116 posts categorized "霊性関連"

『あなたのガイドに願いましょう』

ドリーンの『エンジェル・ガイダンス』につづいて、ソニア・ショケットさんの『あなたのガイドに願いましょう』も、ガイドや天使と接続する方法を書いている本。表紙がきらきら輝くようになっているので、それもちょっとインパクトがある。

あわせて読むとかなり強力だと思う。こちらも相当なるおすすめである。内容的にも、だぶらない部分が多いので。基本は同じではあるが。

4478000603 あなたのガイドに願いましょう―聖なるサポートシステムにつながる方法
ソニア・ショケット 奥野 節子訳
ダイヤモンド社 2007-03-09

レイキのサードでは、ハイアーセルフにつながるエネルギーが伝授されるが、これまでの講習では、ハイアーセルフにつながる方法についての学習が十分ではないと感じていた。そこで、こういった本を副読本にして、サードのエネルギーを活用してもらうやり方が、効果的ではないかと思う。私が今後やるときはそういうふうに進めてみたい。

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『エンジェル・ガイダンス』

もう一冊ご紹介。ご存じドリーン・バーチューさんの『エンジェル・ガイダンス』である。

これは彼女の初期の著作のようであるが、ひじょうにすばらしい。「聖なるガイダンス」を受け取る方法がいろいろ書いてある。

4478004196 エンジェル・ガイダンス―真のスピリチュアル・メッセージを受け取る方法
ドリーン・バーチュー 奥野 節子(訳)
ダイヤモンド社 2008-02-16

全編にわたって、聖なるガイダンスを受け取るのは特別な能力ではない、だれでもできるのだ、ということを繰り返し語っている。

実際、その通りなのだが、なかなか、「まさか自分が・・」というふうに、信じられないものである。それがこの本を読むと、なるほど、自分でもできるのかも、という気になってくる。ということは、この本の意図は成功しているということだろう。

ガイダンスを受け取るのは「見える」ことだけでなく、「聞こえる」「感じる」「直感的にわかる」というチャンネルもあるということも明確に述べ、チャンネルごとのトレーニング法も書いている。

特に重要なのは、高次元から来るガイダンスと、低次のエゴから来る声を見分ける方法を詳しく書いているところである。ここがきわめて重要で、これさえクリアすれば難しいことは何もない。自分を信頼すればよいだけだ。

ドリーンの本の中でもかなりおすすめランクの高い本と言えるだろう。

多くの人が、自分で聖なるガイダンスを受け取る能力を発達させれば、「問題あるサイキック」は駆逐されるであろう。

いかにも女性好みの表紙に抵抗感がある男性諸氏は、これも女性性を統合するトレーニングだと思っていただきたい(笑) 実際は、写真ほどピンク色が濃いものではない。

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『神は私にこう語った』

ブルックナーの交響曲などにひたる日々だが、水面下ではエネルギー変化が進行中なのが知覚される。

そんな中、きょうはエネルギーの高い本を紹介。

4763181238 神は私にこう語った―新しい生き方へのメッセージ (サンマーク文庫―エヴァ・シリーズ)
Eileen Caddy 川瀬 勝
サンマーク出版 2001-05

あの、フィンドホーンのアイリーン・キャディが受け取った高次元からのメッセージが記録されている本である。

これはなにか、持っているだけで「お守り」にもなりそうなほどの純粋な光のエネルギーである。この本を身辺において、いつもどこかで意識していると、意識変化が起こりそうである。

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夏至を前に?

いよいよ夏至ですよ・・大丈夫でしょうか?(何が? といわれてもこまりますが)

ところでここでも以前にふれた Divinerさんのブログ、最近のエントリー「草スピ」はおすすめです。読んでみてください。

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パラトラパさん、大学を去る

あるシンポジウムの案内を見ていて、例のパラトラパ(中村雅彦)さんの肩書きが「元愛媛大学」となっているのでびっくりした。大学をやめたのか? と思ってネットで調べると、本当にやめたらしい。学芸大学とかで教えているが、非常勤らしい。彼のブログというのもすぐに見つかるのでわかる。

かといって、別に、あまりにやばいからやめさせられた、というわけでもないらしい。

なんといっても、国立大学の心理学教授にして現役の拝み屋(祈祷師)としてカミングアウト、というのは衝撃だったが・・ いや、私も、「修業時代」の彼とは一時期コンタクトがあったが、濃密な「闇の霊性」の世界でいろいろな学びを深めているところであった。

今でも忘れないのは、もう十年近くも前になるが、私が彼と連絡して四国へ行ってみようと計画していたとき、私がそちらの地域に意識を向けると、どうしても何か黒々した恐ろしいものが感じられてしかたがなく、ついにキャンセルを申し出ると、パラトラパさんは「やっぱりそうですか」という。聞くと、ちょうと私が行こうとしていた日、某教団による集中的な呪詛攻撃が、彼に対して行われようとしたということである。彼はそういうシュラバを数々くぐりぬけてきているので、私のようにそういう世界に近づかないようにして「光」の世界に入ろうとしている者は、軽々しいとも思うかもしれない。まあそれは、彼はそういう道をたどる必要があったということであり、是非の問題ではない。私としては、彼の功績はちゃんと認めているのだが・・ ただ、そういう闇の世界であるから、そのことについて書いた本そのものにも、どうしてもそういう波動がある程度漂ってきてしまうことは仕方ないので、あまり近くに置きたいものではない。知らない人は一度は知らなければいけない世界ではあるのだが・・ 

ともあれ、サイキック・アタックとそれに対する防御という、シャーマニズムの時代から存在していた「宗教の闇の面」を白日のもとにさらしたという功績は多大なものがあるだろう。現在、WEBとかにも、いかにも光のイメージをちりばめたHPなどを持つヒーラーがたくさんいるが、そのうちの一部には、実は、サイキック・アタックを日常的に行い、来た人を自分の勢力圏に置こうとするような人も存在するのだ。ヒーラーとかいって、善意の人ばかりではないということは、「この世界」を知る者には常識なのだが、「スピ初心者」は想像もできないことなのかもしれない。こういう世界を知識として知っておくことは必要だ。そういう世界があるということは誰かが語らなければならない。そうでなければ、そういう恐いヒーラーにだまされる人はなくならないだろう。

読者の中には、大学にいてこういう世界をやってることをカミングアウトして大丈夫なのか? と心配する人も少なくないだろう。しかし実際をいえば、それは会社員とか公務員などよりずっと自由なのだといえる。職場にもよるが・・ むしろ、「実際の世界」を知っているということを評価する人も少なくはないのである。たとえば、80~90年代くらいにスピ系知識人として有名だった鎌田東二などは、その著書で修行による霊的体験を赤裸々につづっていたのだが、都内にある無名の女子短大から始めて、京都造形芸術大学、そして京都大学のなんとかセンターというところにまで「出世」を果たした(ただ、鎌田の書くところは、かなり神道シャーマニズム系で、ちょっとアストラル的色彩が強すぎたので、私はやや敬遠ぎみだったが)。

ともあれ、世の中は、実践的世界も多少わかる「スピ系知識人」というものをある程度必要としているのだ。もう少し説明すると、大学院を出て就職するまでは、そういうカミングアウトをしてしまうとかなり大変だ。ただいったん入ってしまえば、比較的自由なものなのである。

話は最初に戻るが、この年でやめて生活は大丈夫なんですかね? 私も、宝くじにでも当たればやめてもいいんだけど(大笑)

思い出したが、そのシンポジウム、私も出ないかといわれたのだが、いまだ返事をしていないのでありました(苦笑)

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基本の基本に立ち帰る

「思想モード」からは一見、それるようだが、「そもそも基本の基本は何か」ということに、再三立ち返ることは大事であると思う。

そのことでいえば、「宇宙人としての自分と地球人としての自分を統合する」ということになるような気がする。

それは同時に「ここに、私や、また、「私と共にあるもの」が存在することの神秘へ立ち帰る」ということでもある。

その「私と共にあるもの」は、私へ愛を送っているということ。

そのことは「物質の中に埋もれている光を救出する」ということであるということ。

それは「素材の物質性との格闘」でもある。古代ギリシア哲学の、「形相性と質料性」という哲学概念の背景には、「ものとは本来、光として存在するものが、素材という重いものによって限定されているのが、この世のあり方なのだ」という洞察が含まれていることを知るのである。

その意味で、素材の重さと格闘しつつ高次のエネルギーを生み出す「芸術」という行為こそが、この世界に生きることの象徴でもあることもまた、理解されるのである。

「宇宙人としての自分」という意味は、自分とは本来、高次世界の住人であるということである。

そうした、地球的限定を超えた無限的存在であることが自覚されてくることはどうしても必要で、そのことを少しでも「思い出す」ことができたときに、初めてスタートできるのである。

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霊性への女性性的アプローチ

きのうは、書きたくても、ココログがメンテナンスでどうしようもなかったのだ。

普遍神学について知りたい人は、とりあえず、右コラムのいちばん下にある検索ボックスで、「このブログ内を検索」をやれば良し。

私は、いわゆる「スピリチュアル・カウンセラー」ではない。そういうものを求める人は、ほかをあたっていただければと思う。あくまで、思想的表現がこのサイトの目的である。

