本はある程度それに近いのだが、翻訳は出ていない)。つまり「文明史」という位置づけにおいて把握するような試みははなはだ少ないのである。そういう理由で、いま世に出ている哲学史入門書のたぐいはまったくおすすめしない。それはほぼ100%、近代哲学の立場を自明とする視点から書かれているからである。

ということであるが、メタフィジックに関する研究・仕事は、いちおう今度の本で集大成し、自分にとっての総合に達しようと思っている。

それ以降は、私が最初に手がけていた「神話的思考」というテーマに回帰して、神話学の研究――それも、霊性と関連させた上での「スピリチュアル神話学」の構想へ向かおうと思っている。これは、ジョゼフ・キャンベルによって示されていた方向性なのだが、今の日本では、そういう神話学の方向性を受け継いでいる人がいないのである。

そんなわけで、神話や物語関係の本も、少しずつ集めている状況である。このテーマについては今後、ここでも少しずつ書いていきたい。

なお、上に書いた「くだらない本」の代表として、池田清彦の『科学とオカルト』をあげる。このアマゾンリンクで、最初の二つのレビューは、実は私が書いたものである。この本は何と、講談社学術文庫で再刊されてしまった。・・(以下、お聞き苦しい表現となるので削除します(^^;  )

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井筒俊彦について

井筒俊彦は私にとって20代くらいから「スター」であり、天空にきらめく明星のごとき存在であった。まさにこれこそ、哲学のお手本であり、思想とはこういうものであるべきである。

幸いにも近所の図書館に著作集があり、体系的に読み直している。

あらためて気づいたのは「言語の深層」への関心が、たいへん強いことだ。その当時の構造主義的な世界理解の、ずっと先、深奥の領域に視線をそそいでいる。特に空海の言語哲学、あの「声字実相義」の世界に、かなり好感を抱いているように、思われる。またそれは、イブン・アラビーの「存在エネルギーの湧出」という世界観とも親和的である。その意味でやっぱり、『イスラーム哲学の原像』が、井筒思想への入門書であると同時に中核でもあるだろう。

井筒の言う「言語アラヤ識」とは、むしろ、「世界地平生成の作用」というものであることが明らかになってきた。言語というが、それは「原言語」なのであり、必ずしも、表層の言語のことを言っているのではない。空海の言うような、世界は仏のコトバであるというイデーを視野に入れているものだ。つまり、ロゴスに近いのである。

つまり言語アラヤ識は現象学の深層とでもいうべきことがらに関連しているように見える。例の、永井晋の『現象学の転回』は、もう少しでそこに到達するところまで来ていると思うが、まだそこには、井筒への言及はあまりない。

ただ、井筒の著作全体を見ても、体系的な著作というのは見られない。井筒形而上学とはどういうものであるのか、理論的な著作を残してほしかった。

存在のゼロ・ポイントである「無」を基底として、そこからの存在の湧出として、全世界を見る。全世界は、つまり、幻想ともいえ、また神の顕現ともいいうる。この世界観は、相当にうまく表現されている。

ただ、これはナスルなどの伝統主義哲学にもいえることなのだが、私からみて重要なコンセプトが、そこにはまだ入っていない。それは、「世界霊」の問題と、「輪廻とその主体」という問題である。

現在のスピ的世界観は、そこまで入れないと、完成しないと思っている。

それをやっているのは、私の知る限り、まだ世界にはいない。というわけで、いちおう私は、世界の最先端に立っていることになる?? ・・などと考えると、気分がよくなってくるので、「それは陶酔では?」というツッコミは無視して、ポジティブに考えることにしよう(笑)

4004201195 イスラーム哲学の原像 (岩波新書 黄版 119)
井筒 俊彦
岩波書店 1980-05

4003318528 意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
井筒 俊彦
岩波書店 1991-08

余談だが、「スピ」ということばがどう使われているのか、なんだかいろいろで、収拾がつかない。「スピリチュアル」ということばを私がどう定義しているかは、何日か前に書いたので参照いただきたい。しかし、「スピリチュアリティ」という用語は私は決して使わない。いよいよもってわからなくなってくるからだ。

さしあたり私は、現今のスピ・ブームとは一線を画している。もともと形而上学についての関心は20代ころからあったもので、そのことから井筒を読んでいたわけであり、最近のスピ本ブームで目覚めたわけではない。あくまで伝統形而上学の大きな伝統を受け入れて、新しいものは、それに照らして認めるべきものは認める、という形をとっている。

逆に、最近のスピ本だけを読んでいる人は、「本当にこれでいいのか」と不安に感じることもあるらしい(というお便りをもらったこともある)。その意味で「伝統を知る」ことは安心感を与えると思う。つまり、これは現代社会でこそマイノリティーであるが、本来、人類文化の本道だと、自信を持って言いうることを知ってもらいたいのである。

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基本に戻って――スピリチュアルとは何か、ついでに霊的進化論のこと

ともあれ、スピリチュアルといえばオカルトとどう違うのかわからない人が多数を占めている現状で、「霊的事象を知的に扱うことが可能である、それどころか、そういう『形而上学』という分野があり、それは本来、文明世界がもつ知的秩序の中心を占めるべきものである」というイデーを広めるということがいま私の目標となっている。

形而上学というのは、「特定の宗教に偏らない神学」ともいえ、その意味で「普遍神学」という言い方もしている。

スピリチュアルというのは本来、spiritの形容詞形である。spiritとはでは何かといえば、それは「宇宙根源にある非物質的な原理」である。キリスト教的にいえば神、中国的にいえばタオということである。そして、そのspiritは、私たち人間の中核でもあるというイデーがある。つまり、私たちはそれぞれ、宇宙根源のspiritをなしがしか分有しているのであり、それが私たちが「意識」を持っていることの起源なのである。

こうした根本的なイデーに立つのが、私のいう(というか、伝統主義思想でいう)「スピリチュアル」ということである。それについては何らゆらぎはない。確定していることがらなのである。

つまり、スピリチュアルということには次のようなイデーが入っている。

1.すべての存在、すべての生命はある「根源」に由来している。

2.その根源は非物質的であり、精神(スピリット)である。

3.「私」が存在するのは、この根源の精神を分有するからである。

4.「私」の根源にある精神は、宇宙の根源と同一のものであるが、そのことを「思い出す」ことが可能であり、そのための道が存在する。

これらをすべて受け入れる世界観を「スピリチュアル」と呼ぶのである。

その限りでいえば、たとえばモンローや坂本さんの描いている世界観も、この要素は満たしているといえる(坂本さんの最近のぶっ飛び話はひとまず置いておくことにして)。

まず何よりも、そうした「存在と自己の根源」へ思索が届いているかどうかが、最大のポイントなのである。

根源を問わなくなった学問は、まっとうな「知」と言えるのか、という価値論的な問題提起も含まれている。

わかりやすい言い方をしよう。人間は、サルから進化したというのは真っ赤なウソである。人間は、非物質的な領域から物質領域に「降下」したことによって、ここに生きているのである。

これはつまり、ダーウィンの進化論というのは、何ら証明されていないイデオロギーであり、信じるに値しない説であるということである。これは、科学が形而上学的問題を扱えないにもかかわらず、無理やり万物の起源について説をなそうとしてつくりあげたフィクションである。