とはいうものの・・別にカウンセラーではないが、気になることがある。

時々、こういう声を聞く。「ヨガや瞑想をやっているが、スピリチュアルに何の関心もないような人が元気で生き生きと暮らしているのを見たり、スピリチュアルに関わっている人が良くないことをしているのを見聞きすると、ジレンマを感じてしまう」

端的にいうと、こういう状態のことを「迷い」という。

こういう文の波動から感じられるのは「無理してやっている感じ」である。つまり、瞑想などはやるものの、そこから「喜び」が得られていないことがわかる。そういうものを得たいのだが、なかなか得られない。そこで、これでいいのかと迷い始めるという状態なのである。

こういう人は、そういう霊的な探求への関心について、周りに話ができる人がいないということも多い。そういう人がいればそれほど迷わないからだ。

これは、探求を始めた初期に出やすいことで、探求のプロセスにおいては苦しい時期だといえよう。
これまでの世俗的価値観は崩壊しつつあるが、まだ新しいもののたしかな手応えは得られていないという、中間に落ちこんだような状態になっているのだ。

「瞑想をやっていないのに生き生きとしている人がいる」「スピリチュアルな人でも悪いことをする」なんていうのは、はっきりいって、迷いが生み出した理屈である。真の問題は、喜びが得られていないことである。それが得られていれば、こういうことは心に浮かばない。また、本当に霊的に優れた人を実際に知ることができたら、「悪いことをする人もいるから」なんていう考えも出てこない。

また、変なたとえだが、たとえば良いラーメン屋に行ってそれを味わっている人は、「世の中には、ラーメンなんか食べないのに、幸せに生きている人がいる」なんてことは絶対に考えないし、そのようなことは無意味なヘリクツにしか思えないだろう。そういう理屈が思い浮かぶということは、楽しんでいないわけで、「やらなければならない苦行」、何か受験勉強みたいなものと意識されていることである。

だから、「霊的なことに何の関心もないのに幸福な人生を送る人がいるのはなぜか」などという質問に、答える必要はない。その答えを考えることは、その状況を乗り切るための方策にはならないのである。「そのような質問が出てきてしまう心の状態はなぜ生み出されているのか」と考える必要がある。何かの問いが出てくると、その答えを探すことが大事だと思ってしまうが、あんがいに、そうではないことも多いのである。

私が、このサイト名を「美しさの中を歩め」としているのも、そういう「苦行」イメージを変えたいという気分も、少しだけある。

日本では伝統的に、霊的なことがらを「苦行」によって探求することが、尊敬されていた。
それは、修験道や、禅、千日回峰行など・・こういう苦行を乗り越えた人がひじょうに尊敬されるという精神的風土があるのだ。テレビでもそういう特集番組が放映されたりする。

そこで、霊的な探求とは苦行であるというイメージを無意識のうちに抱いていて、それ以外の方法もあるということがわかるのに時間がかかることもある。

ただし、何もやらなければ何も変わらない。それはたしかにそうであるが、「苦行」ではなく、「ワーク」というとらえかたがある。「行」をワークとかセラピーという概念に置き換えようとしたのは、トランスパーソナル心理学であるが、それは一定の意味があったと思う。

なので、アドバイス、というものを述べるほどこのサイトはたいしたものではないのだが、私の経験から少し述べさせていただくと、「喜びが得られていない」「無理をしている」ということに気づいたら、生活の中にもう少し「美しさ」を増やすというアプローチを考えてみることを提案したい。

たとえば音楽とか、アロマとか、自然とか、何でもいいが「リラックスして、美しさを享受する」という発想で、全体を見直す。

だいたい、ヨガや瞑想はリラックスするためにやるものである。それを、つい苦行のようにやってしまうのは、無意識のうちに、禅のような修行イメージに影響されていて、そういうふうにやること(だけ)が霊的だという観念があるからだ。

男性は、こういう発想に入りやすい。その路線で貫き通せればそれも立派なことだが、絶対にそういうスパルタンで行かなければいけない、ということでもない。むしろ女性は、「美しさを感じながら喜びへと至る」というスタイルを自然に受け入れられる人が多い。こういうものの価値がよくわからず、「何を甘っちょろいことを言っておるか! 修行とはそんなものではない!」という人は、中途半端はやめてすぐに坐禅道場にでも入門したらいい。私に言わせれば、「修行モード」は、出家してやるべきもので、ふつうの社会人の生活を送りながら修行なんてありえない話である。伝統的修行法はみなフルタイムの献身を前提としているのだ。やりたいなら、すべてをそれに賭けるのでなければ中途半端である。

もし、霊性への厳格なアプローチという性向を変えたければ、フラワーエッセンスを利用するのが手っ取り早い方法である。

ただ、この「美しさの道」にも、それなりに、陥りがちな落とし穴がないわけでもない。どうしても長期的、全体的な視野を失いがちなところもある。

しかしながら、日本の精神風土を見ると、まだまだ、もう少し「霊性への女性性的なアプローチ」が広まる必要はある、と感じている。


(なお、以上の文章は、「上からやってくる修行モード」についてはあてはまらない。そういう人は上の質問をするはずがないので、ここでは扱わなかったが)

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再び転生についての議論

知り合いの Divinerさんが、「転生は実際には平行現象である」との論を展開している。(こちら

これは実際そうかもな、と思う。私がイメージしていたことの範囲に入っている。
転生の「順序」は、必ずしも歴史的な時間の順ではないという情報については、すでに書いた。
転生の「継起性」とは、結局、因果の法則(現代風に言えば学びの課題の設定)によってのみ、そのように見えているのではないかと思う。

Divinerさんも、因果による継起性について書いているが、それは必ずしも「一本の糸」のようではなく、複数の因果関係が平行して作用しているとの認識である。

これはインドの文献にもあるそうで、ある生において生じたカルマが、必ず次の転生で作用するとは限らず、何生にもわたって潜在していることも多いそうである(有名なM師も同じことを述べている)。

こうした平行に、また歴史的な時間を前後するケースも出てくるから、地球人的常識では不可解である。
そして、こうして転生するものは、「魂の一部」なのであって、魂の全体がその転生へ入りこんでいるわけではないことも、すでに述べたところである。

こういうことを考えるにあたって、つい地球人の思考習慣を持ち込んでしまうが、もともと宇宙には時間などないのがあたりまえで、時間がある方が限定された世界なのだ、ということは頭に置いておきたい。

「いまの地球」がずっと昔からあると思っていたらいけないのである。
今の地球は、いましか存在していないものである。

「一つの、実体としての魂」が、ぐるぐると、あちこちの体をめぐりめぐっていく・・というような転生観は、まったく地球人的常識に影響された、不正確なイメージのしかたではなかろうか。

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ご質問

ちょっと、いろいろあって、霊的なことがらに関し、人はどのように理解しているのだろうかと、気になってきました。

そこで、このブログを借りて、「ご質問」を投げかけてみます。

質問1: 霊的に「見える人」(つまりふつうの人が見えない次元のことがわかるということ:視覚以外でわかることも含む)は、ふつうの人よりも霊的に発達しているといえるでしょうか?(ふつうの人よりも霊的な覚醒が進んでいる、という意味)

 ・そういえる
 ・必ずしもそうとはいえない

質問2: 霊的に完全な覚醒に達した人は、必ず「見える」ものでしょうか?(「見える」の意味は、質問1と同じです)

 ・必ず見える
 ・必ずしもそうとはいえない


せっかくですので、回答を「投票」する場所を作ってしまいました。

よかったら投票してみてください。
数日後に、私はどう考えるのかを書くことにします。

(※回答は締め切りました)

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始まることと始まらないこと

考えてみると私は、前から、「始まりかけた人」に対し、その背中をどーんと押してのっぴきならない状況に突き落とす、というワザを得意分野としているようである(笑) そのため、そういうプロセスにある人にはどのような情報やサポートが必要であるか、というようなことは自然と知識が増えていった。

一方で、このまえ「始まらないという人はなぜ始まらないのか」という記事を書いた。「私は始まりません! 始まりません!」と何度も言うような人に出会ったことがあるが、要するに、この人は「自分は始まらない人である」ということを確認して、安心したいのだな、と感じた。つまりそのような意識設定をしていて、それを守りたいという意識がそういう確認を求めているのである。

初めから興味がない人はこんなブログなんかを読むことはないので、そういう場合は、ある部分では興味があるが、その反面恐いという感情があって、「自分は始まらない人であることを確認する、という前提の上で、始まった人のことを読みたい」という状況にあるわけである。

始まるというのは、ただ受け身で待っていていつの日かどーんと始まる、なんていう場合もまったくないわけではないが、そういうケースは少ない。多くは、何かセミナーを受けるだとか、ヒーリングを受けるだとか、瞑想やヘミシンクを始めるとか、何らかの「始めるアクション」がきっかけとなって始まるものである。そのように「やること」など、いまは、やろうとすればいくらでもある。それでも何もやらないのは、要するに「やりたくないから」である。始まるのが恐いからである。

それがいけない、というのではない。自分は始まりたくないが始まった人のことは読みたい、というのはいっこうにかまわない。ただ言わせていただくと、そういう人もいつかは必ず始まる。そういうふうに読んでるということ自体が、始まることの準備が進行していると理解すべきである。しかしまだ、自分が着手する時期には至っていないだけである。初めから、絶対に始まらないと規定されている人などいない。だから、そのように決めつけず、自分はどういう時期にいるのかをよく理解してもらいたいのである。これを読んでいる人のすべては、いずれは始まるのである。ただ、「始まる」のは、「始めることから始まる」のである。そのアクションを恐れなくなったときが、始まる時である。

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「始まってしまった人」のための話

変容の症状として、頭痛や、激しい首の凝りなど、風邪の初期症状にも似たものが出ることが多いのだが・・私の経験上、これに効くものは、まずは葛根湯

そしてぜひおすすめなのが、この「首ホットン」である。
これで次の日にはだいたい治っている。

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ま、変容といわず・・ふつーに、肩こりに効くというものだが・・

それと、エネルギーを肉体に馴染ませるには、特にFESのエッセンスをブレンドして服用することだ。
詳しくは『フラワーエッセンス・レパートリー』を読むとよいだろう。高い本であるが、この程度の投資を惜しんではいけない。それだけの価値はある。
ま、ラベンダー、セントジョンズワート、アンジェリカ、ヤロウなどが定番だが、ほかに症状にあわせて、いろいろ組み合わせる。

「始まってしまった人」には、こういう情報の価値がわかると思う。
それからそういう人は、ミンデルの『シャーマンズ・ボディ』もおすすめしておきたい。

これはシャーマニズムという狭い範囲の話ではなく、「始まってしまった人」は、いかにしてそのプロセスに委ねていくか、というようなことが語られている。

4434012827シャーマンズボディ―心身の健康・人間関係・コミュニティを変容させる新しいシャーマニズム
アーノルド ミンデル Arnold Mindell 青木 聡
コスモスライブラリー 2001-08

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カリスマへの警戒

もう一つ思うのは、現在ではもはや「カリスマ型指導者」という形式は古くなっているのではないか、ということ。

つまり「私に従え」として人々を引っぱるという形は、これからの霊的進化にはそぐわないであろうということだ。今は、もっと「内からの進化」を促すような導き方が主流になっている。

強力な霊的指導者に従っていく、というパターンも過去にはあり得た。そのやり方はたぶん「あるところまで」はすごく速く行ける。ところが、ある段階でトラップされてしまう可能性が強いと思う。つまり、その指導者とそれに従う人の間で、ある種の磁場ができてしまい、それがアストラル次元において強力に形成されるので、そういう意識エネルギー場から離脱することがむずかしくなってしまう危険性があると思う。

過去の宗教の多くは、そういうものだった。しかし現在からそれを見てみれば、多少とも、「カルト」という雰囲気を感じてしまう。キリスト教だって、信仰をしないと地獄に堕ちるみたいな言い方で人を脅かしているようなものはカルトである。モンローの言うフォーカス23~25の世界になってしまうわけだ。つまり、「磁場から抜けられない」という状況は、死後も継続するのである。

どうしてもカリスマ性を持った人にひかれてしまう心性は誰しも多少あるだろうが、そういう強烈な個性に教えを受けると、あるところまでは速いが、あまりにもその色に染まってしまって、そういうアストラル次元の共同現実の世界から離脱しにくくなる、というリスクも考えておいた方がいいだろう。

神智学とか、シュタイナーとか、ああいうのも時代的な背景で、多少ともそういうカリスマ性が漂っている。そういうエネルギーの影響を受けないように気をつける必要はある。そこにはすでに、かなり強烈なアストラル的磁場が成立しているからだ。それ以上の次元に抜けられないというわけではないので、その意味ではカルトとは違うが、磁場はたしかにある。

最近に出てきている霊的書物などは、そのようなエネルギーは持っていないものである。内なる導きに従うことが強調されていることが多い。カリスマ性というのも、ある意味では、地球の重力を離脱するための方便であり、地球のエネルギー変化と共に、不必要になっていくのではなかろうか。

こんなことを書くのも、私は最近特に、こうしたカルト的、オカルト的なエネルギーに敏感になっているからかもしれない。どうしてもそういうエネルギーが駄目なのだ。アストラル的に、ひじょうに凝集性が強いというか、その磁場に引きつけてしまうような、そういうエネルギー的な性質を持ったものがあるのだ。そういうものには警戒してしまう。ただ、「駄目」といっても、批判をしてしまうと、また自分のエネルギーが落ちてしまうので、どうしようもなく、とりあえずは「逃げる」しかないという状況だが(笑)

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久々のヘミシンク

きょうは久しぶりにヘミシンクのゲートウェイを取り出して、フォーカス21のフリーフローをやってみる。

最初はあまりイメージが見えず、体勢を変えたりして二回目で、いろいろと見ることができた。フォーカス21というが、そことは別のある宇宙領域から来ている存在があり、そちらの人々?の「宇宙船」を見に行くというヴィジョンである。宇宙船の中をいろいろ見学させていただいた。

※これはイマジネーションの産物である。イマジネーションの世界を「実在」と見るか「仮想」と見るかは、「現実という概念に関する形而上学的立場」により異なるものであることを、お断りしておく。

どうもヘミシンクというものは、あまりにも深く入ろうとがんばると、かえってうまくいかない。ヘミシンクで何を見るといっても、トランスとしてはかなりライトだと思う。つまり、実際には「これって自分で作っちゃってるんじゃないですかね?」って思うくらい、イメージスクリーンに展開する映像を見ていくみたいな感じが、「見える」ということだ。集団でやるセッションだと違うのかもしれないが、CDでやる場合は、あまり深いものを期待しすぎるとかえって力が入りすぎてしまう気がする。イメージに浮かぶストーリーを「ほんとかね?」って感じで楽しむくらいの感じにするといろいろ見える。私はかなりエンターテインメントのつもりでやっている。

つまり、黙って聞いていれば自動的にすごい経験がどばっと押し寄せる、なんてことを期待するのではなく、ある程度能動的に、「想像してみる」という姿勢で臨んだ方がよろしいということだ。

なお、時空を超えるということで、ヘミシンクをやりながら「臼井第三シンボル」を流して、そのエネルギーに全身を入れてしまうとやりやすくなるように思う。

臼井セカンドまで持っててゲートウェイも持ってる人ってけっこういるだろうな・・お試しになっては? 

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再び、アトランティス等に関する思考実験

いま、ふと気がついた。以前、アトランティス伝承に関して、「地球の時空がリセットされた可能性」について考えたことがある。

しかし、これを別の見方からすると、「地球領域にはかつて、現存の地球人とは異なる時空認識構造を持った知的生命体が住んでいた」と考えてもいい、だいたい同じことになるのだった。

ここで、すべての前提として、知っておくべきことは二つ。一つは、歴史とは決して「客観的」なものではなく、すべては構築された記憶であり、それはその存在の認識構造に依存しているものだということ。そして二つ目は、そもそも客観的な事実とは、同一の認識構造を持つ存在が互いに共有している時空領域においてのみ成り立つということだ。
以上の二点をふまえ、「地球とは、現存の地球人が認識している以上のものである」と理解することが必要である。地球とは多次元的な領域であり、現存の地球人はそのうちごくわずかの部分しか見ていない。

つまり何が言いたいのか・・? 要するに、アトランティス人とかレムリア人などといわれているものは、現存の地球人ではない。それとは異なった世界認識構造を持つ生命体であった、と理解することも可能であろう、ということである。

従って、それは地球的現実についての「我々のバージョン」における「歴史」の中に見出されることはない。つまり、もしアトランティスなどが「存在した」と言いうるとすれば、それは、現存の地球人という構造を超えた、もう少し高次の視点から多次元的な地球を見たとき、地球領域において生きていた「種族」がいくつかあり、現存の地球人はその一つにすぎず、他にも異なった「種族」がいたということを意味している。その別の種族は、我々とは異なる認識構造をもつので、彼らが見ていたのは我々が見ている地球とは同じではなく、あくまでも彼らなりのバージョンの地球なのである。

つまり、「地球の時空がリセットされた」というと、何か、地球の時空なるものが客観的にあって、それが操作されたかのような印象を与えるが、そういうことではなく、時空構造が変わったということは、あくまで地球に住まう生命体の認識構造が異なっていたということではないだろうか。

この仮説から出てくるもう一つのことは、現存の地球人の「魂」は、決してこのバージョンの地球人という種族の内部だけで転生しているとは限らず、「他の種族」としても転生したことがある、と理解することが可能である、ということであろう。簡単に言えば、地球に住んでいた知的生命体は現在の人間だけではない。もっと異なる種族もあった。しかし、人間はあくまで人間の認識能力の範囲内でしかものごとを見ることはできないので、その「現行地球人的な、地球の過去のバージョン」内には、いくら探してもアトランティスやレムリアの痕跡を見つけることができるはずはないのである。そうした「歴史」を見るためには、現在の人間よりも高次の視点から、多次元的な地球を見なければならないのである。