なお、「霊的進化論」とはまったく別のものである。人類は霊的に進歩していく、という考え方はキリスト教によって伝えられてきたイデーであり、ダーウィンとは関係ない。現在「精神世界」系でひろまっている霊的進化論は、ほとんどキリスト教に由来していると思う。ただ、科学と形而上学を接合しようという、テイヤール・ド・シャルダンやケン・ウィルバーなどには、ダーウィン的な進化論の影響も認めざるをえないであろう。

精神世界系でひじょうに広まっている考え方に「アセンション」というものがあるが、これはきわめてキリスト教的な思想である(だから駄目だ、と言っているのではないので間違わないように)。インドなどの思想は「スピリチュアル」ではあるが、すべて、個人が解脱していくことのみを目標としている。人類が全体として霊的な完成へ向かっていく、という思想はキリスト教に由来するものである。つまり地球全体が「神化」へ向かうということだ。近代でこういう思想がはっきり出てきたのは、東方キリスト教の伝統を受け継ぐロシアの思想においてである。ゲノンやシュオンを始祖とする「伝統主義――永遠の哲学派」には、このイデー(そして輪廻のイデー)だけが欠如している。地球神化というヴィジョンはキリスト教が保持してきたもので、今それが大々的に普及してきているというのは、思想史的に見てひじょうに特異なことである。私はそこに、「何か」があるという直観を抱いている。キリスト教がこのイデーを守ってきたことには人類的な(そして地球史的な)意味があったのではないか、と思えてならないのである。

なお、精神世界系の霊的進化論を、ダーウィン進化論の影響だと言っている人がいるが、それはキリスト教についての勉強不足から来る誤りである。

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井筒俊彦『意識と本質』

4003318528 意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
井筒 俊彦
岩波書店 1991-08

いや、ひさびさに再読した。この本はやっぱり面白い。というのは扱っている世界が、あちらからこちら、めくるめく饗宴という感じになる。

プラトン、新プラトン主義、イスラーム哲学(イブン・シーナー、イブン・アラビー)、ヴェーダーンタ、サーンキヤ、ヴァイシェーシカ、禅、孔子、宋学、真言密教、カバラ、シャーマニズム・・

しかし気がついたのは、この本には、結論がなかったんですね。意識と本質という問題について、東洋哲学をいくつかに分類したという本であって、「井筒哲学」を展開しているわけではないのだった。

西洋哲学ではドゥンス・スコトゥスくらいしか出てこなくて、近代哲学を無視しているのも小気味よい。

「意識と本質」というが、井筒のねらいとしてはむしろ「深層意識と本質」という感じなのである。深層意識という領界から本質論を照射するわけで、こういう試みは近代哲学にはないものだ。

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輪廻の主体

(前項「宮元啓一への批評」につづく)ただ、宮元啓一のメリット面をあげさせてもらうと、仏教の形而上学的な無我説が思想的に維持しにくい立場であるということはよく理解できた。

私がもっとも注目するポイントは「輪廻の主体」ということだが、ヴェーダーンタ、サーンキヤ、仏教の所説を見ていて、いちばん無理のない立論の仕方はサーンキヤかもしれないなと思った。それで、宮元の、サーンキヤ経典解説の本だけは買うことにした。

私はこれまで唯識のアラヤ識説を一つの根拠にしていた。しかしサーンキヤだと、輪廻の主体は「微細身」であることになる。

私はここで、サーンキヤと新プラトン主義の類似を感じる。つまり精神性と物質性の二元性で宇宙を説明し、その両者を両極とするグラデーションがあり、中間界として微細身状態があることをうまく説明するのだ。

もっとも、輪廻の状態にあるものは基本的に微細身の状態にあるものの、その根源的な「主体」となると、それは神的自己(アートマン)の分有と考えざるを得ないし、サーンキヤでいう個的自己の根源としての「ブッディ」を、アートマンの分有としてとらえても差し支えないように見える。

ヴェーダーンタには分有というコンセプトはあるのだろうか。この考え方を使えば、一元論からの多元の展開をそれほど無理なく説明できる。

したがって、分有をコンセプトとして、ヴェーダーンタの一元論とサーンキヤの二元論を統合するような道が、新プラトン主義も参考にしているとありうるような気がしてくる。このあたりは、次の著作のテーマとなるのである。

一元論と二元論は表現のしようであって、もともとそういう論理で割り切ろうというすることに無理がある、というのが日本人としてはふつうの発想ではある。しかしこれはインドではふつうではなく、あくまで決着をつけねばならないと考える人たちであるらしい。だが日本人の思想は、ある意味で「やおよろづ」てきな何でもありという側面があっても、それはそれで伝統に則している思考法であるようにも感じられる。それを統一する何かがあればよいのだ。空海における大日如来のごとくにである。

しかし輪廻については、私は、宮元が最も嫌いな、「輪廻と霊的進歩」というイデーを昂然と主張するつもりである(笑) オリゲネスや野呂芳男という先駆者もいることだし。霊的進歩というイデーを信じない人の霊的進歩は、ひじょうにスローなものである。信じない人はこの際ほっておくしかない。私は、如来・菩薩は人類の霊的進化を助けるべく天界から助力している、という大乗思想を完璧に肯定するのである。したがって、この大乗を危険思想などと攻撃するのは「謗法」にあたると思うが、あまりそれをいうと一部の法華系教団みたいになってしまうから、セーブしておく。少し敏感になればだれでもわかるのである。ともあれ、この大乗的イデーが私の価値観だから、それをはっきりと主張していくつもりである。

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宮元啓一への批評――功罪相半ばす?

宮元啓一のインド哲学論を少しまとめて読んでみた。

彼は、最近ものすごい数の本を出している。これは、インド哲学についてわかりやすく書ける能力のある人材が少ないためで、今の出版事情だと、ある程度の部数が見込めるという著者に依頼が集中する傾向があるためだ。宮元は、ウィルバーが売れなくなった後では春秋社の貴重なドル箱というわけであろうか。あともう一人、立川武蔵がいて、インド哲学をもとにした三部作の哲学書を書かせた出版社もあったが、それだけ、インド哲学に期待する読者層はあるものの、書ける人は限られている、という事情があるのだ。

で、宮元なのだが、読んでみた結果、「功罪相半ばする」という印象を持った。

インド哲学についてわかりやすく書けるというところは、たしかに本物である。読みやすいし、教えられるところも多い。

が、どうも、宗教の問題について、理解が深くない。というより、はっきりいって信仰ということがらに関してはほとんどオンチに近い人だと思った。また、西洋哲学やキリスト教との対比が出てくるが、その理解はお世辞にも深いとはいいがたい。深くないくせに、嫌みな口調で皮肉をいう。こういう性格的なものがどうも嫌いだった。

たとえば、ハイデッガーは世界内存在しか問わないというのも誤りだし、キリスト教は自由意志を重視しないというのは、一部の極端なカルヴィン主義だけをとりあげて、キリスト教思想の主流は自由意志重視であったことを知っていない。

基本的に、インド哲学の伝統の中にいる人ではなくて、あくまで日本人が外側から好奇心をもって眺めたらこういうのもできるのか、ということだ。インド哲学とは、自己の探求を哲学の課題とするが、宮元自身は自己を探求しているわけでもないらしいからだ。

うがった見方をすると、彼は、ある程度以上の世界が開かれていくのを本能的に恐れて、そこにフタをする傾向があるのではなかろうか。臨死体験への対応などにも、それがうかがわれる。