いちいち繰り返す必要もないと思うが、以上のことはいつものように「思考実験」として、「そう考えることもできる」ものとして提示されているものであり、私が実際に霊的能力によって「見た」ものではないので、その点はくれぐれも誤解しないように・・(誰もしないか(^^; )

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アース・エンジェル論への疑問について

バーチューさんのアース・エンジェル論の反響が多いらしいが・・すでに書いたように、はっきり言って私はあんまり本気にしているわけではない(笑)

私は、そのタイプ分けができるというサイトをまだ見たことがないのでなんともいえない。ただ、バーチューさんの本自体が訳されてなくて、読んでいないで話をしている人が多いのだろうが、基本的な前提を勘違いしている人が多いようである。自分はどのタイプだとか、それはまず自分がアース・エンジェルであることを前提としているようだが、バーチューさんの書いているところだと、まず、アース・エンジェルだという人の割合は、ごくごく少ない。みんな自分はアース・エンジェルだと思っていて、自分はどのタイプかなどと話しているのは、基本的におかしい話なのである。自分はどのタイプでもないようだ・・ということなら、あなたは地球上で輪廻転生を繰り返してきた「ふつうの人間」であってアース・エンジェルではないのである。ただ、二つ以上のタイプを合わせ持っているということがあるとは、彼女は言っているが。これがバーチューさんの書いていることである。もう一度言うがアース・エンジェルである確率はかなり低い。そういう前提で言われているタイプ論である。(断っておくが、私は彼女のこういう論が正しいとして紹介しているわけでもない)

本当に、今の人生以外に一度も地球での転生がなかったという人もまれにはいるであろう。厳密に言えばそういうケースのみをアース・エンジェルと呼ぶべきであろう。

だからたぶん、地球での転生経験がないか、少ないというケースで、アース・エンジェルということばを厳密に使用するべきではないか。だから厳密にはワイズワンは排除すべきではなかろうか。ともあれ、自分はどのタイプかということの前に、基本的に、「自分は転生経験がきわめて少ないのかどうか」という問いが来るべきということだ。

ぶっちゃけ言えば、自分は何タイプかと騒いでいる人に、「あんたのどこがアース・エンジェルなのよ」とツッコミを入れたくなるようなケースも、あるということだ(笑)

ワイズ・ワンという、地球上でいろいろヒーラーや魔女や秘密結社をやっていた人々というのは、そもそもアース・エンジェル論にはなかったことで、最後に付け加わったものだと書いてある。よく考えると、このカテゴリーの人々は、ずっと地球にいて転生してきたことになっているから、本来の意味でアース・エンジェルではない。もともと「地球でないところから転生してきた」という意味でアース・エンジェル論がスタートしているので、厳密に言えば違うカテゴリーのものがまざっていることになる、と私には思える。

以上は、まずバーチューさんの論自体が誤解されている点、そしてバーチューさんの論の不整合な点についての疑問である。

しかし根本的な疑問としては、「直前の転生は何であったか」という問題は、あまり意味のないことではないかということだ。そもそもそれは、転生とは何か直線的なものだというイメージを前提としているが、その前提そのものがかなり疑わしい。

魂の個別性というのも難しい問題なので、より次元が上のレベル(つまり坂本氏の言うITクラスターというか)では、多数の転生経験が集合しているので、どこまでを個人の転生と見なすかもなかなか困難なのである。

たとえばITスーパークラスターみたいなレベルに行けばみなが「天使」であろう。また「私」が属している魂のグループの中には、地球でない世界領域にいる部分もあり、そういう「宇宙人」的なエネルギーと共鳴するということもありうるわけだ。

私が言うのは、アース・エンジェル論の前提となっている転生観というものが、魂とか「私」が成立していることの複雑性を全部落としてしまっていて、わかりやすくはなっているが、反面、魂とか「私」がまるで一つ二つと数えることができる「もの」であるかのような見方をしてしまっていることだ。もちろんはすべては「方便」ではあろうが、もう少し相対的に真理に近い見方をしたいものではないか、と思えるのである。

「私」は多次元に同時に、いろいろな場所にいるものである。ある世界領域を去って、地球に来た、という言い方は単純すぎる。私はいまもそちらにいるし、同時にこちらにもいるのである。だからスターパーソンというのは、そういうエネルギーがいま活性化している人だ、というふうに見たらよいのではないだろうか。誰だって、魂のある部分では宇宙にいない、という人はいないのである。100%地球にいる人間などひとりもいない。言ってみればある部分ではすべて宇宙人である。ただそういうエネルギーが活性化していないだけである。地球上で転生を繰り返しているのが大多数の人間であるとしても、もともと魂とは地球で誕生したものではなく、もとをただせばすべて宇宙より到来しているわけである。

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メッセージ

さまざまな「霊的な道」は(過去には宗教と呼ばれたが)、本物はみな、宇宙から到来した情報に基づいている。人間の知では、高次元とつながるようなものを作ることはできない。

そうした「到来」は、それぞれの時代や状況に従って、下ろされるものである。
だから、過去に下ろされてできた「かたち」を、絶対視してはいけない。
現在もそれは下ろされ続けている。その、現在において成立している形の方が、現代人にははるかにやりやすいはずなのだ。ただし偽物も多い。いま多くあるものの中から、本物をより分ける力が必要だ。そのためには、自分を浄化された状態に保つことである。

・・以上は、誰かのメッセージなのか? こんなことばがいつのまにか出てきたが・・(^^;

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霊的ブースターロケットの必要性

その、イルカくん情報で思い出したが、前にも書いたことがあったっけ?・・「地球の重力を突破する」というものとしてあったのがクンダリニーヨーガという技法だったと思う。宇宙船を飛ばすのに、ものすごい巨大なブースターロケットをつけて、地球の重力を振り切り、ブースターを捨てて宇宙へ行く・・というのがあったが、クンダリニーを目覚めさせて一気に行ってしまおうという技法は、それを連想させる。しかし同時に、この技法が大いなる危険を伴うことは周知のところだ。

このような方法も、宇宙からのエネルギーが強くなるにつれ、だんだんと必要性が減ってくるのかもしれない。

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イルカくんによれば

あまりシリアスな感じの秘密結社的エネルギーは、「いかにして地球の重力を突破するか」ということがテーマだった時のエネルギーで、現在は地球のエネルギーがかなりシフトしてきているので、状況が変わってきている、ということだった。今はもう少し女性的なエネルギーが必要とされているということらしい。DSTなんかがほとんど女性だというのもそういうことなのかも? 宇宙からのエネルギーが増大しているので、重力突破というテーマはある程度、過去のものになりつつあるとか・・ どうしても重い感じにひかれてしまう人はぜひイルカペンダントを使いなさい、とか言っていましたけどね・・(笑) なお、この項は理性によって書いていないので、そのつもりで。

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魔術系はダメよ(笑)

バーチューさんのアース・エンジェルは・・なんか、占い的に楽しんでいる人も多いようだが、要するにこれは「タイプ論」であるということだ。それが霊的真実をどの程度の割合で反映しているかは、「?」もあるということはすでに述べた。参考文献に載っていた本を検索してみると、正直、「???」な本もある。

しかしタイプ論としてはよくできているので、その限りでは有用でもある。

Wise Ones というのは「賢き者たち」ということで、具体的には「転生した巫女、魔術師、魔女、シャーマンなど」を指している。私はというと、どうもこのカテゴリーのものが、最近はエネルギー的に受け付けないのである。

本にも書かれているがこういうエネルギーのものは何となく「まじめさ、重さ」がある。その人の性格として、あまりジョークを言わないとか、そういうことではなく、エネルギー的に、何か秘教的な世界に、深く深くコミットしてのめりこんでいくみたいな感覚が漂っているということだ。つまり、秘密結社的エネルギーとでもいうか。そのように閉ざされたサークルで、「私はすごいディープなことをしているぞ!」という感覚を持つのがとても気持ちがいいというタイプだ。

どうもシュタイナーなどにひかれる人は、そういうエネルギータイプが多いような気がする。

シュタイナーそのものは、いろいろと学ぶところが多いものと思うが、私はどうもこのところ、こうした「ワイズワン的エネルギー」を感じてしまって、その点がどうも駄目。シュタイナーの本でも、中には思い切りそういう「深いのめりこみ系」の秘教的書物があるが、私にはどうも正直言うと「こわい」という感覚がしてくる。

また、たとえばオイリュトミーとか、有名なK.A.氏の公演のチラシをもらったのだが、そこで白い衣のようなものを着て飛び上がっている彼の写真があり、まさにエーテル体の可視化という感じだったが、これもとびっきりこわかった。認めないとか批判しているということではなく、ただ私の世界にはあまり入ってきてほしくないエネルギーだった(つまり、自分はトンカツが嫌いだといっても、それはトンカツが好きな人を批判するわけではなく、またトンカツ屋などというものがこの世からなくなってほしいと思っているわけではないのと、同様である)。どうにもこわくてしかたがなかった。これを見に行くというだけではなく、合宿で氏に習うなどという人がいるというのは、私には、レバーを生で1キロ食べるということほど考えられない世界である(私は、レバーが激しく嫌いである)。

もう一つこわかったのは、クローリーのトート・タロットだ。実物を見せられたが、これも3m以内には近づけないエネルギーであった。これを手元に置き、毎日引いているという人のエネルギー構成はどのようになっているのか理解を絶している。

K.A氏、クローリー、いずれも魔術師系であることはいうまでもない。そういう人を中核とした閉鎖的なオカルト集団(オカルトとはネガティブではなく、ニュートラルな意味で用いる)のエネルギーということでは共通している。そこに集まる人々は、かなり昔から「その道」を実践していたであろうことも想像に難くないのである。

こうした秘教集団は限りなく「カルト」に近いが・・結局カルトというのは「あるところで行きどまってしまう閉鎖的神秘主義集団」で、閉鎖的でありながら最終的にはそれを突き抜ける道があるものを、カルトではないオカルト系神秘主義集団、というふうに私は考えている。つまりモンロー的に言えばフォーカス22~24でトラップされてしまうものがカルトで、27以上に抜けられるものはカルトではない。社会的に評価されている大きな宗教だって、トラップされていたらカルトだということでもある。

まあ、こうしたことも、スターパーソン系と、ワイズワン系との根本的なエネルギーの違いであると理解すれば、どちらが正しいということもなく、円満におさまるというわけである(笑)

しかし、最近出てきているミステリーサークルみたいなもの、DSTとか、そういうものには不思議とあまりそういうこわさは感じないのである。もちろん自分でやろうという気はあまりないが・・つまり伝統的な魔術系・秘密結社系とは違った「軽さ」や「明るさ」も感じられる。あまりにも冗談ぽくって笑ってしまうという感じがむしろ健康でもある。しかし伝統的なるシリアスな秘密結社型の人はこういうものをケイベツするかもしれない。そういう「遊び」のエネルギーが許せないかもしれない。しかし、それもまたエネルギーの違いとして明るく受け入れることをおすすめしたいところである。

「人はそれぞれの道を進む」・・ノヴァーリス「ザイスの弟子たち」


※追記
最近は、ヴェレダ製品のパッケージなどに書いてある「シュタイナー系のフォント」さえもちょっと抵抗感を感じてしまって・・かなり重症のようです(^^;

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多次元的拡大とは

多次元的拡大とは・・こちらにいると同時に「あちら」にもいるということ。あちらとはつまり根源の世界ということである。意識の一部があちらに行っている。それは全体の5%か10%くらいかもしれないが、あちらにいる自分を意識している。と同時にこちらの日常世界の中で生きてもいる。それが両方自分だということ。それをつなぐ「ライン」が維持されているということである。「拡大」とは「自覚」ということである。誰しももともと多次元であるが、それを自覚していないだけのことである。

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アース・エンジェル論を吟味する

気になっていたが、ドリーン・バーチューによる「アース・エンジェル」の本を読む機会があった。

この本はつまり、もともと地球ではなかったところから地球に転生した人々、つまり、天使(高次領域)、エレメンタル(自然霊)、スターピープル(地球以外の星)に、ウォークイン(魂が入れ替わる)、ワイズワン(もと魔女・魔術師、シャーマンなど)の説明がなされている。

なかなか読み物としてはおもしろい。これは「霊的タイプ論」ではないかと思った。つまり心理的なタイプ論のスピリチュアル・バージョンで、自分はどのタイプにあてはまるか、と考えると面白いし、また、自分とタイプの違うものがあることを受け入れるということにもつながる。

しかしもちろんバーチューさんのアース・エンジェル論が100%正しい情報だということはないようにも思った。もちろん完全なでたらめではなく、それなりに彼女の超感覚に見えたところから来ているので、何らかの真実性はそこに含まれてはいるだろうと思う。

これを考える前提として、私の霊的哲学では次のようなヴィジョンがある。


  • 宇宙にはさまざまな世界領域があり、地球的現実はその中のほんの一つにすぎない。また地球は決して宇宙の中心でもなく、最も先進的な領域でもない。むしろ辺境かもしれない。しかし、ユニークな領域である。

  • 魂(生命)は究極的には宇宙の根源から発しているが、個別性を有する魂としては、さまざまな世界領域に居住している。

  • 魂は、それぞれの世界領域にふさわしい感覚機能を発達させることにより、それぞれの領域において主観・客観の認識構造を有する。

  • 魂は、前項の感覚機能形成を、時間的・空間的なひろがりにおいて、多様に展開させうる。この結果、魂はいわばその「分魂」を生じることになり、それを時間という軸から見るならば「転生」として理解されうる。その展開は、それぞれの世界領域における経験を蓄積し、魂が根源に帰還するためのトレーニングとしての意味がある。(この考えはほぼ唯識と同じ)

  • 前項の「転生」は、単一の世界領域において生起するとは限らず、多様な世界領域にまたがり展開することは、当然ありうる。

以上のことはいま初めて言ったことではなく、すでに著書で書いてしまっていることである。それに気がつかないのは、読んでいないのか、理解していないのかのいずれかである。このことははっきり書いてあるのだ。ブログは読むがなかなか本は読まない「懲りない面々」も多いですからね(笑)

べつに、これが真理ですよというわけではない。これもあくまで相対的な真実である。しかし地球人の現在という点から見て、これが「よりよい相対的な真実」ではなかろうかと私は考えている、ということだ。そう考えない人は駄目だと言っているわけではない。宇宙人から見ればこの考え方もたぶん虚妄とも見えよう。しかし、なぜ「よりよい」のかというと、いままでの世界ヴィジョンは、「宇宙は多数の世界領域によって構成されている」ということをはっきりと言い表してはいないからだ。伝統哲学にはあったそのヴィジョンは近代に全く失われてしまったが、そのような多重多次元の無数の諸世界が交織されているものとして宇宙を理解することが、いまいちばん必要なヴィジョンだと考えるからである。

それはともあれ、上記の宇宙ヴィジョンからして、地球外の領域から地球領域に転生することがあり得ない話ではない、つまり論理的に排除する必要がないことは容易に見て取れるであろう。あるいは、あまり地球領域に転生することがなく、他の世界領域での転生が多かったというケースも十分考えられることになる。

したがってバーチューさんのヴィジョンがある真実をついているところがないわけではない。ただ彼女の論は、わかりやすくするためなのか知らないが、どうも、魂が単一のものとしてあっちへ入ったりこっちへ行ったりしているかのように書いてあるような印象を受ける。しかし、これは分魂ということを視野に入れていない書き方だ。実際は、魂の本体部分はある世界領域にいるのに(つまり天使かスターピープルだ)、その一部が地球に転生してシャーマンやヒーリングアートに関わる(つまりワイズワン)というようなことだってあっておかしくない。星から地球に来ているとしても、全部来ているわけではなく、ある部分はその星にまだいる、つまり同時存在しているというのがそういう場合の存在形態ではないのだろうか。

だからたぶん、自分の魂といってもそれは想像以上の広がりを持っているもので、その根源をたどれば何らかの地球外世界領域と何もつながりを持っていない地球人などいないだろうと思う。生命は地球で生まれたわけではなく、地球外から到来しているものだ(これはプラトン的思想の根幹である)。ただ現時点での意識の活性化、フォーカスにおいて、ある特定の部分が活性化しているということかもしれないのである。

つまりバーチューさんの書き方は、わかりやすい反面、単純化しすぎている部分もあるだろうということである。あまり全面的に正しいものとは受け止めず、自分のうちにある記憶を活性化するためのきっかけとして考えればよいのではなかろうか。彼女が、複数のタイプにあてはまる場合の解釈として提示しているのも、私はそうかな? と思う。魂とは複数領域に同時に展開するものであるので、そういう複数タイプも当然ありえるだろうと思うが? また、天使と宇宙人というのは、私にはその区別はかなり相対的であるように思われる。そもそも地球よりも高次元の世界領域に居住するということなら、それは同じことでは?