宗教体験というのは、自分の殻を破るように高次元のエネルギーが流入することである。彼は、これを恐れているように感じられた。学者にはよくあることだが。

特に、「他力」や、神への全託という思想について、これは危険思想であると繰り返しむきになって主張する、その感情的エネルギーに何か彼自身の問題を感じさせる。そして大乗仏教を、危険な救済主義だといって論難する。彼にいわせればバガヴァッド・ギーターも危険思想なのである。

このような、宗教に対する偏見ともいえる叙述が散発するので、有益な情報を含む本にもかかわらず、なかなか初心者にはおすすめしにくいものがある。

信仰に対する深い理解と、自己の根源への探求から学問をおこなっている、キリスト教系の、稲垣・谷・大森などの著作に接しているものから見ると、宮元の反霊性思想ぶりは顕著に目につくところであり、率直にいえば、その著作の、インド哲学をわかりやすく紹介するというプラスのカルマも、こうした妄言によるマイナスのカルマによってかなり相殺されてしまっているのではないかと心配される。

『インド死者の書』は、輪廻の主体とは何かという、私にとってははなはだ関心の高いテーマを扱っており、有益な情報を含むのだが、彼の「個人的見解」はスルーして読む必要がある。一つだけ書いておくと、彼は、「輪廻とは霊的進化のプロセスである」という考え方を、ダーウィン進化論に影響された超危険思想であると決めつけているが、これは彼の無知による解釈である。霊的進化の思想はもともとキリスト教が持っているイデーであり、それと輪廻思想が結びついているのは、すでにオリゲネスの思想に見られる。西洋的霊性の世界をほとんど探求したことがない彼が、キリスト教の「歴史における神化」という思想を知らないのはしかたがないが、突然、感情エネルギーを丸出しにして危険思想よばわりを始める彼の悪癖はなんとかならないものであろうか。ともあれ、彼は自分の専門にしている思想以外では、相当に間違ったことを言っていることがあるので注意が必要である。

というわけで、まあ、買うほどのものとは思えないが、図書館にあれば一読する価値はあるだろう。ただし、彼の悪癖にまどわされないよう十分な注意が必要で、思想史の初心者には勧めにくいなあ、という感じであった。宮元は、これ以上「謗法のカルマ」を積まないよう注意しないと、来世に響くのでその点は本当に心配である。

霊的な事象について書くというのは本当にこわいことなのである。宇宙の真理に背くことを書き、それを信じる人が多く出てきてその人たちが道からそれてしまうと、膨大なカルマを背負うことになるのである。その人たちがみな救済されるまでは救われないのだ。そういう緊張感をもってあたらないといけない。

本当は、インド哲学について、霊性的哲学の展開を期待する読者層も多いはずなのである。その部分をカバーしてくれる人材は、玉城康四郎なきあと、残念ながら日本にはいない。宮元啓一くらいのレベルのものがたくさん本を出すのは、ほかに人材がいないという日本思想界の状況からくることなのである。宗教オンチの人がインド哲学を講ずるなんて変な世界である。

したがって、「インドの霊性思想」を求めるならば、ヴィヴェーカーナンダなど、インドの霊的伝統の内部から書いているものを参考にするのがやっぱりよいように思われる。右コラムにあるヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』もどうぞ!(と、勧めるのは、私自身がヨガナンダ師から受けた恩恵に感謝するためでもある)

なお、ふつうにインド哲学史入門としては、むしろ立川武蔵『はじめてのインド哲学』(講談社現代新書)のほうが無難だと思う。宮元の『インド人が考えたこと』は、人がいうほどいいとは思わなかった。

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仏教と霊的ヒエラルキア

いろいろ宇宙ヴィジョンについて考えるのに、「日本の伝統をふまえて」ということは、実はそれほど気にはしていない。私も過去に、日本にばかり生まれたわけではないわけだし、そういうことはあまりとらわれなくてもいい時代にはなっている。かといって、各文明には伝統によって形成された霊的ヒエラルキアの体系があるわけで、それに対する尊重は必要だ。

日本の伝統といえば仏教だが、これは歴史的ブッダの仏教とは相当に違っている。

歴史的ブッダとは、インド思想の中ではアノマリーである。ふつうではない。なぜふつうではないかというと、「永遠の自己」の実在を否定するし、宇宙の究極的実体も否定するし、霊的ヒエラルキアも説かないからである。

これは当時のバラモン教のあり方に対する宗教改革であったわけで、アンチテーゼという意味がある。が、これはあくまで「余計なものを捨てる」ことにウェイトが置かれたもので、ポジティブに何かを表現する思想ではない。つまり、否定神学という意味合いがある。スピリットの世界の超絶性を強調するのだ。その意味では、ナーガールジュナも、禅も、そういう仏教精神を忠実に受け継いでいるものだ。

なるほど、こういう選択肢を人類が持っているということも必要であったのだな、といえる。だが、こういう仏教だけではまた、霊的思想として不十分であることも事実だ。というのは、この思想は基本的に唯名論である。すべての実在性を否定する方向である。その反面、ここに現象している世界が絶対の顕現である、という側面は弱くなる。イデア的なるものは究極的には幻想であるが、相対的には実在である。

「永遠の自己」は、究極からみれば幻想ではあるが、相対的には実在する。そうでなければ、輪廻の主体というものが立てられない。「自己はない」と仏教が言ってしまうとき、そこには「自己の多元性」という思考があまり入っていない。表層的な自我意識が幻想であることを言おうとするあまり、永遠の自己がその深奥にあるということも否定している。これは思想としてはやや行きすぎ、偏りになる可能性がある。

宮元啓一氏は、仏教徒が尊崇する「ミリンダ王の問い」について、「仏教の言う論理はどうみたって無理で破綻している」などと、例の口調で言い切ってしまっており、仏教徒が聞いたら椅子から転げ落ちそうであるが、それはまったくあたっていないというわけではなく、私もまた、仏教が「永遠の自己」さえも否定するのはいきすぎであり、思想としてバランスの悪いものになっていると見る。それはもちろん、現在という立場から見てということである。

世に何十冊もあるであろう般若心経入門の本だって、たぶんだいたいは、「自我の執着から離れなさい」「この世には何も実体はない」ということをいっているわけで、これは唯名論的宗教観というべきものである。

こういう唯名論的仏教解釈は、たしかに正しいが、正しいというだけでは足りない。霊的世界観として現代人に訴えるためには、もう少し実在論的(ヨーロッパ中世の普遍論争の意味で)でなければならない。つまり、いまそこにある形態をもった現象があるのは、絶対精神の顕現だということもいわねばならない。つまり、「そこに何かがある」ということを絶対的に肯定できるという部分がないと、思想としてバランスを欠くと思うのだ。

たぶん、そういう方向を示しているのが、空海の密教哲学である。

空海の思想は、歴史的仏陀の仏教とはまったく似ても似つかぬものである。はっきりいって、これは唯名論ではなく、有神論的仏教である。宇宙の中核には大日如来という絶対神がいる。そして大日如来が無限のエネルギーを放射し、さまざまな如来、菩薩、明王等の霊的ヒエラルキアをつくりだし、さらに自然界全体をそのエネルギーで満たしているのである。そして私たちの精神の中にもそのエネルギーが入ってきており、そのルートを通して私は大日如来と一体化するところまで上昇することが可能だ・・ これは、仏陀の教えたこととはまったく違うことである。しかしながら、私が受け入れている仏教とは、まさしくそのようなものである。

これはもちろん、空海が独力で造り出したものではなく、ブッダというものを宇宙的な存在と見なすようになるのは、大乗仏教がおこり、密教へ展開する中で、徐々に起こってきたことである。

むかしから「大乗非仏説」という論があって、つまり、大乗仏教はもはやブッダの教えとは違うものである、という主張がある。これは、まったくその通りである。しかし、「その通りですがそれが何か?」ということである。

歴史的ブッダというものは、そもそも宇宙的なブッダの化身の一つである、という理解は「仏身論」という考え方の中にあるものだ。現在の「精神世界」の考えには、ブッダとは宇宙的マスターの一人であり、その肉体的化身(つまりインドでいうアヴァターラ)が歴史的ブッダだ、というものがあるが、これに似た考えはもともと大乗・密教の中にはあったのである。

したがって、現在の霊的世界観を考えるにあたって、そこに仏教が参照されるとすると、それはもっぱら空海的な仏教になってくるのである。そちらの方が、はるかに普遍性がある。歴史的ブッダとか、その流れをくむ龍樹や禅などの思想は、特に執着が強いような特殊な場合にあてはまるべき例外的なケースである。歴史的ブッダの思想は反世界観的であって、それをもとにして何かの世界観を構想すること自体が基本的なまちがいである。

歴史的ブッダが何を言ったか、ということにとらわれなくてもいい。それとまったく違っていてもいっこうにかまわないのである。私たちが目を向けるべきものは宇宙に遍満する宇宙的マスターとしてのブッダである、と言ってもさしつかえないだろう。それは空海の思想をいいかえたものにほかならないのである。

かくして、いつのまにか、空海への信仰告白となってきました(笑)

高野山大学はぜひ、「スピリチュアル哲学科」を創設して、私を招聘していただきたい(爆)

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伝統文明の霊的ヴィジョン

ナスル先生の『イスラム哲学 起源から現在まで』のところどころを再読しているが、すばらしいものである。一つの文明が抱いていたヴィジョンを明解に描き出している。それにしてもイスラム哲学は明快である。シンプルですっきりしている。そこへ行くとキリスト教哲学は・・なんといっても中心に「神の子の受肉」というものがある。このようなものが哲学に持ち込まれるのであるから、ややこしくなり、なんだかよくわからなくなるのだが、そこがまた、キリスト教哲学のおもしろさともいえるのである。イスラムのナスルに対して、キリスト教哲学にはジルソンがいる。・・しかし、ジルソンは神=存在という形而上学的原理を中心としているので、あまり、キリスト論は前面に出てこないような印象を受ける。キリスト論に深入りしなければ、キリスト教哲学もややこしくなくなるのだが。

私自身は、キリストを神の子とは見ない。かといって単なる人間でもない。位階的には「天使」にあたる高次元存在が人間の肉体に受肉したものと見る。こう考えるのはキリスト教徒の考え方ではない。しかし、他の文明の宗教思想とも整合的に理解しようと思えば、そうなるほかない。ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』に出てくるマハーアバター・ババジ師、あれをもっとスーパーにしたようなものがキリストなのではないだろうか。私の直観では、キリストほど高次元の存在が地球に降下したことは、歴史上にそれ以外にはなかったのであろうし、キリストが地球に来たことによって、地球という領域と高次元領域との何らかの調整がおこなわれ、地球の進化方向が修正されたことは間違いないと思う。

・・と、いきなりぶっ飛び話に転じたように思う人もいるかもしれないが、私にとっては何の矛盾もないのであって、この程度の話は簡単に許容できるのが、普遍神学というものである。高次元世界や天使・菩薩的存在もみな肯定しているのであるから、そこから地球人へ助力が差し伸べられているというのもまったく当然の話なのである。

そういえばこの前読んだチーサムの本に、コルバンは伝統的なキリスト解釈に異議を唱えて、「ドケティズム」(仮現説)を支持したという話がのっていた。私のキリスト解釈もそれに近いのだろうか。いや、私の場合、たしかに肉体に入ってきたと思うので、最近の精神世界用語でいえば「ウォークイン」ということになるかな(笑)

話は戻すが、こういう伝統文明の霊的ヴィジョンを描き出すような本をもっと読みたいものである。特に、インド、中国の思想についてそういうものを期待したい。狭い意味の哲学ではなくて「精神史」のようなものである。

というのも私はやはり、「人類の叡知の伝統」を全体として俯瞰してみたいという欲求がどうしてもあるようだ。なかなか、狭いところにしぼりこんでいくのは苦手である(笑)

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シュタイナーには引く部分も・・

気がつくと最近はシュタイナー系のものを読まなくなっている。

たぶんそれは、シュタイナーが言っているイデーの大半は、伝統哲学をよく学ぶと出てくることであるからだろう。つまりシュタイナーの名前を出さなくても言えてしまうわけだ。たしかに一般の人には、霊的な世界観をコンパクトに学べるという点でシュタイナーは役に立つところもあろうが、問題は、ところどころにとんでもない超ぶっ飛び話がまざっていることである。二人のイエスだとか、土星紀だとか、強烈なトンデモ話が織り混ざっているので、なかなかシュタイナーを引用したりすることができない。まあ、わからない部分は、一種の比喩なのであるか、あるいは、戦略的にわざとそういう書き方をしている可能性もあると思うが、ともあれ、少しでも学術的な形式を取ろうと思えば、避けて通らざるを得ない。正直いうと、私は、彼の「霊視」が、どこまでことの真実に到達しているのか、もう一つ確信がもてない。それが真実だと信じてディープに学ぶことを否定しないが、それはやはり信仰的な行為だということになる。思想という領域は踏み越えているということを自覚するべきだと思う。ともあれ、私としてはちょっと引いているのが現状である。

彼の出しているイデーのいろいろは、近代文化のクリティックとしては妥当なものも多い。ただどうしても、そういうオカルト的なものとセットでやってくるというところが困惑してしまうわけだ。近代文化のクリティックであり、霊的な文化のあり方を示しつつ、そこまでオカルトに踏みこまず、信仰的な飛躍を要求しないもの、それでいて、霊的世界観がコンパクトに説明されているもの――というのが、必要なのではなかろうか。そういうものは、東西の伝統哲学をバランスよく統合していけば、十分に可能なのである。

そこで、このまえも書いたように、ナスル先生のような伝統主義哲学に、多少の修正を加えたようなものが、存在するべきだと思う。それはこれから書かれるわけであるが、現状としては、やはり、右にもあげてある『忘れられた真理』と『魂のロゴス』などくらいしか、あげるべきものはないだろう。英語には、ずいぶんたくさん出ているのに、残念である。日本の読者は、シュタイナー、ウィルバーくらいしか選べるものがないということであろうか。

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トム・チーサム二冊目

読書記録だというなら、書いておかなくては・・ということで、トム・チーサムさん、『裏返しの世界――アンリ・コルバンとイスラム神秘主義』につづいて、第二弾という本も読みましたよ。その名も『グリーン・マン、アース・エンジェル』である。アース・エンジェルといってもドリーンとはまったく関係がないので誤解せぬよう(誰もしないか・・)。