それからウォークインについては私はよくわからないが、五井昌久師は、もとの五井昌久はいなくなってかわりに神霊が入っていると自分で語っていて、それが真実だとすればそれはウォークインの一例ということになるだろう。これも全くあり得ない話ではないと思う。

ちなみにこの本によれば私はもろにスターピープルである(笑) ワイズワンかと思ったら意外にもそういう要素は少なかった。

やっぱりそうか・・(何の話だ?? 笑)

なんか、ここまで話していいんかい! という気もしないでもないが・・


1401900488Earth Angels: A Pocket Guide for Incarnated Angels, Elementals, Starpeople, Walk-Ins, and Wizards
Doreen Virtue
Hay House Inc 2002-08

なぜ翻訳がないのだろう? 売れると思うが・・

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記憶を取り戻す

そういえばかなり前、「ぼくの地球を守って」というマンガがあった。江原サンもまだ登場していないころである。

それは、数名の高校生の男女が、前世では宇宙人で、宇宙船に一緒に乗っていたという記憶を徐々に思い出していく、という話である。

なかなか・・この、少しずつ思い出していくという過程が、かなりリアルに感じられる今日この頃であるのだが・・(笑) とはいっても、このマンガでは宇宙人とはいえ感情・心理は完全に地球人と同じなので、ほんとうの「宇宙人」を描いているわけではない。

ただその、記憶をひもといて、いろいろな人との関係があらわになっていくというプロセスが、時代を先取りしていたというか、妙なリアリティを持っているように思われるのだ。

今後は、「自分が地球人ではなかった時の記憶」を思い出す人も増えてくるんだろうか?(笑)

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私は宇宙人!?(笑)

前に、「私は行こうとしているのだから」などと書いたことがあるが、気がついてみれば、私はすでにそこにいるのだった。だから、行くということも必要がないのである。私はそこにあり、また同時にここにいるという、その同時的、多次元的な存在という現象をそのままに受け入れればよいことなのであった。

それはべつに私だけというわけではない。地球にいる人間はみな、ただ地球のみに生きている存在ではない。誰も皆、地球に来ているのはその一部にしかすぎず、その本体の部分は宇宙の別の領域にあるのである。ただ、その別の領域というのは、皆が同じというわけではない。けっこういろいろであるらしいのである。もちろん究極的な根源としては同じであろうが、現実としては(どういう意味で「現実」なのかは微妙だが)、究極ではないが、地球よりは高次元にある世界領域がいろいろあって、その一つに住んでいるというのが一般的な存在状態(として自覚されているもの)であろう。

つまり、私はたしかに地球人であるが、同時に宇宙人でもあるのだ。それが、根本的な現実である。私の故郷は、銀河の奥の方にある。これは私にとってはぶっ飛びではない。「私が生まれたところはさいたま市ですよ」というのと次元の差があるだけで、同一の現実の中にあることなのである。

だれしも本体的には宇宙人なのですよ。だって、魂が生産されているのは地球ではないのですからね・・すべての魂は「地球に来ている」のである。

「未知との遭遇」や「E.T.」のような作品が「宇宙的郷愁」を刺激するのも、そうした根本感情に触れるからである。

魂は「かしこ」から地球に来ている・・これはプラトン派の根本的な直観であった。たぶんこの時代の人は、自分がどこから来たのか漠然とした記憶を保っていたのだろう。

地球的現実と宇宙的現実とのあまりの落差に圧倒され、地球が恐くなり、こちらに来た目的を見失ってしまったのが「グノーシス派」の人々である。

キリストは、地球領域と高次領域とのラインをあらためて確保し、「ここにいるが、かしこに属している」という魂本来のあり方を思い出させようとしたのだ。そのために高次領域から派遣されたのである。

以上のことはプラトン-キリスト教のラインにおける古代思想ではかなり明確に理解されていたことがらである。
その後、キリスト教はその本質を見失いがちになったが。

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エネルギーシフト

ここでは、あまり細々したことを書くわけにはいかない。だが・・

10月上旬に、一つゲートを開いたのはすでに書いたところだが、昨日のワークでは、「自分がかつてどこにいたか」をきわめて明確に思い出した。私は、地球上に生きているが同時存在的に「そちら」にも存在していることがはっきりとしてきた。おそらくこのことは、これ以降、私の意識上から消えることはないだろう。それはまた、地球上での存在が終わったあと、「どこへ行くのか」をも明確に思い出したということを意味している。

いまはまだ、これ以上は書くことができないが、更なるエネルギーシフトがやってきている。

何度も書いているように、私にとってはすべてが現実であり、連続したものであって、およそ世界とは多次元であるのがあたりまえであるので、何も「ぶっ飛び」というものはないのであるが・・ここまでのことは、さすがに現在の地球人類の認識している世界モデルとはかなりギャップがあることもわかるわけで、ブライアン・ワイス博士が初めて本を出したときの葛藤とはどのようなものであったか、想像できるのである。

しかしいずれは「言い表す」ことが必要となる時期も来るのだろう。

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霊的弁別

よく、「すべて必要なものは自分の中にある」といわれるが・・

これは言うまでもなく正しい。大原則である。しかしながらこれは、「すべて必要なものは自分で作ることができる」という意味ではない。

現実的には「必要なものを自分で選ぶ」という形になることが多い。

「すべては自分の中にある」は原則だが、実際にはそれだけで霊的な道を歩むことができるわけではない。こういう言葉だけで満足してしまうのは、要するに教養神秘主義、ペーパー神秘主義のたぐいである。学者などには、こういうわかりきったことだけを本で書いたり、シンポジウムでしゃべったりしている人もまだいるが、もはや世はそのレベルのものを求めているわけではないのである。

つまり、実際には、「先人が切り開いた道をたどっていく」ことが霊的な道なのである。独力でそれを開拓することができるくらいなら、そもそも転生などする必要もないくらいである。

たとえばいろいろな瞑想法などが世に広まっている。これらも、もしパワフルなものであれば、それはそれを開拓した人が「上」の次元とのエネルギー回路を開いたということを意味している。力のあるメソードとはそういうエネルギー的なチャージが存在しているものだ。そういう意味においては、それは「宗教」にちがいないのである。伝統的な意味の宗教ではないが、だれか先人のエネルギーによって開かれた道を行く、という意味では宗教的な行為になるのである。であるから、これはあんまりカジュアルに考えるべきことではない。瞑想法などのメソードは、その来歴をよく知って、誰がどういうエネルギーでどこにつながったものであるのか、そういう見当をつけてから参加する方がよいのではないか。

「とにかくやってみればわかる」のはたしかだが、「やってみたらカルトでした」では、エネルギーレベルでの損傷は免れない。盛り場で適当にお店に入ってみて、「入ってみたら暴力バーでした」だって、「やってみればわかる」にはちがいない。どういう結果でも受け入れる覚悟があれば、「とにかくやってみればいい」で進めばよろしいだろう。つまり、やるかどうかは慎重な判断を要する。そこでまったく迷いがないのかどうか。それを見きわめるということである。

もちろんすべてはわからないので直観の部分も多い。しかしそういう、エネルギー的な「サニワ」(霊的弁別)を軽視してはならない、ということである。そして「自分はこのエネルギーを受け入れる」という決断をしてから始めるべきものだと思う。

霊的な道で重要なポイントはそこである。そのことを言っていなくて、「すべては自分の中にある」などという決まり文句以上のものが出てこない人は、あまり体験がないペーパー神秘主義者だと思っていいだろう。「上」の次元とのつながりなしに、何も始まりはしない。

なんか前項で書いたことと一見反対のようだが、実はそうではない。
そういう時代だからこそ、ということである。

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霊的感覚と「不易流行」――クジラさんの指導による??

さて・・このところ、時々クジラさんを身につけている。クジラさんは、あまり強烈でぶっ飛ぶという話もあったが、幸いにぶっ飛んでいない。むしろ波動が合う感じで気持ちよいのだ。

ところで、最近考えるところだが、これはもちろん何らか学問的な話ではまったくない。

このところ地球領域に流れてくる高次元のエネルギーが増しているという話・・これはどう見ても、ある真実が含まれていると思う。量も増しているし、確かに「加速」している。どんどん急になっている。それはこのところ間違いなく感じるところである。これはもちろん、われわれの側の感受性が開けてきている、ということと呼応しているだろう。

霊的成長についての、何らかの高次元における「ルール変更」があったのか? ・・基本的な原則はもちろん変わらないが、「加速」が起こっているのは確かだ。つまり因と果とのタイムラグが、これまでとくらべてすごく短くなっているのかもしれない。それから、このときとばかりの「スペシャルバーゲンセール」のようなことも確かにないではないようにも感じられる。

そもそも臼井先生にしてからが、このシステムの簡単さは、それまでの霊的なシステムの常識を破るものである。

エネルギーを受け取る人の数が増えてくると、ある「臨界点」から急激に加速してくるということは、ピーター・ラッセルなども早くから指摘していたが、どうもそういうことがあるようだ。

思うにここへ来ると、伝統的な修行の完成されたシステムだけをよしとしている考え方だけでは十分でなくなっているようにも思う。そういうふうに伝統のみを高しとして、最近起こってきたニューフェースのメソードを見下ろした気分にひたっていると、あっという間に一気に抜き去られてしまうこともあり得るだろう。新しいものが出てくるのは、それなりに理由があるのであって、やはりその時にふさわしい「旬」というのもあるのだ。俳句ではないが「不易流行」である。変わらぬ原則を見ていると同時に、新しく起こったものにもそれなりの意味があることを理解しなくてはいけない。たしかにそこにはガラクタもニセモノも含まれていようが、自分に合ったものを見つければ、信じられないようなスピードで一気に開花するようなこともかなり可能になってきているように感じられる。

やはり、これまでにないまったく新しい時代に入っているのである。だから、これまでの常識だけで判断することはできない。古典によって「大原則」を学び、それを応用して、新しいものから本物を見分ける、ということだろう。