この人の本は、あんまり学術的という書き方でもなく、評論という感じ。一冊目が、コルバンの紹介を意識していたのに対し、これはコルバンの見ていた宇宙を肯定する立場から自由なるインプロヴィゼーションをしている、てな感じかな。現代版エイヴンズという感じもしないでもないが。

そんなに感動するというほどではないが、読んでも損はないかなというところだ。イデー的にまったく初めてというようなものはなかった。しかしともあれ、このせちがらい世の中で、新プラトン主義的階層宇宙論と、神と天使の実在を肯定している思想を表明している以上、お仲間として迎えなくてはならない。

こういう世界観にまったく触れたことのない人は読んでどういう感じがするものなのだろうか。

0791462706 Green Man, Earth Angel: The Prophetic Tradition and the Battle for the Soul of the World (Suny Series in Western Esoteric Traditions)
Tom Cheetham
State Univ of New York Pr 2004-11-04

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ジルソンの『神と哲学』――存在の根本問題

ほとんど読書記録と化してます(笑)

ジルソンの『神と哲学』英語版を買っておいたのを読んだ。小著なので、そばを食べるようにするすると。

いや、名著ですねえ。これは形而上学的問いの中核とは「存在」への問いであるということと、その「存在そのもの」を神としてとらえ、それとのパーソナルな関係を確立したことがキリスト教哲学の意義であること、そして近代以降はその本質が見失われてきたということを述べている。

これは私が知っていたことだ――というのは実は、私はジルソンからこのことをはっきりと学んだのである。それを再読したのだから、知っていたのは当然のことであるが(汗)。

日本語版は絶版なので、借りて読んだが、どうしても手元に置きたくて英語版を買っておいたのだった。やはり、西洋哲学の話はヨーロッパ語で読む方がよくわかるようである。

この小著から展開していけることはいろいろあって、たとえば、ハイデッガーの哲学は、近代における忘却を超えて、哲学史上ひさびさに「存在」の問題にフォーカスしたものであったという意義があること、しかしながら、ハイデッガー哲学には、かつての形而上学と比べて致命的な欠落があったのではなかろうか――というようなことも見えてくるわけである。

また、「存在の根本」を神としてとらえ、そこから形而上学を展開したのは、ヨーロッパ中世哲学だけではなくて、イスラム哲学もそうであったはずだ、ということも思い浮かぶ。西洋では、トマスの後、スコトゥス、オッカムと低落してきて、デカルト、カントによりついに息の根を止められてしまった「存在の思考」は、イスラム哲学では「神智学」の方向に発展したという「歴史の分岐」を認めることもできるだろう。

あるいは、インドや中国の哲学では、こうした「存在の根本」は忘却されることはなかったのではないか、ということもある。

もちろん「存在の根本」の問題は、「永遠の哲学」が主張することのすべてではないが、その最も根本のことがらであるにはちがいない。

↓まっ白な表紙なんで、写真がよく見えませんね(笑)

0300092997 God and Philosophy (Yale Nota Bene)
Etienne Gilson
Yale Univ Pr 2002-03-01

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伝統主義思想とそれにつけ加えるもの

またもナスル先生。最新刊の『真理の庭園』は、スーフィズムの教えをもとに霊的世界観を要約して示したもの。これはスーフィズム「研究者」としてではなしに、自ら「スーフィー」として、実践家として書いたもの。

0060797223 The Garden of Truth: The Vision and Promise of Sufism, Islam's Mystical Tradition
Seyyed Hossein Nasr
HarperOne 2007-09

知るべきことがコンパクトにまとまっているな~ と感心しきり。

これと、思想哲学部門をまとめている Islamic Philosophy from its Origin to the Present をそろえれば、イスラム思想・霊性はほとんど概観できる。

ナスル先生はシュオンの流れをくむ伝統主義哲学者でもあるが、シュオン自身の本よりも、この本の方がずっとわかりやすい。特にスーフィズムという限定を付すことなく、「霊的世界観入門」としてもいいものではなかろうか。

私のいうスピリチュアル哲学というのも、コアの部分では伝統主義哲学なのである。

ただ、少しだけ、ナスル先生のヴィジョンにつけ加えたいものがある。それは第一には、転生論である。これは仏教的霊的風土に育った人間が、伝統主義思想に対してつけ加えるべき要素だと思っている。

もう一つは、キリスト教思想に内在していた、地球神化論である。ナスル先生は、地球が神化の道を歩むというヴィジョンを肯定していない。それは歴史のレベルと霊的レベルを混同することだと反対している。要するに、「この地上に神の国は実現するのか」ということだ。このヴィジョンはキリスト教にはあるがイスラムには決して存在しないものであるらしい。しかし、地球神化というイデーをどう受け止めるかということはもう一度考えてみる価値がある。

第三は、エネルギー論的視点である。つまり神の創造の息吹、「スピリトゥス」が、全存在に行き渡っており、この霊的エネルギーの活用が、霊的発達においても重要な意味を持つ、という視点である。これは修行論につながるが、これもまた、東アジアの「気」の伝統にある人間から言うべきことであるように思われる。

第四には、「世界霊魂」anima mundi の問題をもう少し前面に出して、地球領域の性質について考察することである。

世界の多次元構造、身体の多元性(微細身体の存在)、天使的存在とその恩恵――などの要素はすでにナスル先生のヴィジョンに入っているので、つけ加えることもない。ただ微細身体論は霊的エネルギー論との関連でとらえていくことができる(エネルギーと意識との関係という問題も入る)。

これはむしろ、「ピュアな伝統主義思想」を提示するものである。しかしまた同時に、現在の多くの日本人のように、特定の宗教に深くコミットしない状況で、つまり観音もミカエルも受け入れるような精神状況において、霊的な道とはどのような形であり得るのか、という問いを基本にもっているのである。

なお、私がウィルバーに批判的なことをいうのは、ウィルバーは、伝統主義思想にいろいろなものをつけ加えて(それが西洋心理学とのドッキングということだが)、違うものにしているからである。彼の、世界の多次元階層についての理解も、伝統的な理解(新プラトン主義など)からは相当にずれている。こういうものを「いい」と言う前に、まずピュアな伝統主義思想を知ってもらいたい、というのが私の希望なのである。

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またもデュプレ

あいかわらず、実践モードのことはまったく封印したブログポリシーである。最近アクセス解析を見ていないが、さぞ減ったのであろうな(笑) 実はどこかに「裏ブログ」があるのかもしれないが・・(^_^;

また注文した本がど~んと来ていた。その本の山の中から、とりあえずデュプレ先生のに手をのばす。

0268025940 Religion and the Rise of Modern Culture (Erasmus Institute Bo)
Louis Dupre
Univ of Notre Dame Pr 2008-03

『宗教と近代世界の興隆』である。しかし100ページちょっとしかないのに2700円とはいかにもぼったくり価格である。それでもこれを注文してしまったのは、大学での連続講義なので、デュプレの論点がわかりやすく提示されているであろうという期待が高かったからである。デュプレは古代ギリシア哲学のことも中世哲学も本当によくわかっている。なぜ近代は「聖なるもの」の次元を失ったのか、知が世俗化したのか、その思想史的な理由を知りたいという読者にとって、デュプレほど明晰なる答えを与えてくれる人はほかにそうはいないのである。デュプレには、近代初期とルネサンスを扱った本と、啓蒙思想を扱った二冊があるが、この本はその二冊の要約となるであろうという見込みであった――が、少し読み進んだことでいえば、どうやら期待は満たしてくれそうな感じである。ま、啓蒙主義の本も注文中ですがね。

近代の世俗化を批判するような本は、これまでに、バーマンだの、ウィリアム・アーウィン・トンプソンだの、いろいろと読んでいるが、これまで読んだ本はギリシア哲学や中世哲学についての造詣が深いとはいえず、もっぱらデカルトをターゲットにして終わっているようなところがあった。しかし、ギリシアやキリスト教哲学の霊性を的確にとらえ、唯名論や唯物論が勢力を増す中で、そうした古代的な知がロマン主義の中に復興してきたという時代の流れまできっちりとおさえてくれないと、話に深みが出てこないのである。霊性哲学の復興は、これまでの哲学史・思想史の全面的な書きかえが伴っていることが望ましい。そういうことを少しずつ勉強しているが、「自我は近代になって発達したものであり、それこそが近代西洋文化の成果である」などというような妄説の思想史的な粗雑さにふれると頭に血が上りそうになるのである(笑)

しかし最近はとりあげる本も洋書ばっかりだし、ますます初心者お断りの世界に突入していますな・・ ここでとりあげているのは私自身の記録というところが多くなっている。必ずしも読者におすすめするものではない。最初から勉強するとなると、読んでいく順序というものがあるので・・。

とはいえ、上にあげた『宗教と近代文化の興隆』は、もし訳されれば、「少し高度な入門書」として使えるかもしれない。

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伝統主義に立つ哲学入門

『スピリチュアル哲学入門』の構想を考えているが、基本的には、「伝統主義の立場からする哲学入門」というコンセプトを予定している。

伝統主義とは、ゲノン、シュオンに始まり、現在ではヒューストン・スミスとセイイッド・ホセイン・ナスルに代表される思想的立場であり、現代の唯物的世界観をきっぱりと否定し、伝統哲学で言われていた霊的な世界観こそが真理に近いと主張する立場である。

トランスパーソナル心理学とは、この伝統主義の哲学を基盤としつつ、そこに現代の心理学をミックスさせることをめざすものである。さらにケン・ウィルバーは、そこに独自の進化論的哲学を発達させ、昔のテイヤール・ド・シャルダンにも似た思想をつくりあげ、一定の影響力を示している。が、私としては、トランスパーソナル的な立場は少し「特殊すぎる」と思っている。心理学などをミックスさせる必要はない。思想という立場では、伝統主義だけで十分である。べつに、伝統思想をフロイトやユングなどと「統合」する必要はないのである。

日本にもトランスパーソナル心理学系の学会もあるが、心理療法にいかにして霊性を取り入れるか、という問題などが論じられている。それは心理学者にとっては意義あることであろうが、思想の立場からするとちょっと畑違いである。この学会で思想的なことがらも扱おうとするのは少し無理がある。本当は「霊性思想学会」のようなものができるのが理想であるといえよう。トランスパーソナル心理学も、少しまちがえば、「トランスパーソナル・セラピスト」なるものが霊的な指導者にとってかわろうとするような事態にもなりかねない危険がある。霊的な発達については、宗教や霊的伝統が中心となるべきで、心理学はあくまでサポート役にすぎない。心理学が宗教にとってかわろうということなどあってはならない。

日本の思想界で、トランスパーソナルの紹介が先行したことは、はたして幸福なことであったか? まず、伝統主義哲学というものが、日本の伝統をふまえた形で根を下ろし、そうした大きな流れの中で、心理学に関わる特殊バージョンとしてトランスパーソナル心理学がある、という形が理想だったのではないだろうか。伝統主義哲学がこれほど理解されていない状況のなかでは、トランスパーソナルも「いかがわしく」思われてしまう危険も高いのである。そもそも、トランスパーソナルの紹介は、アメリカ60年代のカウンターカルチャーの流れと共に入ってきたことは否定できず、その紹介の先頭に立っていたY氏なども、かなりヒッピー的人物であったので、そういうニュアンスはどうしてもつきまとってしまうのである。

そういうわけで、この本では特にトランスパーソナルについては詳しく触れるつもりはない。私はいま、トランスパーソナルを積極的に日本において広めようという立場には立っていない。トランスパーソナルという規定はある文化的傾向を超えにくいものなので、もっと広い立場に発展解消した方がよいという考えである。「霊性心理学会」とでもすればよいと思う。

というわけで、伝統主義についてもっと世に知らせることが必要である。そこで、伝統主義に立つ哲学入門書の存在は、意義のあることだと考えている。

この哲学の概略は、ナスル先生によって見事に整理されているのだが、それをもっと初学者にわかりやすくし、東西の伝統哲学への簡単な概観が得られるような構成を取ろうと思う。テキストにも使えるような形で。

したがって、前著のような文学的表現よりも、もう少し「ふつう」な書き方になるのかもしれない。

こちら、いま読んでます↓。ナスル先生入門にいかがですか?

翻訳なんか、当分出ないですよ・・ 『スピリチュアル哲学入門』が売れに売れたら、出せる日も来るかもしれないが・・

1933316381 The Essential Seyyed Hossein Nasr (Perennial Philosophy)
William Chittick
World Wisdom Books 2007-09

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イマジナル・ボディ

ワーク系の方では、いろいろな流れが加速しているが、こちらのブログではもっぱら、『スピリチュアル哲学入門』へ向けた流れを記述していく。

ロバーツ・エイヴンズの幻の名著?『イマジナル・ボディ』(Roberts Avens, Imaginal Body : Para-Jungian Reflections on Soul, Imagination and Death)を、古本市場でゲットし、読了した。

いや~何年も探していた本だった。相互貸借でも国内にはないので、読めないと思っていたが、古本では相当な高値だった。

エイヴンズのもう一冊の著、Imagination Is Reality は簡単に手にはいるし、翻訳も『想像力の深淵へ』が出ている。

さてイマジナル・ボディとは・・もちろん、いわゆるアストラル・ボディのことを指すのである。イマジナルとは、アンリ・コルバンがイスラム神秘主義研究から学界に持ち込んだ概念で、「中間的世界」を指すものである。イマジナルについての論については、日本語文献ではたぶん、井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』を見るのがよいと思う。

簡単にいえば、アストラル・ボディというのはありますよ、ということを言っている本だと思えばよい。そのパラダイム的には、「パラ・ユンギアン」とあるように、ユングの心的現実論と、その展開としてのジェームズ・ヒルマンの心理学、アンリ・コルバンのイマジナル論を中心としてプラトン-新プラトン主義の宇宙観を再興させる、といったものである。

これにはもろ手を挙げて賛成と言いたいところである・・が・・これはほとんど、数年前に私が考えていたパラダイムそのものだった。だが、今これを読むと、論が十分にシャープでないところが若干気になる。

それは、やはりヒルマンの欠点をそのまま引き継いでいるところがある。つまり、イマジナル世界の存在論的先行性を論じるのはよいのであるが、それより上位の世界を論じ得ないというパラダイム的欠点が目につく。ヒルマンは、魂の現実性を強く主張するが、魂を超えた「霊(スピリット)」の領域を頑強に否定する。これはいったいどういうわけだろうか? ヒルマンは霊とは父権的であり、抽象的であるなどと言うが、それは彼が、上位次元から来るエネルギーを体験したことがないから言っていることであり、単に、ヒルマンがスピリットについて抱いている「イメージ」を述べたものにすぎない。