この時代へ来て重要になってきているのは、「他力」コンセプトの復興ということが一つある。これはつまり、「宇宙から差し伸べられている救いの手につかまれ」ということである。もっと具体的にいえばそれは「エネルギー」として受け止められるものである。いわば「救世の大光明」である。そういう力がたしかに来ている、と実感できるということは、理屈ではないのであって、魂の感受力の問題である。それがいまきわめて重要になっているように感じられる。まさにいま、何が来ているのか。それをよく感じてみるということである。

なお、いま書いた文章は、私自身、「なぜそうなのか」ということは、半分もわかっていない(笑) かなり直観で書いている。しかしどうも、これを書けといっているのはもしかするとクジラさんなのかもしれない(大笑)

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モーエンの『純粋な無条件の愛』

最近なんだかぶっ飛び本情報ばかりだが・・いまはモーエンの死後探索シリーズ、『純粋な無条件の愛』を読んでいる。実はこれ、すでに英語で読んでいるのだが、訳が出ているので、もう一度読んでみようと買ったのだが・・やっぱりすごいですね。何が、といえば「情報量」がすごいのだ。向こう側に存在する(らしい)ことをこれでもかと書いてくれる。それが事実かどうかは、自分でそこへ行って確かめればよいことで、多次元的意識に目覚めていない者があれこれ言ってもしょせんは「見えない者の遠吠え」にしかならない。もちろん三次元意識に変換された情報はあくまで参考にしかならないが、それでも、そういう情報が存在するということは受け止めるべきだろうと思う。

モーエンのシリーズは、マイケル・ニュートンの退行催眠による死後世界探索と、こうした「あちら側情報もの」では双璧だろう。坂本さんの本が好きな人はいずれも必読である。

この第三巻は「無条件の愛」の強烈なエネルギーが炸裂しまくりである。いや、そのエネルギーの片鱗は、活字を通しても伝わるものがある。

考えてみると私はもう、「哲学」の中に、学びたいものはあまりない。そういう方法でわかることはもうだいたい、自分ができるところまではやってしまった気がする。もちろんそれをわかりやすく人に伝えるということは別のこととしてあるが、探究としては私にとって哲学という方法は終わったのかもしれない、と感じることがある。私がいま、読んでおもしろいと思うのは、とにかく霊的なエネルギーが現実にそこに入っているという本、そして、これまで人間の意識には閉ざされてきたフロンティアについての「情報」を与えてくれる本である。モーエンのこの第三巻には、その両方があるのだから、私にとってこれ以上に面白い本は、今の時代にはあまり存在していないと言うこともできるだろう。

問題は、これまで閉ざされてきた「多次元への門」を押し開くことではなかろうか。それが優先課題でなければならない。

4892955566純粋な無条件の愛
ブルース・モーエン 塩崎 麻彩子
ハート出版 2007-04

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激烈なるチャクラ覚醒体験記

この前、激烈な体験記を紹介したが、もう一つ激烈といえば、これかなあ・・

4774506508天啓気療―病を改善し、魂を救済する、自然法則に基づいた愛のヒーリング
北沢 勇人
現代書林 2005-01

クンダリニー・チャクラ覚醒体験記である。クンダリニー・チャクラ覚醒ということでいえば、このほかに日本語で読めるものは、本山博師のものである。北沢氏と本山氏の体験を比較すると、かなり類似点が見出される。それから翻訳物では、ゴーピ・クリシュナのものがあったと思う。クリシュナさんのは、かなり危ない体験であった。

英語では、グリーンウェルによる、クンダリニー覚醒をスピリチュアル・エマージェンシーという観点からまとめた本がある。これは特別に修行などしていなくて、自然に覚醒が始まってしまった人の体験がむしろ中心である。こちらはSEの文献としては古典的なものとされている。

クンダリニー覚醒には非常な危険が伴うことはご承知の通りで、「ちゃんとした師」につくことが推奨されるのも、「いざというとき」に対応できる能力がある人は、限られるからである。万々が一、クンダリニーがいきなり暴走し始めて途方に暮れている人がこのページを見ていたら、先に挙げた北沢さん、本山さんは何とかしてくれるかもしれない、との情報を受け取ってもらいたい。その他にもいるのだろうが私は知らない。グリーンウェルもいろいろと対処法を述べているが、結局のところは、自分もその体験をくぐり抜け、ある程度まで達した人でなければ根本的な解決はできないのである。そこまでの人は、なかなかいないものである。

またチャクラ覚醒法というヨーガの技法があって、本山氏が教えているが、正直言うとこれは、よっぽど本山氏に縁のある人でないかぎり、一般の人はあまり近づかない方が無難かもしれない。やはり、危険な行法なのである。いざとなれば会社をやめ、家族を捨てるくらいの覚悟がないと続けられない。もともとこれは、道場で修行する出家者のために作られた行法であって、危険な時期には、道場という物質的な環境と、師匠の霊的な力で保護されるという環境を前提とするからである。

私は、この伝統的なクンダリニー・ヨーガの行法体系は、基本的に現代人には無理だと考えている。エネルギー的にいうと「下から上へ」という方向がどうかと思う。むしろ現代では「上から下へ」という流れを基本としたほうが危険が少ないのではないか。シュリ・オーロビンドも、上から下への方向を推奨していた(内藤景代氏も)。もちろん本山氏も、第一・第二と同時に第六(第三の眼)のチャクラを目覚めさせないと危ない、ということは言っていて、バランスを考えた教え方にはなってはいる。しかし、クンダリニーを動かして上へ突き抜かせるという基本は同じだし、それはよほどの覚悟がないとできないということは事実である。

北沢氏は、瞑想のやり方として、頭の上方からエネルギーが降りてくるようなイメージの方法をすすめているが、私もそちらの方が普通の人にはよいように思う。これには更に理由があって、現在、このように上方から降りてくるエネルギーが、十数年前に比べて格段に拡大しているという状況があるらしいということもある。クンダリニーの覚醒というのは、重力離脱のためのロケットを点火させるということだが、今ではむしろ、上方から引き上げる力が増しているので、それに乗っていく方がずっと楽だし、危なくないのではないか、などとも思う。そういう過激なやり方が必要だったのは、それだけ「離脱」のためのエネルギーが必要だったという地球の状況があったからで、今はその地球のエネルギー状態が変化していて、そこまでの大きなロケットは必要としなくなっている、という見方はできないものであろうか。

ともあれ、北沢さんの本は「資料」としてお読みください。

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封印が解かれた?

こちらの本を読んだが、かなり激烈でした。これは、「普通のお父さん」だった人が、好奇心からヘミシンクのワークに出たことがきっかけで、激烈な霊的プロセスが始まってしまった体験をつづったものである。ハイヤーセルフとの合体やら、すごいことがいろいろ出てくるが、このブログを読むほどの人は、想像外の世界ではないであろう。それにしても、時代のエネルギーが急速に変化していることを実感する。この本の背後には、これとほとんど同じような体験をしている人がいったい何人いるのであろうか。実感として感じるのは「この頃ますます加速する一方だ」ということだ。どうなってしまうのか?

やはり「あの情報」には何らかの根拠があるのか? 地球のエネルギーが変動していることには異論の唱えようもない。こうした霊的変容は、ものすごい勢いで拡大している。

つまり、この前も書いたが、「過去には相当な修行をしないと出てこなかったプロセスが、いとも簡単に起こるようになっている」ということだ。ヘミシンクとは、一つのツールにすぎないものだが、これも「過去には大変苦労しないとできなかったことがわりと簡単にできるようになる」という意味を持っているわけで、その点でレイキなどとも共通しているわけだろう。それはやはり、比喩的に言えば、封印が解けたということにならないか? それは何らかの、高次の意志によるものなのか?

4828413421ヘミシンクで起きた驚愕の「前世体験」
鈴木 啓介
ビジネス社 2007-03-26

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坂本政道さんの超ぶっ飛び新刊本

坂本政道さんの新刊。
いやはやまたぶっ飛びエンターテインメントだった(笑)
死後体験シリーズ3までを読んでいなくていきなりこれを読むと、狂気の書としか思われないでしょう(笑)

私がこの本に目を通しての反応は、まず、爆笑・哄笑だった。
もちろんその内容をばかにしての「嘲笑」ではない。内容については「そういう情報もあるか」ということで、肯定も否定もするつもりはない。ここでいうのは、なぜかこの本は「楽しく、明るくなる」ということである。その意味での爆笑・哄笑である。つまりそこには何らか、精神が解放された感覚がともなっている。このぶっ飛びに接していると、もう細かいことはどうでもいいじゃん! という、オープンな開放感がわき起こってくるのである。もしかしてニーチェが理想としたのはこういう哄笑ではなかったのか(ニーチェ自身の笑いは一種のひきつりや毒を伴うことが多かったようだが)。

いや~とんでもない話ですね(爆) ――という感じだ。
どうしてもそこにみなぎっている「楽しさ」の感覚が印象的だ。

それが「本物」かどうかなどということを、私に聞かないでほしい。私はそういうことを述べるつもりはない。それは各人で判断することである。
ただ言えるのは、モンロー研にも役割があるし、また坂本さんもしかるべき理由があってこういうことをやっている、ということだ。