もう一つは、アニマ・ムンディのことが出てくるが、新プラトン主義で言うような、アニマ・ムンディ(世界霊)と、個霊との区別はどういうものかという論点が入っていないようである。それと同時に、「私」の根源はどこから来るのかという論点も曖昧で、単に、「私とは複数的である」と言われているのみで、「私が私である」という西洋的霊性の根源的問題について考察が及んでいなかった。

また、主客分離的なデカルト主義の根源をアリストテレスに見出し、それとプラトン主義を対比させるという思想史的把握は単純すぎる。それは、魂のイメージ的認識を強調するのみで、一方でアリストテレスも主張した「能動知性」の問題から、中世哲学における「知性」の霊的な位置づけという思想的な流れを十分に整理していないところから来るのではないか。そこで「知性」というものが、あたかも現代的な頭脳的な意味であるかのように解し、それとイメージ認識を対比させているようなところがあるが、これは中世以前における「知性」の霊的な把握を考慮していないようである。つまり、中世哲学についての知識が不足している論のように思える。

このように、パラダイム的には、いろいろと不満は残る。

しかしながら、この、ユング-ヒルマン-エイヴンズの流れは、「人間とは魂であり、魂として、不死である」ということを学問的にはっきり言ってしまっているというのは、なんといっても貴重なことである。

魂と肉体を二項対立させるのではなく、魂にもまたそれなりの「微細な身体性」があるということがはっきり打ち出されてきたのは、エイヴンズの功績であるといってよかろう。つまり、物質-精神というのは二つに分かれているものではなくて、「グラデーションのもの」なのである。このような「精神と物質を両極とするグラデーション」として宇宙を把握するのは、新プラトン主義の世界観そのものなので、その中で微細な身体性というテーマはすでに出てきていた。プロティノスにはあまり出てこないが、それ以降のイアンブリコス、シネジウスなどの新プラトン主義者には、微細な身体性問題はあたりまえのものと受け取られていたので、これは何も、最近になって神智学やシュタイナーによって発明された概念ではない。「アストラル体」という概念自体が、新プラトン主義起源のものである(ただ、このブログで以前に述べたとおり、伝統的な「アストラル体」概念は、現在の意味とはかなり違っている)。

つまり、そうした新プラトン主義的グラデーション宇宙観の復権をめざしているという点では、正しい方向にあるものといえるだろう。(ただ私は、新プラトン主義だけで十分だとも思わない。新プラトン主義の「一者」を「神」と読み替え、それとのパーソナルな対話をめざしたキリスト教思想の意義も検討すべきだと思う)

残念ながら、『イマジナル・ボディ』を入手できる見込みはもうほとんどないと思いますが(笑) 『想像力の深淵へ』の方を推薦しておきたい。

478850717X 想像力の深淵へ―西欧思想におけるニルヴァーナ
ロバーツ エイヴンス Roberts Avens 森 茂起
新曜社 2000-06

こちらもついでに。
これは基礎科目ですから・・

4004201195 イスラーム哲学の原像 (岩波新書 黄版 119)
井筒 俊彦
岩波書店 1980-05

★追記: Avens の別の論文を見たが、能動的知性の霊的な意味について、もちろん知らないわけではないようである。『イマジナル・ボディ』では能動的知性の問題と mundus imaginalis の問題がうまく統合されていなかったということであろうか。

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天使のいるコスモロジーをめざして

1882670248 World Turned Inside Out: Henry Corbin And Islamic Mysticism
Tom Cheetham
Spring Journal 2003-06

やっと一週間もかかって読み終えた。ペースが落ちている・・

これはアンリ・コルバンを論じて、伝統的コスモロジーの復権を訴えた書である。

伝統的コスモロジーというのは、宇宙は根源である超精神から発している階層的な次元に分かれており、その中間には天使たちがいる・・ということである。つまり「天使はいますよ」と言っているということになる。

コルバンはハイデッガーから出発した。

ハイデッガーの哲学は、感覚の世界の根底に「存在」の次元があることを見出したものである。実はそれは近代哲学の枠を超えているのであって、中世哲学とつながっていた(ハイデッガーの学位論文はドゥンス・スコトゥスなのである。細川亮一の研究は、ハイデッガー哲学がプラトン的問題と接続していることを示している)。

この、現象の根底に「存在」があるということは、現代哲学でもそれ以来かなり理解されるようになっていて、かなり乱暴に言うならば、西田哲学だってそういうパラダイムに立つものと言えなくもない。

ただ、これだけでは足りないのである。「存在」があるというだけでは足りない。

宇宙の「根源」があり、そこから多次元の世界が創出されており、その中には天使があり、そうした高次存在との協働の中で人は自らを「神化」させる道を歩む・・と、ここまで言い切らなければいけないのである。

コルバンは、イスラム神秘哲学の研究をふまえて、そのことを言い切った。

そのことの意味をもう一度考えてみようというのが、トム・チーサムのこの本の目的なのであろう。

天使をまじめに信じようという「学問」が存在するということを聞くと、驚く読者がいるかもしれないが、そういうものなのである。世界というのは広いのである。

この著者は、ヒルマンら、元型心理学の系統にある人らしい。

考えてみれば、それは意外ではない。ロバーツ・エイヴンスなんかも、そうだからだ。ヒルマン自身、コルバンに多大な影響を受けている。それは簡単にいうと、「エラノスつながり」ということであろう。

いま私は、くたびれているので、エラノスとは何かということまでここで説明している気力がない。気になる人は調べていただきたい。

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聖なる学と脱亜入欧的価値観

さて~~ 連休モードでひさびさの更新だ。

そろそろまたお仕事再開・・『スピリチュアル哲学入門』に向けて基本コンセプトを明確にする作業を進めようと思う。

それにしてもナスル先生はやっぱりよいわ。本棚をけんめいに探して、『人間と自然――近代人の霊的危機』と、『聖なる学の必要性』という二冊を見つけ出した。ナスル先生の視点はヒューストン・スミスと共通するが、やはりこれが基本なので、この立場を主軸として打ち出すことに重点が置かれる。

学というのはいろいろありうるはずだということだ。何も、近代ヨーロッパ人のうち立てた学だけが正統なる学だというわけではない――という、非ヨーロッパ文明からの自己主張という面も、こうした「伝統主義」にはある。日本に当てはめていえば、明治以来の「脱亜入欧」、何でもヨーロッパの学問を至上としてきた価値観はそれでよいのかという問いかけがナスル先生などにはある。イスラム諸国でもナスル先生のような立場は少数派であり、大学は圧倒的に「脱亜入欧」的な学問で占められているのが現状であるらしい。ナスル先生の本などが欧米である程度読まれているのは、イスラム文化を持つマイノリティーの人が現にそこで生活しており、そういう人びとの文化的アイデンティティーの探求という面もある。どうしても日本社会では「オルターナティブ」の立場が弱いという、一枚岩的文化の弱点もあるのだ。