地球に無条件の愛のエネルギーが注がれているということは、疑うことはできない。もちろん、それが注がれていなかった、などという時代はなかったのだと思う。
ただ、これまでは相当に厳しい修行をしなければ達せられなかった意識状態に、普通の人がかなり簡単に行けるようになっているという変化があるのは事実である。
そこへ行った人が増えれば、行きやすくなるということのほかに、サポートのエネルギーも増大していることも、事実のようである。地球上においていろいろなことが起こっている。モンロー研や坂本さんも、大きな経綸の一環としてある。

近代の知的世界では「地球外知性体との交渉」というテーマは最も強いタブーなので、知識人たちは黙して語らないであろう(ひそかに読んでる人もいるかもしれないが)。読んだことをはっきり書くのは私くらいなものである。これはあくまで情報の一つとして理解すべきだと思うが、ともかくここに漂っている明るいエネルギーに印象を受けたので、あえて書いてみたのである。エネルギーグッズとしてなかなか優れているかもしれない。意識の制限を自由にする効能は、あるように思える。

『かもめのジョナサン』のラストシーンを思い出して、こう言ってみたくなる。

――「無限」なんですね? マサさん。

4892955736「臨死体験」を超える死後体験 4 - 2012人類大転換
坂本 政道
ハート出版 2007-08

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占いについて

このところ、記事のカテゴリーとしては「思想関係」がほとんどである。以前は「スピリチュアル系」や「ヒーリング」というのが多くて、これは要するに「実践的」な内容になっていた。ある時期から、あまりそういう内容を公開しないことにして、そのためアクセス数は若干減っている。しかしまあ霊性思想が本道であるので、本当にそれに関心を持つ人だけ読んでくれればいいとも思う。が、きょうは久々に「スピ系」である。

このところタロット占い希望者が殺到しており大変である。というのも誰かを占うと、その友達や同級生へ口コミで広まるので、来るときには次々と来るという状況になることが時々ある。

かの大沼忠弘センセはカモワンタロットの大家になってタロット講座を開いているようであるが、私はそのように、タロットの魔術性にのめり込んでいるわけではない。はっきり言えばタロットの魔術性などまったく信じないと仮定しても占いはできるのである。

ユング心理学では易やタロットなどがしばしば使用されるのは周知のことで、フォン・フランツには『偶然の一致の心理学』という占いを扱った本もある。占いというのは古代的には、そこに個人の意志を超えた何か大きなものが入りこんでくるというプロセスを設定することであるが、古代では「神々」と考えていたものをユング心理学では「無意識」に置き換えるということである。

つまりほかならぬあるカードを選んだということには何か「神意」があるのか、どうなのか。それは「おみくじ」にも言えることであろう。そのような「個人を超えた大きな意志」の働きを絶対に信じない人は、占いはやらない。そういう意志があるかもしれないし、ないかもしれないが、少なくともそういう可能性にオープンである人が、占いをやってみようと思いつくのである。

なおここで、占いといっても、易やタロットのように「偶然性」を基本とするものと、占星術のように、その人によってあらかじめ規定されていることがらを「読む」ことに重点があるものとは、区別して扱うべきではないかと思う。

占星術はあらかじめ規定されているものを読むので、人の運命は基本的に星によって決まっているのかという世界観になる。そこでプロティノスやフィチーノなどの古代・ルネサンスの哲学者には、星の影響は認めるとしても(それはルネサンスまでの常識だった)、星に運命が規定されているという考え方にはほとんど否定的だった。フィチーノのいわゆる「魔術」というのは、たとえば土星の影響が強すぎるときは、土星の力を和らげるようなエネルギーを持つもの(石や薬草とか)を使ってそれを中和していくことができる、と考えられたわけである。このように「人は自分の運命を変えられる」という考えがルネサンスに出てきた考えだが、それは理性的というよりは「魔術的」な発想である。私なら、ここで魔術というのは「微細エネルギーと宇宙の照応の原則を用いた『魂のテクノロジー』」と呼ぶであろう。

さて、私の占いは当たるのだろうか? という問いだが、実はこういう問いには意味がない。私は、「あなたの母方のおばあさんは二年前に亡くなっていますね」などということを当てるわけではないのである。つまり反証可能な事実について何かを述べるわけではない。そういうことがわかるとしたらそれは霊能力ということになり、そういう「当て方」をする人は、占いの技術そのものより自分の持っている霊能力を用いているのである。「あなたは自分の感情をブロックしているところがありますね」とか「あなたは直観やイマジネーションを用いる職業に向いています」というようなことは、解釈学の地平に属することで、科学的反証が不可能なことである。つまりこの場合、「あたる」というのは、占ってもらった人が「当たったと感じた」ということが「当たる」という意味なのである。反証可能な事実について述べないものには「当たる・当たらない」の判断は客観的には成立しない。その意味で言えば、「ユング心理学は当たるのですか」という問いにも意味がないことになる。それも、クライアントが「なるほど」と思うか思わないか、セラピストが「うまくいった」と思うか思わないか、というはなはだ主観的、せいぜい言って「間主観的」なことがらである。そういう意味でいって、私の占いは、占ってもらった人が「当たったと感じた」という確率は80%以上であるとは言えるだろう。人間のもつ知的技術の中で、「当たる・当たらない」を客観的に決められる部分というのは実はそれほど多くはなく、多くはこうした、間主観的に成立するはなはだあいまいさを含む知であるのかもしれない。

学者などは占いを「失敗した疑似科学」などととらえたがるが、実際に占いというものをやってみて「当たると感じる」とはどういうことかを体験すれば、占いとは科学よりもカウンセリングに近い行為であることは明瞭であろう。たとえば同じカードが出れば常に同じ意味に解釈するわけではないのでる。それはその人、状況によって、ある幅の中で無数の選択肢がある。占いとは基本的に「カウンセリング+エンターテインメント」であると思う。エンターテインメントというのは「宇宙との戯れ」ということである。宇宙との戯れという環境を設定することによって、クライアントがふだんは奥にしまってある感情を表に出してくるケースがよくあり、占う人はそれを鋭敏に察知して、それを解釈の中に取り入れていくのである。そのように相手の微妙なプロセス(ミンデルのいう二次プロセスか)を読むことが重要である。その意味でプロセスワークにはなはだ近いようにも感じる。いろいろ表に出していけるのは、それ全体が「遊び」であるという設定によるところも大きいと思う。だから占いはあくまで占いであって、科学のようなステイタスを望んではその本質が失われるだろう。あくまで「ほの暗い領域」に存在するということ自体が重要なのである。

なお参考までに、私が使用するのは基本的に Radiant Rider-Waite である。参考書としていちばん信頼しているのはバニングさんの Learning the Tarot である。あと占いをやるにはカウンセリングの本も少し読むべきだと思う。

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『シャーマンズボディ』はすごいかも

ミンデルの『シャーマンズボディ』精読中。

はっきり言うが、これは稀代の名著だと思う。ミンデルの他の本と違っているのは、ここではミンデルはかなり「個人モード」ではないかと思えるのだ。つまり、自分自身にとっての探求の過程としてこの本を書いている、という感じなのだ。

ミンデルは、つまり本来の自己とはドリーミングボディなのだ、というわけだろう。つまりこれはわかりやすく言えば「魂」だということになる。逆に言えばここなどで私が「魂」という語で言っているのは、ミンデルのいうドリーミングボディのことである。

その、魂の考えていること、魂が目指している生とは、現在の自覚における「私」の考えとは違っているということ。つまり魂(ドリーミングボディ)の動きは、表層的な自己にはうかがい知れない深みとして感じられるということだ。

ミンデルは、そうした魂次元の自己を受け入れ、それに委ねていくことをシャーマン的な戦士の道として理解しているように見える。

先にこれはミンデルの「個人モード」が入っていると書いたのは、この本で語られているのは、もっぱら、「魂次元でのプロセスが始まってしまった人」の話だという意味もある。つまり、深い部分で動き始め、いやおうなく「そちらの方向」へ行くことになってしまった人は、どのような心構えで、どのようなスキルを身につけて、その旅を全うしていけばよいのか、ということが語られている本なのである。

その視点でいくと、ここまでビシビシと的をついた叙述が次々と出てくるのは驚嘆もので、その「知恵」のレベルの高さは相当なものである。つまり、ミンデル自身も相当に「入りこんだ人」であることが明白である。

そのように「魂の旅が始まってしまった人」は、古代のシャーマニズムから何を学ぶことができるのか、という本であるわけで、これはこの上なくプラクティカルである。ここまでプラクティカルだというのはそんなにあることではない。「魂の意図」を感じ取る、微細次元の自覚を高めることについてさまざまに語られている。

この『シャーマンズボディ』は、自分自身が「プロセス」に入ってしまった人には、びしびしと身にしみて響いてくる本である。そうでない人には、この本がいかにすごいことを書いているか、よくわからないかもしれない。

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江原啓之「神紀行」シリーズ

ひきつづき、江原さんの神紀行、他の巻も買ってしまった。まあ、最近あんまり読むものがないというのもあるんだけど・・ 分量的には少ないので根性ある人は立ち読みでも読めないこともない。ただ神社の写真などが、けっこう波動を伝えるので、そういうエネルギ