そういう、「脱亜入欧でよいのか」という問題意識は、むしろ哲学に端的に表れても良いはずだ――というのが伝統主義の主張するところである。

日本の伝統哲学としていえば、私としては、空海の密教哲学をメインとして考えてもよいと思っている。そこには、伝統哲学の持っている特質の大部分が含まれていると思われ、普遍性があるからだ。そのシステムの中には神道的な神々も全部包摂されうるし、キリストでもマスターでも受け入れられるだけの包容力があるのだ。

しかし・・ナスル先生などはたぶん、ニューエイジはお嫌いだろう。あくまで伝統イスラムに必要なものはすべてあるという立場だろう。まあ、ニューエイジといってもピンからキリまである。いろいろな宗教の要素がまじり、組織をとらない個人宗教のような形態になっているが、これは歴史的には、イアンブリコスのプラトン主義的密教とか、フィチーノのスピリチュアルロハス、パラケルススの錬金術的世界観なんかと近いものだと思う。そういう形態で霊性が勃興する時代というのは過去にもある。それが現代的なメディアにのって普及しているのが現代の「スピリチュアル」である。私はこれを必ずしも否定しない。あくまでその中で真実と偽物を見分けることが大事だというだけだ。そもそも日本は昔からそういった「何でもあり」的な宗教性は得意としているわけで、イスラムやキリスト教のようなきっちりした宗教ではない。それはそれでいいのだ、ということを、日本人から言っていくのもありだと思う。

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八木雄二『中世哲学への招待』

八木雄二『中世哲学への招待』は、ドゥンス・スコトゥスの入門で、そこで近代ヨーロッパの始まりを知ろうという試み。「中世哲学」とは言っても、ドゥンス・スコトゥス以外はいっさい出てこない。これで中世哲学の概観が得られるという期待を持ってはいけないので、あくまで哲学史と合わせ読む必要がある。概観コーナーもあるがあまりに簡単すぎる。

この本、むかーし買ったが、その時はどうもめんどくさい話が多くてよくわからないような感じだった(^_^; それは中世哲学のことをまったく知らなかったからだが、最近少し勉強したせいか、それほどむずかしいことを言ってはいないことがわかった。

ドゥンス・スコトゥスが近代の始めだというのは、要は、個物の強調と、主意主義(意志を重視すること)の二点である。

しかし、その点をさらに徹底化したオッカムについてまったく触れていないというのはどういうことだろうか。たしかにドゥンス・スコトゥスにおいて始まってきたものが一つの帰結にもたらされたのがオッカムであるので、近代的世界像の成立を言うためにはオッカムははずせないと思うのだが。入門書ということであえてオミットしたのだろうが、よかったかどうか。

それと根本的に、著者には、稲垣先生のような思索の深みに欠けているうらみがある。著者はそもそも、「普遍が実在する」という思索は、何を見ようとしていたのかということが深いレベルでわかっているのであろうか、という物足りなさを覚えるのだった。また、アリストテレスの説明もどこか平板である。その宇宙論的な思索が伝わってこない。

着眼や企画は悪くないが、深層の話にまではいかない。そういう感じである。それはつきつめると、著者が「神」と向き合うことが求められているということ。キリスト教の問題を、ヨーロッパ文化を理解するための教養としてとらえていて、自分の問題だとは思っていないところがあるようである。しかしまあ、中世哲学の比較的やさしい本は少ないので、貴重なものではある。ドゥンス・スコトゥスの引用部分はあまりにややこしい文章なので、つい飛ばしてしまったけれども(笑) しかし平凡社新書では続編らしき古代哲学編も出たところを見ると、ある程度売れたということなんでしょうねえ・・ ここから進んでもう少し深みを求めるなら、私はやはり、リーゼンフーバー先生か稲垣良典先生をオススメしますが・・

しかし著者は、大学の非常勤講師と、環境保護のNPO代表というよくわからない肩書きである。生態系の哲学みたいな本もあるらしい。

4582850693 中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)
八木 雄二
平凡社 2000-12

おっと、「神と向き合っているのか」などと失礼なことを書きましたが、著者は『イエスと親鸞』という本も書いているのですね。すでに品切れというのはよくわからないが・・ しかしなかなか昭和の香りのするテーマではある。しかし、イエスと親鸞? なぜこの二人が同列になるのか? だってイエスは宗教家や思想家ではなく、神の子なんですが・・ イエスを宗教家だと見た瞬間に、キリスト教を否定することになりそうである。だからイエスと比較するなら、マハーアバター・ババジ師あたりでないといけないような・・ 中身を読む予定はないので批評は避けるが、少なくとも、神について考えていないわけではないらしい。ただ『中世哲学への招待』を見る限り、著者が特に、信仰と知性の問題を考え抜いている人だという印象は持たなかった、ということである。

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ルイ・デュプレ『近代への道行き』

ルイ・デュプレの『近代への道行き:自然と文化の解釈についての試論』(Louis Dupre, Passage to Modernity : An Essay in the Hermeneutics of Nature and Culture, Yale Univ., 1993)てのを読む。

なかなか学識に富む本であった。さすがにイエール大教授というかんじですね。なんでこの本かというと、稲垣先生の論文の注に何度も登場していたので注目していたのだ。

これはタイトルの通り「自然と文化についての解釈」つまり世界観について、ギリシアと中世ヨーロッパから近代へ移る過程で起こった大きな変化について述べているわけである。稲垣先生が共感したのも当然だが、その最大の思想的な変化をオッカムに代表される唯名論に求めている。さらに、神の意志の絶対性を強調する「主意主義」(と訳すんだっけ? voluntarismだが)の神学についてもふれる。そこから機械論やデカルト的な自我への思想史的な変化を追っていく、というような感じ。

デュプレは、トマス的な総合をかなり評価しており、そこから、トマス→ドゥンス・スコトゥス→オッカムと行くにつれ、その世界観的均衡が崩れてきたことを言っているという点では、稲垣先生と基本的に同じ意見。唯名論は、自然を神的な秩序から切り離された自律的なものと見たところから、近代科学の機械論的パラダイムを準備したということ。

ある意味では、これまで勉強してきたことと同じだし、コンセプト的に、全く新しいものはあまり出てはいないのだが、ここまで思想史的にまとまっているのは貴重というか、いろいろと整理できるので役に立つかな、という本であった。

0300065019 Passage to Modernity: An Essay in the Hermeneutics of Nature and Culture
Louis Dupre
Yale Univ Pr 1995-09-15

その次は、ナスル先生の新著にとりかかっているのだが、デュプレの本と並べてみればいろいろ考えさせられることがある。

それは、やはり、ヨーロッパ近代の宇宙観や自然観、そして「哲学」をどう理解するのかということを、そのまま自明の前提として受け取ってはならないということである。そこからは何も始まらない。はっきり言って、ヨーロッパは近代において道をそれたのである。前にも書いたが、物質科学を発展させるために、精神文化を犠牲にしたのである。精神文化の復興のためには、ヨーロッパ近代の相対化がますます必要とされているということである。

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歴史の分岐

ちょっと前に書いた「お仕事計画」はたちまち変更された。ボナヴェントゥラ神学にひたるつもりだったのだが、ナスル先生をちょっと読み返したのをきっかえにイスラム哲学にはまり始めてしまった。まだまだ知らないことがたくさんある。それにつられて、伝統主義哲学の本も大量に買いこみ始めた。英語では、けっこうたくさん出ているのである。

やっぱり、どうしても、ここが日本の知的世界の欠落だと思わずにはいられない。つまり、「霊的なことがら」が「思想・哲学